月に黒猫 朱雀の華

二の一 予兆の朝

  ……朱雀の守護神よ……

――また、か……

  ……の……時は……来たれり……

 連日呼びかけてくる声に、夢の中で嘉神は眉を寄せた。

  委ねよ……すべてを……

――貴様は誰だ? 何故、呼びかける……?

  我が元へ……我が元へ……

 声の主に疑問を抱きつつも、声は堪らなく甘美に嘉神の耳に響き、足が勝手に動き出す。

  そう、我が元へ……価値ある魂の持ち主よ……

――価値ある、魂……

  ――ならぬぞ、慎之介!

――この声は……

 りりんっ!

 鋭い鈴の音が、嘉神の意識を覚醒させた。
「レン……」
 嘉神に馬乗りになってその寝間着の襟元を掴んだレンが、じいっと見つめている。どうも揺さぶられたらしい。
「起こしてくれたのか……?」
 尋ねると、レンは嘉神の襟元から手を離した。
「とりあえず下りてくれないか」
 今朝もまた、自分の上に乗っかっているレンを注意する嘉神の気力は、そろそろ尽きかけている。
 それに、あの夢から目覚めさせてくれるのは正直に言えばありがたい。試していないので勘にすぎないが、自力ではあの夢から目覚められない気がしている。
 レンが嘉神の上から下りると、体を起こす。
――……しかし今日の夢は……いつもと違ったな……
 最後に嘉神をとどめようとした、鋭い声。あの低い男の声には聞き覚えがある。
――慨世……
 慨世。かつて四神の一人、青龍だった男であり、嘉神がその手で殺めた男である。
――だが、何故慨世の声が……?
 青龍の守護神は死した後、地獄門をその内から守る黄龍となるが運命。慨世もそれから外れるはずがない。
 その、今は黄龍となっているはずの慨世が、何故嘉神に呼びかけるのか。誘う声を阻むように。
――……黄龍…地獄門……慨世……っく……
 不意に走った痛みに、嘉神は額を抑える。酷く殴られたような鈍痛に思考が進まない。
「ぐ……ぅ……」

  朱雀の守護神……余計なことを思い出してもらっては……困る……

――誰、だ……?
 問うても、答えはなく。
 闇に吸い込まれるように嘉神は気を失った。

「…………」
「ん……ぅん……?」
 どれぐらい経ったか、意識を取り戻した嘉神は自分が心地よいぬくもりに包まれていることに気づいた。
――あたたかい……
 酷い頭痛も今は失せ、ぬくもりの心地よさに身を任せたくなる。
――このぬくもりは……
 何とはなしに目を開き、視線を上げ――
「…………」
「……………………」
夕日色の目と、嘉神の碧い眼が、合った。
「……レン?」
「…………」
 頷くレンを眼にして初めて、嘉神は自分がレンに抱きしめられていることに気づいた。
「ぁ……これ、は…………」
 顔を赤くして狼狽える嘉神をよそに、レンは抱きしめていた腕をほどく。
 こつん
「……??」
 嘉神の額に、自分の額をあてがう。
 間近になったレンの顔に更に顔の朱を濃くする嘉神に、レンは小首を傾げると、今度はぺた、と小さな手で嘉神の額に触れた。
 ようやく、嘉神はレンが何をしているのかを理解した。
「熱はない」
 そっと、レンの髪に触れる。
「心配してくれたのだな。もう大丈夫だ、ありがとう」
「…………」
 レンが少し、俯いた。その頬がほんのりと赤い。
――照れているのか……?
 ケーキを前にしているとき以外はほとんど無表情なレンのそんな表情に、ふっと嘉神は微笑んだ。
「レン、私はどれぐらい気を失っていた?」
 レンの気を逸らすために問うてやる。
「…………」
 レンはやはり無言で、壁の時計を指さした。まだ七時前だ。レンにいつも起こされる時間を考えると、気を失っていたのはほんの十分ほどらしい。
――……それほど長い時間ではなかったか……
 それにしても、と額に触れて考える。おそらくさっきの頭痛は何らかの術によるものだろう。掛けたのは、あの声の主に違いない。「何か」を思い出せないように術を掛けられているのだと嘉神は判断した。
――今の今まで私に何も気づかせなかった……かなりの力の持ち主か……
 先日のミュージカルの時に感じた気配とも関係があるのではないかとも思うが、この術は今すぐにはどうこうできるものではないだろう。
――調べねば、なるまいか。
 自分に掛けられた術であるし、夢もいい加減気になっていた。それにあの慨世の声――
 ここまで揃えば放っておくわけにはいかない。
――何故私が生きているのかも、わかるかもしれない。
「……まずは着替えるか」
 嘉神が呟くと、ぴょんとベッドから下りてレンはいつもの椅子に座る。
「着替えるときは部屋から出ていて欲しいのだがな……」
 ふう、とため息をつきながら嘉神もベッドから下りた。
 

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