月に黒猫 朱雀の華

五の二 過去との対峙

――廃墟としか言いようがないな。
 己が屋敷が在った場所を見回し、嘉神は思った。
 屋敷の形はまるでない。かろうじてぼろぼろになった床が残っているだけだ。
 もっとも、ここまで屋敷を破壊したのは嘉神自身なのであるが。
――封印の要はこの屋敷にあった……だが、地獄門はもはやこの地からは解き放たれた……
 床に薄く残った、地獄門開放のための魔法陣を見下ろす。意識を集中し、常世の力から離れ、時を隔てて今では遠ざかったあの時の己の感情、思考を辿っていく――

『我が“朱雀”の名のもとに……
 いにしえの境界を開かん』

『……もう少しで舞台の幕が上がる……
 人間どもの終焉となる、舞台の幕が……』
 首筋の刀傷に手をやりながら、嘉神はニヤリと笑った。
 開きはじめた地獄門から嘉神に流れ込んでくる溢れんばかりの力と知識。気を緩めれば許容量を超え、嘉神自身をも破壊してしまわんばかりの力。
 この力が、知識が在れば人を滅ぼし、現世に完全なる秩序を打ち立てることが出来る。
 それを司るのはこの自分、嘉神慎之介。
 己が秩序を司り、意のままに世界を統べる――それはなんと――

――愚かなことか!

 表情を歪め、嘉神は床の魔法陣から目を逸らした。
 いつの間にかあの時と同じように、首筋の傷痕に触れていた手を下ろし、拳を握る。
――あの力に、私は、酔っていた……何が人の醜さだ。何が人の愚かさだ。愚かで醜いのは、私の方ではないか……
 世界の浄化を望んだのではない、己は、嘉神慎之介は強大な力に酔い、己が意のままに世界を変えることを望んでいた。
 人の醜さ、愚かさに絶望し、人を疎んじた嘉神の中にあった野望は、人と何ら変わらぬエゴの固まり。
 常世の力が無くなり、時をおいてようやく気づいた己の醜さに、嘉神はうちひしがれる。
――私は、自らの弱さに気づかず……常世に無様に踊らされていただけなのか……

「…………」
 無言で嘉神を見つめていたレンが、静かに動いた。りりん、と鈴の音が響く。

――……なん、だ……?
 手首に温もりを感じ、嘉神は自己嫌悪に落ち込みかけていた意識をかろうじて引きずりあげた。
「レン……」
 レンが、嘉神の両の手首を握っていた。手袋に覆われた嘉神の手ではなく、直に肌に触れられる手首を。
 嘉神を見上げ、くん、とレンはその手を下に引く。一度だけではなく、二度、三度。
「な、なんだ……?」
 レンの手を振り払うことが出来ず、引っ張られるままに嘉神はその場に片膝をついた。
「どうしたと、いう……」
 嘉神の言葉の続きは、思いもかけぬ事態に途切れていた。
 レンが、小さな少女が、嘉神をその胸に抱きしめたから。
 あまりの驚きに嘉神の思考はうまく働かなくなっていたが、ただ、あたたかいということは感じていた。
――……ひとは、こんなに……あたたかかった……のか……
 遠い昔には知っていた、身近にあった気がするそのぬくもりは戸惑いを覚えるほどに心地よい。
 ぬくもりが、レンが、自分の弱さ、愚かさ、醜さ、全て包み込んでくれる気になってしまう。
 嘉神の碧い眼から涙が溢れた。反射的に唇を噛んで嗚咽を堪える。
「…………」
 レンの嘉神を抱く腕に力がこもる。
 その腕に構わないと言われた気がした。
――都合の良い、とらえ方だ……
 そう自分の思考を判断しつつも、嘉神はレンの腕の中から抜け出ることが出来ない。そんな意志も力も、消え失せていた。
 今は、このぬくもりにすがっていなければ、自分を支えることが出来ない気さえしている。
「すま……ない……」
 掠れた声でそう言うのが精一杯だった

 嘉神慎之介は、レンの腕の中で声を殺して泣いた。
 

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