月に黒猫 朱雀の華

三の七 なんでもない人の日常・その7

 バス停まで、15分ほど歩くことになった。案外近くにいたらしい。
 バス停に着くと丁度バスがやってくるのが見えた。
「あれに乗れば、モリガンさんの家に行けますよ」
「そうか。世話になった」
「いいえ。気をつけて帰ってくださいね」
 にっこりと笑ってさつきは言う。
「嬉しそうだな」
「だって、無事に人の役に立てたのって結構久しぶりで……あ、いいえ、平和なのが一番、なんですけどね」
 そう言ってまた微笑んださつきの顔は、少し寂しそうだった。

 バスが、止まる。

 開いた後部ドアから何人か乗客が降りてくる。
 前部ドアのステップに足をかけた嘉神に、さつきは手を振った。
「じゃあ、嘉神さん、さようなら」
「あぁ。
 弓塚、この町には……夜に生きる者を狩る者がいる。気をつけることだ」
 あのダークハンターのことを思い出し、嘉神はさつきに警告した。吸血鬼とはいえこの少女があの男に狩られてしまうのは、忍びなかった。
「はい、ありがとうございます。気をつけます」
 頷いたさつきの声は、真剣みを帯びていた。どうやら彼女もダークハンターのことは知っているようだ。
「でも大丈夫です。路地裏同盟の友達がいますし、それに……」
 何故かさつきの頬が染まる。
「とにかく大丈夫ですから」
「そうか。
 では、な」
「はい」
 さつきがそう言うのと同時に、ドアが閉まった。


「…………」
 バスには嘉神以外の乗客はほんの数人だった。傷んだコートを着ている嘉神に気を払う者はいない。
 適当な座席に座ると、小さく息をついた。
――なにやら……慌ただしい一日だったな……
 たまたま乗ったバスで京堂扇奈に会い、適当にバスを降りれば通り魔に遭った。
 更にそこから何も考えずに歩けば、半人半魔のダークハンターや地獄門より生み出された者や人獣に会い、最後には吸血鬼の少女に会った。
――一日で起きるには少し多すぎないか……それとも……
 走るバスの窓から夜の空を見る。今宵の空には雲はない。月が、明るく輝いている。真円から少し欠けて見える月は、十六夜か。
 そして、夜の闇よりなお濃き陰――地獄門も、見える。
――あれに気づかずにのうのうと日々を過ごしていたツケでも回ってきたか……
 空を見上げる嘉神の目がすっと細くなる。
――地獄門……あれが開けば、現世に生きるものは皆死に絶える……
 現世を求める負の思念は、その強すぎる欲望故に現世を食い荒らし、破滅させる。それは人のエゴ、醜さの終着点。
 嘉神が何よりも憎み、忌み嫌うもの。
――だが……
 今日会った者たちのことを嘉神は思い出す。
 他人のために迷わず剣を抜いた扇奈と扇奈に礼を言った子供達。
 常世の者でありながら人を思うことを知っていた刹那と刹那を思う久那妓。
 吸血鬼と化しながらも、懸命に明るく生きるさつき。
 彼らが見せたのは、紛れもなく人の善性、ではないのか。
――人の善……人の美しさ……か……
「次は、アーンスランド邸〜アーンスランド邸〜
 お降りの方は、降車ボタンをお押しください〜」
 嘉神の思考の終わりを告げるように、車内アナウンスが響く。
「…………」
 嘉神は手を伸ばし、ボタンを押した。


 明かり一つ無いバス停に、小さな影が一つ。
「…………」
 バスから降りた嘉神に、鈴の音と共に駆け寄る。
「レン?」
「…………」
 無言でレンは嘉神の手を取る。
 ぐい。
 いつものように一方的に引っ張って、歩き出す。
 心なしか、いつもよりその力が強いように嘉神は感じた。
「ずっと、待っていたのか?」
「…………」
 レンはやはり答えない。
 だが嘉神の手を握るレンの小さな手に、ぎゅっと力がこもった。
         三・終
 

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