月に黒猫 朱雀の華

二の五 記憶の淵

 目を開くと、体が酷く熱かった。
 熱の所為なのか他の所為なのか、体が麻痺しているような感覚がある。自分が立っているのか横になっているのかもよくわからない。試しに手足を動かそうとしてみたが、うまく動かない。
 どうしたのだろうと、ぼんやりと嘉神は考える。
「……気がついたか、慎之介」
――……この声……
 聞こえた声になんとか視線を向ける。
 目に映ったのは、一人の巨漢。角のついた毛皮をかぶり、顔の上半分は見えないがその声に嘉神は聞き覚えがあった。
「慨…世……」
 死んだ、いや嘉神が自ら斬った先代の青龍、慨世の声だった。
「ならば、ここは……
 っ……」
 体を起こそうとして走った痛みに、意識が鮮明になる。それで嘉神は自分が宙に浮いた淡く光る球体状の結界の中に横たわっていることに気づいた。結界は慨世と共に宙に浮かんでいる。
 その下にあるのは、まさに地獄絵図。人のあらゆる醜さが繰り広げられている。
 人が、あるいは人の形をしていた者が互いに奪い、殺し、犯し、喰らい、騙し、妬み、そして憎む。怒りと嘆き、怨嗟と歪んだ歓喜が木霊する。醜き欲望をむき出しにして己以外の存在をすべて貪ろうとするかつて人だったモノたち、負の思念は、不思議と一つの流れと化してある一点――地獄門に押し寄せている。
 欲望のままに、現世を求めて。
 それは嘉神の脳裏に焼き付けられた、最も嫌悪する光景。
――常世……だが……
「……生きて、いるのか……私は……!」
 痛みに構わず無理矢理体を起こし、結界に拳を打ち付ける。一見薄く見えたが、それぐらいでは結界はびくともしなかった。
「貴様が生かしたのか、慨世、黄龍よ!」
 死した青龍は地獄門の内より現世を常世から守るために黄龍へと転じる。慨世もその運命通りに黄龍となり、こうして嘉神の目前にいる。
「動くな。まだ傷はふさがりもしていない。
 青龍と戦った上に地獄門に身を投げたのだ。普通なら死んでおる」
「それが我が望みだった! 生きて恥をさらす気などない!」
「慎之介よ……それはまことにお前の望みか?」
 静かな、諭すような慨世の声に嘉神の動きが止まる。
「何……?」
「お前は誇り高い。たとえ負の気にその心を犯されようともその誇りまでは失われぬ。生き恥を拒むというのは確かにお前らしい。
 なれどな、慎之介。お前が死を望むことが常世の意志だとすればなんとする」
「……常世の意志、だと……?」
「お前がただ命を絶つのではなく、地獄門に身を投げたのは自らの手ですべての幕を引くため……」
 毛皮に隠されてはいるが、慨世が沈痛な表情を浮かべているのがわかる。
「つまり、自らの生命をもって地獄門を閉ざすため。そうだな、慎之介」
「…………」
「だが誰が、お前にそれで地獄門が閉じると教えた?
 忘れたか、慎之介よ。地獄門が万が一開いたならば閉じる方法はただ一つ――」
「……封印の儀……」
 呟く嘉神の内で、ある自信が揺らぎ始めていた。
 人、という存在への絶望と嫌悪は今もなお強い。だが人を滅ぼそうと地獄門を開いた意志は己のものだったのか――
――確かに地獄門を開けば、そこからあふれ出る負の思念によって人は滅ぼせる。しかしその後には何が残る?
――現世の秩序を守護するのが四神の役割と思ってきた。その秩序はそこにあるのか?
 今更のように、しかし今までかけらも感じなかった疑問を自問自答する嘉神に、静かに慨世は言葉を続ける。
「四神の誰が欠けても封印の儀は成せぬ。
 四神が落命すれば即座に新たな者が天命により新たな四神となるが、その者を見つけ出し、一人前とするには時間がかかる。
 そして封印の儀までの時間がかかればかかるほど、常世にとって都合がよい事態となる。
 故に、わしはお前を生かした」
「……現世へ戻り封印の儀を行えと、人を救えと言うのか」
 嘉神は「下」へ目を向けた。二人が話している間も、負の思念は醜く蠢き、現世を求めうねり、地獄門へと向かっている。それをかろうじてとどめているのは、黄龍の力だ。
 死しても己が欲望を果たすためだけに浅ましく現世を求めて止まない、人というモノ。
――そんなものを救えと言うのか……!
「そう、わしは願う。
 されど」
 睨み据える嘉神に、ゆっくりと慨世は首を振った。
「されど、どうするかを決めるのかはお前だ」
「何……?」
「現世に戻ったお前が封印の儀を皆と共に行うか。再び人を滅ぼさんとするか。
 どちらに転ぶか……それはわしにはわからんし、強制もできん。
 だがお前をここで死なせ、次代の朱雀に賭けるよりは分がよいと思うておる」
「…………」
「生きよ、慎之介。
 お前に四神の一人としての誇りがあるならば生きて、今一度決めよ。
 己が、意志を」
「私は……」


『何も、決める必要はない』


「何奴」
 割って入った声に、二人は同時に顔を向ける。慨世は既に剣を構えている。
 それだけの力と禍々しさをそのモノは持っていた。
 一応は人の形をしている。だがその青い肌、背から生えた刃の翼――明らかに、人ではない。魔の者、それもかなりの上位の存在であることがその放つ力から知れる。
『初めまして。黄龍、そして朱雀よ。
 我が名はジェダ=ドーマ。すべての世界を救世する者』
 ジェダと名乗った魔物は、恭しく二人に向かってお辞儀をしてみせる。
「救世する者……という割には禍々しい気を放っておるな、ジェダとやらよ。
 それも、神聖なまでに禍々しい。危険な気よ」
『フフフ……。聖も邪も私には関係ない。すべては私の元で一つになるのだからね……。
 無論、君たちもだ。価値ある魂の持ち主よ。
 その為にもあの門は閉められては困るのだよ』
 ジェダの背の翼が大きく広がる。
「地獄門は閉ざさねばならぬ。それを邪魔するというのならば、黄龍の名において貴様を倒す」
 一歩、慨世は前に出た。ゆらりと嘉神を閉じ込めた結界が揺れる。
「慎之介、お前は現世に戻れ。そして己が道を見定めよ」
「慨世、私は……」
「また同じ道を歩めることを願っておるぞ。
 その日まで、さらばだ!」
「慨世!」
 嘉神が叫んだのが合図だったように。
 慨世の力が結界を地獄門へ向けてはじき飛ばした。
『朱雀の守護神』
 対峙する慨世とジェダの姿が遠ざかる中、ジェダの声が嘉神の耳に響く。
『君の魂と力は我が崇高なる目的には必要なものだ。
 「枷」をつけさせてもらおうか。次に会う時まで、余計なことができないようにね……』
――枷だと……いかん……
 とっさに嘉神は、持てる力を振り絞って自分の周りに障壁を張ろうとした。
『無駄だよ』
 どんっ、と頭を貫かれたような衝撃が走る。
「っ、あ……うああぁ……っ!」
 空間が捻れるような感覚、誰かの手が自分の頭の中をかき回すような苦痛と不快感の中、結界が砕けた音が聞こえた。
 頬に触れる、冷たい風。負の思念も、常世の淀んだ空気もない。
――げん、せ……か……
 地獄門を抜けたのだ、と混濁していく頭の片隅で思ったのを最後に、嘉神の意識は闇へと落ちていく。
 意識が消える最後の一瞬、嘉神は鈴の音を聞いたような気が、した。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-