月に黒猫 朱雀の華

三の六 なんでもない人の日常・その6

 刹那と久那妓と別れてからしばらく―おそらくは小一時間ほど―歩いて、嘉神は足を止めた。
「ふむ……」
 周囲を見回してみる。
 日は傾き、薄暗くなってきた。空気も肌寒さを帯び始めている。
――ふむ……間違いなさそうだ。
 もう一度、嘉神は周囲を見回す。

――迷ったな、これは。

 知りもしない町の停留所で降りて、適当に歩いてきたのだ。むしろ迷わない方がおかしい。
――来た道を引き返せば、降りた停留所に戻れると思ったのだが……どこかで道を覚え違えたか。
 どうしたものかと嘉神は考え込んだ。
 むやみに進んでも仕方がないが、ここから引き返しても大して変わらない。
 更に問題なのは、停留所の名前を嘉神は忘れてしまっているのである。これでは人に聞くこともできない。
 幸いなのはモリガンの屋敷のだいたいの方向は覚えている。
――これで地図でもあればな……
 とはいってもないものは仕方がない。嘉神はもう少し歩くことにした。
「あの、どうしたんですか?」
「ん?」
 掛けられた声に、嘉神は目を向けた。
 いつ現れたのか、両サイドの髪を少しだけくくった髪型の少女がいる。制服と思われる服を着ているから、学生なのだろう。
 しかし。
――この少女も人ではないのか……今日はどういう日だ?
 明らかに人とは異質の気配に気づいた嘉神の視線に気づいたのだろう、少女は慌てた様子で口を開く。
「わ、わたし、怪しい者じゃありません。わたし、弓塚さつきって言います。あなたが困ってる様子だったので……」
「どこから現れた」
「あ、上から」
「上から」
 嘉神は上を見上げてみる。
 住宅街の中を縫うこの道に、上に隠れられそうな場所はない。街路樹はあるが、学生がそんなところに隠れる理由も必然性もないはずだ。
「……あ……あのあの、えと……」
 自分の失言に気づいたのだろう、更にさつきは慌て出す。
「あの、わたし……町のパトロールをしていて……」
――どこまで墓穴を掘れば気が済むのだこの少女は……
 呆れ始めた嘉神の視線に、がっくりとさつきは肩を落とした。
「わかっちゃい……ました……?」
「貴様が人でないことぐらいは」
「うう……」
 さつきは観念したようだった。
「えっと……驚かないで……くださいね?」
 嘉神を上目に見るさつきは全身で「ひどいことはしないでください」と訴えかけている。
「わたし……吸血鬼……なんです……。元は人間なんですけど……ちょっと色々あって……
 で、でも、悪い吸血鬼じゃなくて! 血は一週間に一回、200mlしか飲みませんし!
 吸血鬼の力で、わたし、大好きなこの町を守りたくって」
「それでパトロール、か」
「はい。こう、屋根の上をぴょんぴょんってしながら、毎日見回ってます。
 最近、通り魔とか出てますし……なんだか嫌な感じがするから……
 それで、困ってるあなたに気づいたんです」
「…………」
「……何か、あったんですか? 服、ちょっと傷んでるみたいですし……」
 まだおどおどとしながらもさつきは嘉神に問う。かなり人は好いのだろうと嘉神は判断した。
「これは、今は関係ない。
 ……道に迷ってな」
「そうなんですか! それなら、力になれます!」
 人の役に立てるのがよほど嬉しいらしく、さっきまでのおどおどした様子はどこへやら、さつきは目を輝かせた。
「どこへ行くんですか? あ、その前に、あなたの名前は何ですか?」
「……名は、嘉神慎之介」
 さつきの勢いに、素直に慎之介は名乗っていた。行き先についてはどう言えばいいのか少し悩む。
「この町の北に、大きな屋敷があるのは知っているか?」
「はい、知ってます。モリガンさんの家ですよね?」
「知っているのか」
「はい! ちょっとお世話になったこともあるんですよ。
 嘉神さん、そこに行くんですね? 何で行くんですか? やっぱりバス?」
――あの屋敷にはバスで行くのが普通なのか?
 眉を寄せた嘉神には構わず、さつきは「停留所まで案内しますね!」と元気よく歩き出した。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-