月に黒猫 朱雀の華
三の一 なんでもない人の日常・その1
どれぐらい窓の外を眺めていたか――嘉神は踵を返した。
「…………」
ベッドの方を見やる。レンはまだ眠っている。
足音を忍ばせ、嘉神は部屋を出た。
そのまま玄関ホールへ向かい、扉を開ける。
地獄門の存在など嘘のように、外から流れ込む風は心地よかった。
「何処へ行くの? 一人なんて珍しいわね」
外へ出ようとした嘉神の背に、モリガンの声が掛けられた。
「……何処でもよかろう」
振り返らずに嘉神は答える。
「そうね。
なんだか色々あったんですって? ヴァルドールから少し聞いたけど」
「…………」
「貴方に術を掛けた魔族ってジェダでしょ」
「……!」
モリガンの口から出たその名に、屋敷を出ようとした嘉神の足が止まった。
「ほんと、貴方ってわかりやすいわよね」
からかうような響きがモリガンの声にある。
「でもやっかいなのに目をつけられたわねぇ。あいつ、一度目をつけたらしつこいわよ?
一度完膚無きまでに潰したはずなんだけど甦っちゃうぐらいにね」
まったく面倒なこと、とモリガンはぼやく。
「そうか」
「そういう意味では、私も他人事じゃないのだけどね……
ま、とにかく、気をつけなさい? 貴方に何かあったら更に面倒なことになりそうな気がするから」
「……わかった」
頷き、嘉神は改めて外に出ようとする。
「特にレンがね」
狙い澄ましたように、モリガンは言った。
「何故そこでレンの名が出る」
「……フフ……さあね?
いってらっしゃい。あまり遅くならないように、ね」
「…………」
釈然としないものを感じながらも、嘉神は屋敷を後にした。
広い庭を抜けて門をくぐる。門のすぐ傍には、バス停がある。
「…………」
停留所には時刻表もちゃんとついている。それなりの回数、バスはここを通るらしい。
しかし嘉神はバスに乗る気などない。停留所に背を向けてまた歩き出そうとしたその時。
バスが来た。
なんとなく、嘉神はバスを見やる。
バスが止まった。
「………………」
バスの前方のドアが開く。
「乗られますか?」
運転手が、嘉神に問う。
「……………………」
「どうされます?」
無言の嘉神に運転手は重ねて問う。
「……………………」
嘉神はバスに乗った。
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