月に黒猫 朱雀の華

一の四 祝福の猫

 フェリシア訪問の翌日の夕方、嘉神、レン、モリガンはそろって街へと出かけた。
 さすがに街までは遠いので、自動車で向かう。
「……自動車がこの屋敷にあるとはな」
 車庫から出された最新の高級車に、嘉神は驚きの声を洩らした。
「色々必要なのよ」
 嘉神とレンはいつもと同じ格好だが、モリガンは肌も露わな深紅のカクテルドレス姿だ。豊かな胸元をぐっと強調したドレス姿を、嘉神はなるべく見ないようにしていた。
「お嬢様、嘉神様、レン様、お乗りください」
 後部座席のドアを開け、執事悪魔が促す。三人が乗り込むと、執事は運転席についた。
 町までは車で15分ほどかかるという。
「フェリシアはどうやってきたのだ?」
 ふと気になって嘉神は問うた。いかにキャットウーマンとは言え、町からモリガンの屋敷まで歩くのは大変だろう。
「屋敷の近くにバスの停留所があるわ」
「……何のための停留所だ」
 モリガンの屋敷の近くに確かに隣町へ続く道は通っているが、人がよく来るような場所はない。
「うちに来るためじゃない?」
「…………」
 当然のように答えるモリガンに、嘉神はそれ以上問う気はなくなった。


「お時間になりましたらお迎えに上がります」
 執事悪魔の声を背に、三人は車を降りる。嘉神の手には、モリガンに持たされた花束が一つ。フェリシアに渡すものだ。
 フェリシアの毛色と同じ、白い花を中心にまとめられた花束に、桜色のかけらがふわり、と舞い降りた。
――桜……万年桜のすぐ傍か……そうだったな……
 劇場の隣で今日も絶えぬ花を散らしている万年桜を嘉神は見上げた。
 はらはらと散る桜の花は実に美しい。地獄門の影響で一時枯れかけていたが、今はすっかり回復したようだ。

 ……は……れり……

――……ん?
 微かな違和感に嘉神は眉を寄せる。
 もう日は沈んだが、町の明かりは闇を遠ざけている。だがその明かりがほんの弾指の間、陰ったような感覚。
 すべてを包み込むようでいて、すべてを喰らい尽くすような、闇の存在。
 確かにそれを嘉神は感じたと思ったが、次の瞬間にはもう何も感じない。
「………………」
 周囲を見渡しても、異変のかけらも見えない。
――気のせい……か……?
「…………?」
「どうかした?」
 レンとモリガンがそろって問いかけの目を向ける。
「……なんでもない……と思う」
 もう一度周囲を見回す嘉神の口調は、歯切れが悪い。やはり今は何も感じないが、先に感じたものは気のせいで済まそうにも妙に引っかかるものがある。
「あなたが言うなら、そうだったのかもね」
「モリガン?」
「……今は、そういうことにしておきましょう」
「…………」
 きゅ、とレンが嘉神の手を握る。
「今はフェリシアの舞台を楽しむことだけを考えないとね」
「わかった」
 嘉神は素直に頷いた。
 モリガンも先の違和感を感じていたのだろう。おそらくは、レンも。二人が今は触れない方がいいと判断したのならば、今はあの気配のことは何もわからないのだろう。
「…………」
 レンが嘉神の手を引いて歩き出す。その歩みは、やけに早い。
「レン、そんなに急ぐな」
「そういえば……」
 レンの歩みに合わせる嘉神の耳に、モリガンの呟きが届いた。
「フェリシアへの差し入れって、ケーキやお菓子が多いのよね」


 フェリシアの楽屋の前にはたくさんの花が飾られていた。
――たいした人気だな……
「フェリシア? 入るわよ」
「………………」
「むっ……?」
 ノックもせず声だけ掛けてモリガンがドアを開けたかと思えば、レンがぐいぐいと嘉神の腕を引っ張っていく。
 嘉神の思考が状態に追いついたときには、フェリシアの明るい笑顔が三人を迎えていた。きらびやかだが露出の多いステージ衣装を身につけ、少し濃いめの化粧をしているので昨日よりもずっと大人っぽく、色っぽく見える。もっともモリガンとは違い、健康的、という字が頭に着くのだが。
「みんな来てくれたんだね、ありがとう!」
 フェリシアには舞台の前だというのに緊張の色は全くない。三人が楽屋を訪れたことを無邪気に喜んでいる。
「…………」
 くいくい、とレンが嘉神の袖を引く。
「あ、あぁ……フェリシア、これを……」
 思い出して、嘉神は手にした花束をフェリシアに差し出した。多少動きがぎこちなかったが、嘉神は花束を人に贈ったことなどないのだから仕方がない。
「わぁ、きれい! ありがとう嘉神さん!」
「あぁ、いや、だが……っ」
 花束は自分が用意したものではない、と言いかけた嘉神の足を、モリガンが軽くヒールのかかとで踏む。その足に力が入るより早く、
「……喜んで、もらえて、なによりだ」
平静を装ってそう言った。
(よくできました)
 嘉神に聞こえるぐらいの声で、モリガンが呟く。
――よく言う……
 憮然として踏まれた足を引く嘉神と素知らぬ顔のモリガンをよそに、フェリシアとレンは仲良く話していた。
「…………」
「うん、いいよ。レンちゃんの分は分けてあるから」
 いつの間にか傍にいたレンに、うんうんとフェリシアは頷いてみせる。ちりり、と鈴の音も涼やかに、レンは楽屋用の小型冷蔵庫に駆け寄った。
「ずいぶんたくさんあるのだな」
 レンが開けた冷蔵庫の中に一杯入ったケーキや菓子類に、思わず呟く。冷蔵庫の中だけではない。部屋のあちこちに摘まれている箱は、菓子類ばかりのように思えた。スターへの差し入れの定番など嘉神にはわからないが、こんなに菓子があっても食べきれないのではないかと思う。
「嘉神さんも食べる? いいよー?」
 花を花瓶に生けていたフェリシアが言う。
「いや、そういう意味ではない。菓子が多いという……文字通りの意味だ」
「あ、そうなんだ。あのね、みんな、『ねこのこはうす』の子達にってくれるんだ」
 鏡台に花瓶を置くと、くるり、とスカートを翻してフェリシアは振り返った。
「ねこのこはうす?」
「アタシが作った孤児院だよ」
「昨日のフェリシアは修道着を着ていたでしょう? あれは孤児院の『ママ』としての格好なんですって」
 でも外ではすぐ脱いじゃうんだからとモリガンがからかえば、脱ぐところは選んでるもん、とフェリシアは抗議する。
――孤児院にか……
 人ならぬ者が作った孤児院。その元に寄せられたたくさんの菓子。これはフェリシアがスターだから、だけではないのだろうと嘉神は思った。
――フェリシアの無垢な善心が呼び水となって、多くの善を集めている……
 人の善。それは嘉神が目を背けたもの。
――人の、善……信じるに、たるものなのか……?
「………………」
「あら嘉神、やっぱりお菓子が食べたいの?」
「何?」
 菓子の箱や花を見ながら思いにふけっていた嘉神に、クスクスと笑いながらモリガンが言う。
「食べて良いんだよ?」
 にこにことフェリシアも言う。
「いや、だから要らないと……」
 慌てて嘉神は首を振るが、黙々とケーキを食べていたレンまでもが「欲しいの?」と言わんばかりに小首を傾げている。
「そ……そろそろ時間だろう。客席に行った方がいいのではないのか?」
 どこか楽しげな女性陣の視線から逃れようと、ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認してみせると、嘉神は踵を返した。
 ちりりんっ
――……む……
 不満そうな鈴の音に足が止まる。
「レンが食べ終わるまで待ってあげなさいよ。それぐらいの時間はあるでしょ」
「まだまだ大丈夫だよ、嘉神さん」
「……わかった」
 とりあえずは話もそれたからと嘉神は待つことにした。


 レンがケーキを食べ終わるのを待って――三個は食べた――嘉神達は客席へと向かった。
 席はほぼ満員だ。チケットの番号を確認してそこへ向かう。
「良い席だな」
「S席だから当然よ」
「前日に用意してこことは、気を遣ってくれたのだな」
「良い子でしょ?」
「貴様が無理を言ったのだろう」
「何のことかしらね」
「…………」
 とぼけるモリガンを追求しても仕方がない。まだ明かりの落ちてない劇場を何とはなしに嘉神は見渡した。
 老若男女問わず集まっている。A席の一角に子供が固まっているのはフェリシアが招待したからだろうか。
――熱心なファンも多そうだな……だが……
 ちらほらとではあるが、誰かのつきあいできたらしい退屈そうな者、明らかに珍しいもの見たさできている者の姿が見られる。
「フフフ……よく見ておきなさい、見知らぬ方よ」
「……?」
 不意に後ろから掛けられた声に嘉神は振り返る。
 そこには、クセのある長い黒髪で黒衣をまとった老女の姿があった。髪で片目を隠すようにしている老女は、傲慢とも見える視線で客席を睥睨する。
「舞台が終わった後には、あのような顔をした観客は一人もいなくなる。
 皆、あの子……フェリシアの演技に魅了されているでしょう」
「………………」
「フェリシア……恐ろしい子……。けれどあの子こそ、私のスカーレット・アンジェラを受け継げる……」
――…………なんなのだ、貴様。
 恍惚とした様子でぶつぶつと呟く老女から前へと向き直る。
 時間が来たのか、照明がふっと暗くなった。

「It’s Show Time!」

 スポットライトが舞台の中央に集中したかと思うと、そこにはフェリシアの姿があった。わぁっと歓声が客席から上がる。
「ようこそ、夢と希望のステージへ! たっぷり楽しんでいってね!」
 その声と共にアップテンポな音楽が流れ出し、ミュージカルは始まった――――

――……見事なものだ……
 嘉神はミュージカル観劇はこれが初めてだ。しかし素人目にもフェリシアの舞台はすばらしかった。
 技術的に優れているだけではない。フェリシアが舞台に掛ける情熱や、その明るく優しい気質が演技にも歌にもダンスにも溢れ、舞台全体を盛り上げている。フェリシアのエネルギーに後押しされるように、脇役の一人に至るまでが生き生きと動いている。
 話はわかりやすいサクセスストーリーだが、フェリシアが演じると実に自然に見える。昨日から嘉神が見聞きしたことを総合すれば、フェリシアはまさにサクセスストーリーを進んできたらしいのだから、それも当然なのかも知れない。

「みんな、ありがとー!」

 最後まで元気を失わないフェリシアが、終演の言葉を観客に贈った。
 自然に立ち上がる、人、人、人。スタンディングオベーション。
 惜しみない拍手がフェリシアに、そして彼女と共に舞台を作り上げた役者達に贈られる。
 その中に、嘉神もいた。躊躇いも迷いもなく、拍手を捧げていた。
 観客の中にはもう、退屈そうな者も、ただ珍しいものを見ようとしていた者もいなかった。
 

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