月に黒猫 朱雀の華

一の二 来訪者

「結界の調整、うまくいってるんですってね」
 朝食の席で、紅茶のカップを一口口にして、モリガンは嘉神に問うた。紅茶、と言ってもサキュバス用に特別なエキスがブレンドされたものらしい。そのエキスがなんなのかは嘉神は問う気はない。
「……一応はな」
 嘉神はトーストにバターを塗りながら答える。今日の朝食はトーストにハムエッグ、サラダにハッシュドポテト。それに嘉神には普通の紅茶が用意されている。意外なほど普通の食事だが、この屋敷を訪れる者には普通の食事を取る者が少なくない為、常時用意してあるらしい。
「いえいえ、ご謙遜を。嘉神様が結界を調整してくださったおかげで屋敷の管理もしやすくなってございます」
 モリガンの給仕をしていた執事悪魔が心からの賛辞を込めて言った。
「……そうか」
「はい。行方不明になっておりました掃除妖精も見つかりましたし……何匹かはひからびておりましたが、それでもありがたいことでございます。
 まったくお嬢様が奔放に結界を張られますから……ベリオール様の時にはこのようなことはございませんでしたのに」
 ベリオールというのが死去した先代のアーンスランド家の当主であり、強大な力を持った魔族であったということは嘉神は執事悪魔から聞かされていた。
「いい加減におし」
「はっ、これは申し訳ございませぬ。いやしかし、嘉神様のおかげでこの屋敷が生き返っておりますのは」
「もういい」
「はぁ……」
 嘉神にも言葉を制され、不承不承執事悪魔は口を閉じた。
 嘉神が屋敷の結界の調整をしているのは、手持ちぶさたな嘉神の様子を見かねた、というかそれがうっとうしくなったモリガンが「暇なら結界の調整でもやっておいて」と言ったからだ。それだけなら嘉神もモリガンの言うことを聞く気はなかったが、「してくれたら図書室の本を好きに読んでも良い」という条件にその気になったのである。
 どのみち、することなどないのだ。結界の調整と読書と、することができたのは嘉神にしてみればありがたい。それにどちらも意識を集中する必要がある、つまり余計なことを考えずにすむのだ。
「今日も昨日と同じ?」
「……そうだろうな」
「………………」
 ミルクを飲んでいるレンが、ちらりと嘉神を見る。レンはたいがいにおいて嘉神について回っている。ただ、図書室ではほとんど椅子に座って寝ていた。
「飽きない?」
「サキュバスほど飽き性ではない」
「そう?」
 くるくると髪に指を絡め、斜めに、下から見上げるようにモリガンは嘉神を見る。
「そうだ」
「ふうん……」
 何やら含ませたモリガンの視線を無視し、嘉神は朝食を片付けることに専念した。


 朝食後はいつも通りに結界の調整をする。
 屋敷の外見以上の空間を維持するための結界と、広大すぎる空間を楽に移動するための結界。これらが入り交じって複雑化しているのを整理していくのだ。移動用の結界が、執事の言っていた「お嬢様が奔放に」張ったものなのだろう。
――これだけ好き勝手に道を開いて、よくも今まで崩壊しなかったものだ。
 呆れ半分、感心半分の感想を抱きながら、嘉神は結界を調整していく。不要な道は削除して空間の安定を図り、必要な道は残した上で強力に固定する。朱雀の守護神である嘉神には、この程度の作業はどうと言うこともない。道があまりにも好き勝手に開かれているので、ひたすら手間がかかるだけだ。

 ちりん

「……もうそんな時間か」
 昼になるとレンが嘉神の袖を引く。それが今日の調整の終わりの合図だ。
 食堂へ向かって昼食を食べ――モリガンは昼寝の最中らしく、昼食には顔を出さない――、その後はお茶の時間を挟んで――お茶の時間はレンが絶対死守の覚悟な上に嘉神も同席しないといけないらしい――夕食まで読書。たまに、レンが散歩に行こうとせがんでくれば――嘉神の腕を引っ張る、という形でだが――それにつきあうといったぐらいだ。
 それがここ数日の嘉神の生活サイクルである。
 ところが今日は様子が違った。

 ちりん、りん

 お茶の時間にはまだ早い時間に、レンが読書中の嘉神の袖を引いた。
「……まだ早いだろう」
 懐中時計で時間を確認してレンに言うが、レンはふるふると首を振ってなおも嘉神の袖を引く。
 なんだかその目が輝いているようにも見える。
「……散歩か?」
 首を捻りつつも嘉神は本を置いた。
 一刻も早くと言わんばかりにレンは嘉神の腕を引っ張っていく。
 向かう先は居間、ではなく。
 玄関ホールへと着くと、レンはドアを指さした。
――やはり、散歩か。だがこんなにも張り切るとは珍しい……
 首を捻りつつも嘉神はドアを開ける。同時にレンが駆け出していく。レンが走ることもまた、珍しい。
――何があるのだ? む……あれは……
 後に続いて外に出た嘉神は、屋敷に向かってくる人影に気づいた。
――修道女……?
 黒い修道着をまとった、若い女のように見えた。レンはその元へと駆けていく。
 修道女もレンに気づいたようだ。
「レンちゃん!」
 明るい声を上げて、修道女も駆け出す。
 黒い修道着が、宙に舞った。
「なっ……!?」
 修道着を脱ぎ去り、ぎゅーっとレンを抱きしめた女の頭には大きな三角の耳、尻からはすらりと長い尾が伸びている。
 唖然としつつも、嘉神は女の正体を認識した。
「キャット、ウーマン……」
 

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