月に黒猫 朱雀の華
三の二 なんでもない人の日常・その2
バスの座席はほぼ埋まっていた。嘉神は手近な吊革を掴む。
「最近、通り魔が出てるんですって。恐いわねえ」
「そうらしいわねえ。中には、襲われた人が消えてしまうのもあるんですって」
「嫌な世の中よねえ」
互いに知り合いらしいバスの乗客が話すのを聞くとはなしに聞きながら、嘉神はバスの中を見回した。
――バスに乗るのは初めて、のはずだが……いや、初めてではないか……
バスに揺られ嘉神は思う。
相変わらず、嘉神の中には二つの記憶がある。このMUGEN界で生きてきたという記憶と、ここではない、嘉神の感覚では自分の本来の世界で生きてきた記憶と。
MUGEN界で生きてきた記憶の中では、嘉神はバスに乗ったことがある。
――ジェダの術が解けても、この二つの記憶の理由はわからんか……
バスの窓の外に流れる景色を眺めながら嘉神は思う。
――どちらの世界でも、「私」の選択は同じだったがな。
MUGEN界でも本来の世界でも、嘉神は人に絶望し、地獄門を開き――そして、身を投げた。
――世界がいくつあろうと「嘉神慎之介」の選ぶものが変わらぬのであれば……
「嘉神さん、ですよね♪」
――……!?
誰かに声を掛けられるなど思っていなかっただけに、びくっと嘉神は肩を震わせた。
「あら、びっくりさせちゃいました? でもびっくりしたのは私もですよ♪
まさか嘉神さんがバスに乗ってくるなんて思いませんでしたよ」
「貴様は……」
いつの間に現れたのか、フェリシアのステージを見に行った日に出会った少女が、嘉神の隣に立っていた。あの時と同じようにニコニコと笑みを浮かべている。
「覚えててくれたんですね♪
そういえば名乗ってませんでしたね。私、京堂扇奈っていいます」
「何の用だ」
「そっけないですねえ」
気を悪くした様子もなく京堂扇奈と名乗った少女はクスリと笑った。
「こういう時、普通は「何故私のことを知っていた」とか「貴様は何者だ」とか聞くものじゃないですか?」
「先の答えでも主旨は変わるまい」
「そうですか? でもこう、雰囲気とかノリとか……」
「…………」
「まあ、狙いとか用は全然無いんですけどね♪
予想もしない状態で嘉神さんに会ったんで、思わず声を掛けちゃっただけです♪
……この間も、あんなところで嘉神さんに会うとは思ってなかったんですけどね♪」
――最近、こういう手合いにしか会っていない気がするが気のせいだろうか……
「あと……私が嘉神さんのことを何故知っているかは、秘密です♪
色々事情があるもので♪」
「次は〜無間住宅地〜無間住宅地〜
お降りの方は降車ボタンを……」
最後まで聞かず、嘉神は降車ボタンを押した。
「あれ、ここで降りるんですか?」
「…………」
問いかける扇奈の声は無視する。
元々目的地などない。ここで降りてこのこうるさい少女とさっさと別れてしまいたかった。
バスが止まり、後部ドアが開くと素早く嘉神はバスを降りた。
足早に停留所から離れる。
「待ってくださーい!」
――……なんだと?
後ろから聞こえてくる声に嘉神は眉を寄せた。
――追ってきたのか? 何故?
歩む足を速める。追ってくる足音も速くなる。
十歩歩いて嘉神は諦めた。足を止めて扇奈が追いつくのを待つ。
「待ってくださってありがとうございます♪」
「好きで待ったわけではない」
「でも、待ってくれましたよね♪」
「待たねばいつまでもうるさいだろう」
――レンなら、静かだ。
いつもついて回ってくる無口な少女のことを思い出し――嘉神は当惑した。
――何故レンが出てくる?
なんとなく周囲を見回してみる。当たり前だがレンの姿はない。
――………………
「追いついたら静かになりますよ♪
……嘉神さん? どうしました?」
「……何でもない」
「なんだか寂しそうですよ?」
「そ、そんなことはないっ」
「?」
何故かムキになる嘉神に、扇奈は首を傾げた。しかしすぐににこっと笑う。
「嘉神さんもそんな顔するんですね♪
私、もっと恐い人だと思ってました♪」
「……そうか」
曖昧に頷いて嘉神はまた歩き出す。
誰から何をどう扇奈が聞いたか、実際のところはわからないが、だいたいのところは嘉神にも想像できる。
『地獄門を開き、現世を滅ぼそうとした悪人』
差異はあるだろうがこんなところだろう。
それを聞いた扇奈はしかし、嘉神のことを恐くはないと感じているらしい。
――私は今、どう人の目に映るのだろうな……
今まで考えたこともないことを考える嘉神の耳に、助けを求める悲鳴が聞こえた。
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