月に黒猫 朱雀の華

序の三 むげん

 ちりり……
――鈴の音?
 レンについて歩くうちに、時折、澄んだ鈴の音がするのに嘉神は気づいた。
――レンからか……
 何処につけているのかはわからないが、確かに鈴の音はレンから聞こえてきていた。
 猫のようだな、と嘉神が思ったところで、レンが足を止める。
 大きな扉の前だった。
「…………」
「ここか?」
 こくりと頷き、背伸びしてレンは扉を開けようとした。
「いや、いい」
 レンを制し、嘉神は自分で扉を開ける。
「…………」
「ん?」
 じぃっと自分を見つめるレンに嘉神が首を傾げると、すいっと開いた扉の中へ、レンは先に入っていった。
 りりん、と鈴が鳴る。
――……よくわからない少女だな……
 首を捻りながらも、嘉神もまた部屋へと足を踏み入れた。


 広い部屋に置かれた長椅子に、先ほどのあられもない格好から、黒い品の良いドレスに着替えた女――淫魔がしどけなく座っている。先程と違ってほとんど露出のない姿だというのに妖艶さがいささかも損なわれていないあたり、さすが淫魔と言ったところか。
 長椅子の後ろには、燕尾服を着た異形の者が二人、背筋を真っ直ぐに伸ばして控えている。
「さっきのも悪くなかったけど……そうしてても十分素敵ね」
 扉を閉めた嘉神に、女は艶めかしい視線を投げかける。
「そのことに触れるな」
 苦虫をかみつぶしたような顔になった嘉神に、女は楽しげに笑った。
「あら、ほんとに素敵な体よ? 先約があるのが残念……」
「触れるなと言っている。それに先約とはなんだ?」
「ヒ・ミ・ツ☆ さ、座って? こうして見上げてるのも大変なのよ?」
「…………」
 正直、この女は存在自体が嘉神にとっては不快だが、ここが何処なのか、何故自分が生きているのかを知る為には話を聞くしかない。渋々と嘉神は女に示された椅子に座った。

 ちりり……

 鈴の音と共に、レンが嘉神の膝の上にちょこんと座る。
「な……?」
 嘉神の戸惑いにもお構いなしだ。
「下りろ。私は椅子ではない」
「椅子になってあげるぐらい、いいじゃない。恩人なんだから」
「恩人?」
「そ。でも、話は順番にいきましょう?」
 そう言って、女は髪をかき上げた。さらりとしたすべやかな髪は、絹糸のように女の手から流れ落ちる。
「私はモリガン・アーンスランド。さっきも言った通りサキュバス。アーンスランド家の当主、つまりこの屋敷の主よ。
 その子はレン。夢魔よ。私とはちょっと種族は違うけれどね。あなたと同じ、この屋敷の客人よ」
「夢魔?」
「ええ。わからなかったの?」
「…………猫だと、思っていた」
 膝の上の少女に目を向ける。少女は二人の話を聞いているのかいないのか、無言のままだ。
「猫ね……フフ……それでも間違いではないわ……
 それで、あなたの名は? 朱雀の守護神だと言うことはわかるけれども……「今」の朱雀の名はなんというのかしら?」
「……嘉神慎之介」
「嘉神、慎之介……良い名前ね……」
 白い指を自分の赤い唇に添えて言うモリガンを、嘉神は睨み据える。
「名前の善し悪し等どうでもよい。順番ももう良かろう。
 聞かせてもらう。貴様がサキュバスで、ここは貴様の屋敷と言ったな。ならばここは魔界か」
「せっかちね。でも早いのも悪くわないわ……答えてあげる。それはNoであり、Yesよ」
「……何?」
「ここは、MUGEN界。
 無限の世界が重なる場所であり、無限の夢が綴られる場所」
「MUGEN…界……?」
「あなたはまだこちらに馴染んでいない。
 でもすぐにこの世界を理解できるわ。ここはそういうところだから……」
 怪訝な顔をする嘉神に、モリガンはまた楽しそうに笑った。


 これが何かわかるかしら、と、モリガンはソファの前のテーブルの上のものを示した。
 それは精緻な飾りの施された、白い置物のように見える。丸く輪の形に0から9までの数字が書かれた台座の上にコードで繋がれた別のパーツが置かれていた。
「……電話、だろう?」
 訝しげにしながらも答える嘉神に、そう、とモリガンは頷く。
「でも、あなたは電話を知らなかったはずよ?」
「電話ぐらい誰で…も……」
 知っている、そう言いかけた嘉神の言葉が途切れる。
――知っているはずが、ない。
 嘉神は電話など見たことがなかった。そんなものは嘉神の世界にはなかった。だがテーブルの上にあるそれが電話だと嘉神は認識できる。「電話」がなんのために使われるものか、どう使えばいいかも理解している。
「そう、知らないはずのものをあなたは知っている。これがMUGEN界に馴染むということ。
 今は違和感があるでしょうけど、そのうち無くなるわ……」
 優雅に立ち上がったモリガンは呆然としている嘉神に顔を寄せる。
「フフ……可愛い子……」
「寄る……」
 口づけようとしたモリガンを慌てて嘉神が制するより、早く。
「…………」
 レンが、小さな手をモリガンの顔の前にかざしていた。
「あら残念。朱雀の守護神なんて珍しいから、ちょっとぐらい味見してみたかったのに」
 あまり残念でもなさそうに言うと、モリガンは座り直す。
「ここまでで、まずはこの世界の話は終わり。
 あとは……レンのことだったわね?」
「あぁ。レンが恩人とはどういう意味だ?」
 取りあえず我に返った嘉神は、膝の上に座ったままのレンにちらりと目を向ける。しかしこの状態ではレンの表情は見えない。
「難しい話じゃないわ。
 傷だらけで倒れていたあなたを、レンがここまで運んできた。それだけよ」
「……レンが、私を?」
 もう一度嘉神はレンを見やる。自分の腰ぐらいまでしかない少女がどうやって自分を運んだのか、想像もつかない。
「フフ……小さく見えても、その子は夢魔よ?」
――説明になっていない気がするが……
 しかしこれ以上問うても答えは返りそうにもない。諦めて嘉神は膝の上のレンをおろし、自分も立ち上がった。
「……?」
「……助けてもらったこと、感謝する」
 レンに一つ、頭を下げる。言葉通り、感謝という心境に自分があるとは正直言えなかったが、他の言葉は思いつかなかった。
「…………」
 あまり表情を感じさせないレンが、嘉神の言葉をどう受け取ったのかはわからないが。
「……あなたも。
 世話になったこと、感謝する」
 モリガンにも向き直り、頭を下げる。
「あら、礼なんてまだ良いのに」
 人差し指に自分の紙をくるくると巻きながら、斜めにモリガンは嘉神を見上げる。
「出て行くのは、もう少しこの世界に馴染んでからにした方がいいと思うわよ?
 行く当てなんて無いんでしょ?
 淫魔の屋敷は、お好みじゃないでしょうけど」
――言ってくれる。
 嘉神は僅かに眉を寄せたが、モリガンの言うことはすべて図星だ。聞くべきことを聞き終わった以上、嘉神はこの屋敷から一刻も早く立ち去りたい。淫魔の世話になっていたくない。
「取りあえず、散歩にでも出たらどうかしら?
 屋敷の中でも、外でも、この世界を見てらっしゃい。
 レンが案内してくれるでしょうし」
「…………」
 外套が掴まれた感触に嘉神が視線を向ければ、レンの目と目が合った。
 レンの夕日色の目が、何かを訴えているように嘉神には思える。なにをかまではわからない。
 不思議と、目を逸らすことができない。
 最初にあったときに感じたの同じ奇妙な懐かしさが胸に広がる。
――この子は、いったい……

 ちりん

「いってらっしゃい」
――え?
 手を振るモリガンを目にしてようやく、嘉神はレンが自分の手を引いて部屋を出て行くのに気がついた。
 

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