月に黒猫 朱雀の華

三の三 なんでもない人の日常・その3

 悲鳴は一人のものではなかった。
 女や子供の声がいくつも聞こえてくる。
――どこからだ?
「嘉神さん、こっちです!」
 嘉神より速く悲鳴の方向を把握した扇奈が嘉神の手を取って駆け出す。
「引っ張るな」
 憮然として扇奈の手を払い、その後を嘉神は追った。
 悲鳴の出所は公園だった。遊びに来ていたらしい子供達や親子連れが恐怖も露わにして逃げ惑っている。
 彼らを襲っているのは――幅広の二刀を手にした白髪の男。白目をむいたその眼に正気の色はない。斬人の衝動だけを露わにした凶剣士は、奇声を上げて刃を振りかざす。
「ダ〜レ、に、当たるかなぁッ!?」
 剣の柄と柄をくっつけると、男は勢いよく刃を投げた。
「いけない!」
 扇奈が地を蹴って飛ぶ。その目は正確に刃の軌跡を捉えている。
「ン、ウッヒヒヒッヒヒヒヒヒヒ、女♀にあーたーれェェッ!!!!」
 高速回転する刃が、逃げ惑う一人の女性の背を襲う。
「させません!」
 羽織っていた着物を、大きく扇奈は振るった。ただの布のはずのそれが、男が放った刃をはじき返す。
「お、おおぉっ!? 女♀!? イ、イヒヒッ、斬りがいありそうな、女ァァッ!」
 舞い戻った剣の柄をうまく掴んだ男は、はじき返されたことへの驚きも怒りもなく、むしろ歓喜の声を上げた。
「お、女! 動くなぁぁぁ!!!」
 まるで虫のような動きで、しかし想像以上に素早く男は扇奈に向かって突進する。
 扇奈は動かなかった。動けなかった、ではない。その手は腰の刀に掛けられている。
「京堂扇奈、参ります!」
 叫ぶと同時に抜刀し、扇奈は疾駆した。男が振り上げた刃を軽やかな動きでかいくぐり、一閃。
「フンギャァァァ〜〜、あ〜あ〜、ぬわんちゃって♪」
 絶叫したかに見えた男はニヤリと笑う。振り上げたのは左手の一刀だけ。もう一刀は扇奈の刃を受け止めていた。
「死ねぇぇぇぇl、女♀女ァァッ!」
「いやです♪」
 くるりと扇奈はその身を翻す。ふわりと羽織った着物が風をはらんで膨らむ。それが見事に男の目をくらます――
 
 戦いが終わった時、立っていたのは扇奈だった。

「もう、乱暴は駄目ですよ♪」
 刀を納め、扇奈はにこりと微笑む。完全に伸びた男はその声を聞けるはずもない。
――あの状態で、峰打ちですますか。たいしたものだ……
 扇奈の腕前に舌を巻く嘉神を、扇奈は振り返る。
「嘉神さん、あの人どうしましょう? たぶん、バスの中でおばさん達が言っていた通り魔だと思うんですけど……」
「放っておけ。誰かが警察に連絡しているだろう。それまで目を覚ますこともあるまい」
 嘉神の言葉を裏付けるように、遠くからサイレンが聞こえてくる。本当だ、と扇奈も頷いた。
 これ以上ここにいる必要はないと嘉神は踵を返す。
 その前に、子供達が立っていた。さっき逃げ惑っていた子供達だ。
――……?
「お姉ちゃん、あいつをやっつけてくれてありがとう」
「ありがとう。とっても、とっても恐かったの……」
 口々に礼を言う子供達に、扇奈は微笑んで身をかがめる。
「みんなが無事でよかった♪ 怪我はない?」
「うん。お姉ちゃんは?」
「大丈夫♪ お姉ちゃんは強いんだぞ♪」
「そうだね、お姉ちゃん、とってもかっこよかった!」
――…………
 仲良く言葉を交わす子供達と扇奈の様子に、嘉神は居心地の悪さを感じていた。子供達の無邪気さや、それに応える扇奈の優しさは不快ではない。しかし不快でないが故に却っていたたまれなさに似たものを自分の心に感じるのだ。
「…………」
 逃げるように嘉神は歩き出した。この場にいるのが酷く心苦しい。
「嘉神さん? 嘉神さーん?」
 扇奈の声が聞こえるが嘉神は足を止めない。ただただ一刻も早く、この場を離れたかった。
 

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