月に黒猫 朱雀の華
二の六 惑いの目覚め
それは巨大な『力』。
それは異界との『扉』。
そしてそれは忌まわしき負の思念の『結晶』。
常人には知ることはできない。だが、力ある者にはその存在が感じられる。
『地獄門』と呼ばれるその口が、天空に開いていることを。
――……開いて、いたのか……あの日から……ずっと……
朱雀の守護神である嘉神慎之介もまた――否、ようやくというべきか――地獄門の存在を感じ取っていた。
今まで感じられなかったことが信じられない。
――それほどの術か……。ジェダ=ドーマ……危険な存在だ。
ゆっくりと嘉神は目を開き、体を起こした。周囲に視線を巡らせる。そこはモリガンの屋敷で嘉神にあてがわれている部屋のベッドの上だ。気を失った嘉神をタバサ達が運んだのだろう。
「気がつかれましたか?」
「……あぁ」
部屋の隅に置かれた椅子に、魔道学者タバサが座っている。
――…………
更に視線を巡らせば、レンがベッドに頭を預けて眠っていた。
「さっきまで起きていたのですがね。
貴方が気を失っていた丸一昼夜の間、ずっとついていましたよ。
よい使い魔ですね」
「……レンは私の使い魔ではない」
レンの髪を撫でて嘉神は呟く。それでもよほど疲れていたのか、レンは目を覚まさない。
「おや、そうでしたか」
さして驚いた風もなくタバサは頷くと
「解呪は成功しました。
地獄門の気配は感じますか?」
さらりとそう聞いた。
「あぁ。はっきりと感じる。思い出すべきことも思い出せた。感謝する」
「いいえ、高位魔族の術に触れるという経験ができたのです。こちらの方が礼を言いたいくらいですよ」
――やはり学者というものは変わっている……
「それで、いったい何があったのですか?
何故貴方はあのような術を掛けられていたのですか?」
目をきらきらとさせてタバサはたたみかけて質問する。
「……それは……」
嘉神は口ごもった。思い出したとは言え、まだ自分の中で感情の整理がついていない。話すべきこと、秘めておきたいことが混在している。
だがタバサはいっそ無邪気とも言える眼差しで嘉神の答えを待っている。
「そう慌てるものではないぞ、タバサ殿」
いつ現れたのか、ヴァルドールの声が割って入った。
「ノックを忘れた非礼は許されよ」
鷹揚に言うと、ヴァルドールはじっと嘉神を見据える。
「ふむ、取り立てて後遺症もなさそうじゃの。
術式が外部と内部からほころんでおったおかげかのう。
術に封じられておっても、朱雀の精神力は侮れんものか……ふむふむ……」
一人納得してヴァルドールは頷く。
「ヴァルドール師、内部からのほころびは仰る通り嘉神殿による無意識の抵抗と考えられますが、外部からのほころびの原因はなんと考えられますか?」
「それじゃよタバサ殿。おそらくは何者かに寄る干渉の結果じゃろう。その干渉の経路が少々奇妙なところじゃがのう……
なんにせよ、あの術に外部からあれだけ強く干渉していたということは相当な力の持ち主のはずじゃ。
魔界のランクで言うならやはりA+級以上。ひょっとしたらS級かもしれぬ」
「それでも完全に術の消滅には至らなかった……。ヴァルドール師、私はあの術を構成したのはS級と考えます。
しかしS級とされていた魔界三大貴族はいずれも死去、あるいは消滅しているとなっているのがネックなのです」
「うむ。彼らが蘇ったか、未だ知られざるS級クラスの魔族がいるのか……そのことについて、我に仮説がある。……む、メモにまとめたはずじゃが……図書室に忘れてきたかの?」
「それでは図書室に参りましょう。私にも一つ仮説がありますし」
「おお、それがよかろう」
「…………」
嘉神に口を挟ませる隙も気力も与えずに二人は合意すると、連れだって部屋を出てしまった。
もっとも、嘉神は二人が出て行ったことにむしろほっとしていたのだが。
レンはまだ眠っている。嘉神はベッドから下りると、レンの小さな体を抱き上げた。そして自分の代わりにレンをベッドに寝かせてやる。
「…………」
ベッドに寝かされてもレンは起きない。頬をベッドにすり寄せるように少し身動きしただけだ。
その体に布団を掛けてやり、嘉神は足音を忍ばせて窓に向かった。
窓から見える景色は、一見、いつもと変わらない。今日も天気がよく、空は晴れ渡っている。
――あそこか……
しかし朱雀の守護神である嘉神の目には、空にある昏い陰が見える。その陰こそ地獄門。
――今は…慨世が抑えているだろうが……
いくら黄龍でも一人ではいつまでも抑えきれない。それでなくてもジェダの存在がある。このままでは地獄門が開くのは時間の問題だ。
この間の嘉神の夢に介入してきたことを考えれば、少なくともあの時点までは慨世は無事なはずだ。逆に言えば、嘉神に呼びかけていたジェダも健在だろう。
黄龍である慨世の力は、S級の魔族であっても十分比肩しうるはず。だが今の黄龍は地獄門の完全な解放を抑える為に力を割いている。その状態でジェダほどのものと戦えば、苦戦は必至。
――……慨世……
嘉神を生かし、ジェダの手から逃した慨世。その意志、考えは理解できる。未知数の次代よりも、嘉神の方が確かに当てにはなろう。しかしそれは嘉神が人を、現世を救おうと意志を固めることが前提だ。
まったくもってあの男らしい、甘い考えだと嘉神は思う。地獄門を開いたこと、そこに身を投げたことが慨世の言う通り負の思念によるものだったとしても、嘉神の中に人への嫌悪と不信は強く根付いている。
それでも。
『生きよ、慎之介。
お前に四神の一人としての誇りがあるならば生きて、今一度決めよ。
己が、意志を』
『また同じ道を歩めることを願っておるぞ』
慨世の言葉が嘉神の耳から離れない。
――……同じ道か……
空に見える陰を見つめ、嘉神は何度も慨世の言葉を思い返していた。
二・終
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