月に黒猫 朱雀の華
序の四 さんぽ
モリガンの屋敷は広い。こうして屋敷の中を歩いていても、窓から外を見やっても、屋敷の全景が把握しきれない。
もっとも住んでいる者にも広すぎて手入れが行き届かないのか、少々荒れたところも目についた。
「………………」
また、レンがドアの前で足を止めた。
案内と行っても無口な少女が説明するわけではない。こうしてレンがドアの前で足を止めれば、嘉神が自分でドアを開いて中がなんであるかを把握する。
「次はここか」
既に四、五回は繰り返したことだけに嘉神も慣れたもので、遠慮無くドアを開いた。
「ほう……」
部屋に入った嘉神の口から、感嘆の声が洩れた。
その部屋は図書室だった。広い。入り口からでは奥がどうなっているかわからない。
長身の嘉神よりもはるかに高い本棚がずらりと並び、いずれにも本がぎっしりと詰まっている。
――たいしたものだな……
図書室特有のひやりとした独特の匂いのする空気の中を歩みながら、嘉神は本棚を見上げる。
並んだ本の背表紙に書かれたタイトルの大半は嘉神の知らない文字で書かれている。試しに一冊取り出してみるが、中身もさっぱり読めない。
それでも知の宝庫のこの場所は、屋敷の中でもっとも嘉神の興味を引いた。読めそうな本を適当に取り出しては目を通してみる。
――ふむ……陰陽道にこのような術式があるのか……
ページをめくる。嘉神も陰陽の術にはそれなりに通じているが、この書物に書かれている術式は初めて見る。当代で最も優れた術者を擁する一条家でも、こういった術式は使ってはいまい。
――……この術式を応用すれば……
「………………」
くい、と袖を引かれる感触に嘉神は無意識にその手を払う。そのまま流れるような動作でページをめくる。
「…………」
「むっ……!?」
不意に、ずん、と重くなった左手に嘉神は体勢を崩し掛ける。慌てて足を踏ん張って左腕を見れば、そこにレンがぶら下がっていた。
「レン……」
このままでは重いので、レンの足が着く程度に左腕をおろす。するとレンはぐいぐいと嘉神の腕を引っ張って歩き始めた。
「レン、待て……まだ読み終わっ……わかった、わかったからせめて本をしまわせろ……っ」
なんとかその場に踏みとどまろうとするが、レンは意外に強い力で嘉神を引っ張っていく。なるほど、これなら自分を運ぶこともできたかもしれないとちらっと考えつつも、嘉神はなんとか本をしまおうと本を持った手を棚へと伸ばす。
「よいよい、これは我がしまっておこう」
そう言った誰かが、嘉神の手から本を取った。
「申し訳ない……
……?」
反射的に礼を言って、はっと嘉神は視線を声がした方に向ける。
そこには誰もいない。だが本は、元あったところに収まっていた。
――……人の気配は、無かったはずだ……
意識を凝らし、視線を巡らしても、自分たち以外の誰の姿も気配もない。
――この屋敷で油断は禁物、か……っく……
意識がレンからそれていても、レンは容赦なく嘉神を引っ張っていく。またつんのめりそうになったのをかろうじて堪えると、嘉神はレンに引っ張られて図書室を後にした。
嘉神の腕を引っ張り、レンはすたすたと歩く。
階段をいくつか下り、廊下を歩いて角をいくつも曲がる。
――この屋敷……屋敷内に結界が張ってあるのか……?
広いにしても、限界はある。階段の位置や廊下の長さから頭の中で屋敷の形状を構築しようとすると、破綻してしまう。
そうなると、屋敷の中の空間がおかしいと言うことになる。
――さすがは夢魔の屋敷か……
この様子では、レンの進む道を覚えておいた方がよさそうだと、嘉神はこれまで以上にしっかりと道を記憶に刻みつけていく。
――それにしても……
「レン、何処まで行くつもりだ……?」
行き先を告げない――と言うより、まだ嘉神はレンの声を聞いたことがない――レンに、無駄かも知れないと思いながらも嘉神は問うた。
と、意外にもレンは足を止めた。
そして、目の前の大きなドアを指さした。今までのドアよりずっと大きい。
「次はここか。ここは……外に出るドアか?」
周囲を見渡した嘉神は、自分達がいるのが玄関ホールだということを認識した。やはりかなり広い。
――外、か……
嘉神はノブに手を掛けたが、すぐには開かない。いや、開けないでいた。
かつて、己が破滅させようとした世界。それがこのドアの向こうにある。地獄門に身を投じ、もはや目にすることはなかったはずの世界が。
――怯えて、いるのか?
動かない手に、自問する。
壊そうとした世界に向かい合うこと。
生きながらえた己を世界に晒すこと。
――……馬鹿馬鹿しい。
怯えるということは、己のなしたことを悔いているということ。
悔いなど無い。故に、怯える必要など、ない。
力を込め、強引にノブを回す。
「…………」
やわらかであたたかな、感触。腕から余計な力が抜けていくのがわかる。
――……レン……
ドアを引こうとした嘉神の手に、レンの手が重ねられていた。レンの表情に先からの変化はない。無表情そのものだ。
だがその夕日色の眼は嘉神を真っ直ぐに見つめていた。
その眼に導かれるように、嘉神はドアを開いた。
あたたかな風が、頬を撫でる。
風は、若葉の、新緑の香を含んでいる。
目の前に広がる光景でも、みずみずしい緑がまぶしい。
空も負けじと鮮やかに青く、陽光は穏やかな輝きを放っている。
――春……か。
嘉神が地獄門を開いたのは冬。つまりは数ヶ月は嘉神は眠っていたことになる。
――ずいぶんと長く眠っていたものだ……
ゆっくりと嘉神は歩を進める。ちりりん、と鈴の音がその後を追う。
モリガンの屋敷は小高い丘の上にあった。眼下には豊かな緑が、その更に向こうに、街が見える。街の中央には、桜の木が見えた。
ここからだと桜色の固まりに見えるそれは、ただ一本の樹。年中花を絶やすことの無く、街の神木である万年桜だ。
――変わらず、あるか。
足を止め、二つの奇妙な感慨と共に嘉神は万年桜を見つめた。
地獄門の影響で枯れつつあった木が生きていたことへのものが一つ。
目の前の街にあるものとは別に、自分が知る万年桜があるということがもう一つだ。
自分の知る世界が二つあることに違和感はもうない。驚きもない。
今嘉神にある思いは、確認、に近い。
己がMUGEN界に馴染んでいること。
己がMUGEN界ではない世界の記憶を持っていること。
それが何を意味するのか、嘉神にはわからない。もとより、何故自分が生きてここにいるかさえわかっていないのだ。
嘉神は万年桜を囲む、街を見やった。ここからでは見えないが、あの街にも多くの人間がいるだろう。
――…………
自然と、嘉神の拳が硬く握られる。胸に渦巻いたものを押さえ込むように。
「人」という存在への強烈な嫌悪は消えていない。滅ぼそうとした行為への後悔もない。
かといって、先と同じことを繰り返そうとは思っていない。
有り体に言えば、嘉神は途方に暮れていたのだ。何かに拾われた己の命をもてあましていていると言っても良い。
それは、目覚めたときからずっと。
「……いっそ――」
地に視線を落とし、自嘲に口元をゆがめて呟く。
ちりん
嘉神の言葉の先を、鈴の音が遮った。
ぐい、と嘉神の腕が引かれる。小さな、嘉神の腰ぐらいしかない少女に。
「……レン……っ!?」
先よりもずっと強い力に、堪らず嘉神は片膝を突いた。
間を置かず、レンは嘉神の襟元を掴む。
嘉神は、レンの赤い眼が近づくのを、見た。
「…………」
「…………!!??」
額に触れた、柔らかな感触。
口づけされたのだと気づいた瞬間、嘉神の頬が赤く染まった。
すっと身を離したレンに、何か言わなければ、何かをしなければと思うが全く何もできない。
そんな嘉神の手を、そっとレンが取った。
「…………」
軽く、引っ張る。行こう、と言うように。
相変わらず無言だったが、レンが悪戯な微笑みを浮かべているように嘉神には思えた。
それから二人は、ただ歩いた。
屋敷の庭を、近くの森を。互いに無言で、日が沈み始めるまで。
レンはずっと嘉神の手を引いていた。
「ずいぶん長く出かけていたのね」
屋敷に戻ってきたレンと嘉神に、モリガンが声を掛けた。今度は前を大きく開けた白いシャツと黒いレザーのズボンを着ている。
「何処に行っていたの?」
「……散歩してこいと言ったのは貴様だろう」
ぶっきらぼうに答えた嘉神に、クスリとモリガンは笑う。
「そうだったわね。
そろそろ夕食よ。時間が来たら食堂にいらっしゃい。時間はレンに聞いてね」
「……わかった」
頷いて嘉神はレンと共に階段を上っていく。
――少し、ましな顔になったわね……まだ楽しませてもらえそうだわ……
その背を見ながら、モリガンは妖艶な笑みを浮かべた。
序・終
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