月に黒猫 朱雀の華
三の五 なんでもない人の日常・その5
「おい……」
少女の声に嘉神は振り返る。
「……助けてくれて、ありがと……」
ぶっきらぼうながらも礼を言う少女とは逆に、青年は警戒の目つきで嘉神をじっと見据えていた。
「貴様、朱雀……だな。どういうつもりだ」
「我が美学に従ったまでだ」
「美学……?」
「それより」
怪訝に眉を寄せる青年に歩み寄る。
「地獄門と関わりがある貴様は何者だ?」
「……!」
青年を見下ろして問う嘉神の前に、少女が割って入った。
「お前も、刹那を殺そうとするのか。
今の刹那に殺されるいわれはない!」
小柄な少女は両手を広げて青年――刹那をかばい、真っ直ぐに嘉神を見上げている。
揺るぎない意志の光が少女の目にはある。さっきの男にも負けない強い光だ。だが男とは違い、そこには悲壮さはなかった。
――む……?
ふと、少女の気配に違和感を嘉神は感じた。
人のものに、獣のものが入り交じっている。
――人獣……? 地獄門とは関わりなさそうだが……
「何を黙っている!」
強い少女の声に、嘉神は口を開いた。
「自分で守ったものを殺してしまう趣味はない」
自分の肩を払ってみせる。あの男との戦いで、コートはずいぶんと傷んでしまっていた。代わりはどうしたものかと、頭の片隅で考えてみる。
「だが、見なかったことにはできないのでな。
その者……刹那というのか? 刹那の言う通り、私は朱雀の守護神。
地獄門の向こうのモノとは友好的とは本来は言えない立場だ」
「朱雀の守護神……? お前が?」
少女は目を丸くして嘉神をしげしげと眺めた。
「うむ」
「地獄門を開けようとした?」
「……知っているのか?」
「まあな」
少女は軽く肩をすくめる。
「刹那を助けたのはその所為か」
「それは関係ない」
「……変な奴だな」
「私がどのような人間であろうと、刹那をどうこうする気がないのはわかっただろう」
「あぁ」
頷いた少女は、安心したようだった。表情の険しさが、少し和らぐ。
「話を戻すが……」
「俺が何者か、ということか」
それまで膝をついていた刹那がゆっくりと立ち上がった。抜き身のままだった黒い刃の刀を鞘に戻す。
「刹那……」
「もう大丈夫だ、久那妓」
心配そうに自分を見上げる少女――久那妓の頭に一度手を置くと、刹那は嘉神に視線を向けた。
「俺は、地獄門より生を受けたモノだ。
封印の巫女を殺すのが俺の使命……」
――封印の巫女をか……常世も、動き出していたか。
眉を僅かに寄せた嘉神だったが、
「……だった」
「だった?」
続いた言葉に当惑の声を洩らしていた。
「今はそんなことはどうでもいい。
俺は、俺の問いの答えを見つけた。久那妓が、教えてくれた」
再び久那妓に向けた刹那の目には、優しい光があった。それは守るべきものを知っている者の目だ。
――偽りではなさそうだな。
刹那の眼差しに、その言葉に偽りがないことを嘉神は感じた。
――常世に生を与えられた者でも……人の負の思念から生まれた者でも……こんな目を、するのか……
先程の、刹那を守ろうとした久那妓を、久那妓を救おうとした刹那の声が嘉神の耳に甦る。
「……だが俺が地獄門に生み出されたことは変わらない。だからさっきのような奴が俺を殺しに来る」
「そうか」
「朱雀、お前は本当に俺を殺す気はないのか?」
「ない。その気なら、悠長に話をしたりはせん」
そう言って嘉神は二人に背を向けた。刹那にはおそらく危険はない。彼らへの危機もひとまず去った以上、ここにいる理由はなかった。
「待て」
「……なんだ」
「さっきの礼を言ってなかった。
感謝する。お前のおかげで、久那妓も俺も死なずにすんだ」
「気にするな。次に会う時は……気が変わっているかもしれん……」
「そんなことはない」
嘉神の言葉を否定したのは、久那妓だ。
「お前はそうはならない。刹那の言葉を聞いてくれたお前は、決して」
「……そうであることを、祈ることだな」
再び歩を進めながら嘉神は言う。ちらりと振り返れば、刹那と久那妓が寄り添って嘉神を見送っていた。
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