月に黒猫 朱雀の華

序の二 であい

 少女の身にまとった外套も、髪を飾る布も、黒い。外套の前紐だけが、真っ白なのが目についた。
 少女の髪は青銀で、眼は赤い。
――猫……
 自分をじっと見つめる赤い眼を見つめ返しながら、嘉神は思った。
 この少女は人ではない。目や髪の色が常人と異なるからだけではない。少女のまとう気配が人のそれとは明らかに異なっている。魔物、妖怪といった物に近いようだが正体はわからない。
 それでも、「猫」だと嘉神は感じた。
 同時に、奇妙な懐かしさも。遠い、もう戻れない過去の一端に触れたような、心のどこかが震えずにはいられない、懐かしさ。
――初めて会った……はずだ……
 記憶をたぐっても、その中に少女の姿はない。それでも、奇妙な懐かしさは消えない。

 とん

――……ん……っ?
 耳にした音が、少女が椅子から降りた音だと嘉神が気づいたのは、少女の顔が間近に迫ったときだった。
「な……?」
 頬に、やわらかな、湿った感触。
 間近の赤い、夕焼け色の眼が、笑んだように嘉神は思った。

――レン。

 頭の中で、声が響く。水晶を思わせるような、澄んだ、しかしあどけなさを残した声だった。
「レン……」
 思わず口にすれば、こくり、と少女が頷いた。
「……君の、名か……?」
 こくり、ともう一つ頷きが返し、少女は嘉神から身を離した。
 そのまま背を向け、ドアへと足を向ける。
「待て……っ」
 嘉神は体を起こし、少女を呼んだ。今更のように疑問があふれ出していた。
「ここは何処だ? 君は、何者だ? 私は何故ここにいる?」
「…………」
 振り返った少女は、しかし無言で嘉神を見つめるだけであった。
「答えられないのか?」
「…………」
「黙っていてはわからないだろう……!」
 寝台から飛び降り、少女に詰め寄る。
 その時、 

「あら、騒がしいわね」

 女の声が、割って入った。

 現れた女を目にするやいな、嘉神は視線を逸らしていた。
 女の、あまりにもあられもない格好に。
 体にぴったりとした服は、腕はむき出しで胸元も大きく開いている。足は一応布(?)で覆われてはいたが、惜しげもなくその脚線美を晒している。
「ああら、いきなり目を逸らすなんてご挨拶ねぇ?」
 身をすり寄せんばかりに近づき、下から嘉神の顔を覗き込む女に、嘉神は一歩後ずさる。その頬は赤く染まり、鼓動も早くなっている。
――この、気配……この女……
「フフ、かわいい。朱雀の守護神サマって、結構ウブなのね?」
「ほざけ……淫魔が……」
 視線を逸らしたまま更に後ずさり、嘉神は己の腰のあたりを探った。しかしそこには愛刀はない。歯がみしながらも身構える。
 女がまとう気配、それはすべての男を魅了し欲情させずにはおかない、淫気だ。嘉神ですら、強靱な精神力で情欲を組み伏せなければ、己を見失いそうになる。
「フフ……淫魔でも間違いではないけれど……サキュバスと言って欲しいわね」
 身構える嘉神をまるで気にした風なく、むしろ楽しげに女は嘉神を見やる。
「サキュバス、だと?」
「そうよ。でも安心して? あなたの精気は美味しそうだけれど……今は我慢してあげる。あなたには先約があるから、ね」
「先約?」
 首を捻りつつも、女の淫気が弱くなったのを感じた嘉神は、無意識に息をついていた。
「色々知りたいことがあるでしょう? 話してあげるから、客間へいらっしゃい。
 レン、守護神サマに服を着せて? 武器も持たせてあげるといいわ……その方がより安心するでしょうし」
「ふ…く……?」
 反射的に自分の胸元に目を落とし、嘉神は耳まで赤くなった。
 何も、着ていない。
 一糸まとわぬ、つまりは裸だったのだ。

「手伝わなくて良い……一人にしてくれ……」
 寝台の敷布を羽織った嘉神は、がっくりとした口調で服を手にした少女に言った。
 いくら色々と動転していたにしろ、いくら相手が淫魔と少女とは言え、己が全裸を晒すとはなんたる失態か。
 野望を挫かれ、地獄門に身を投げながらも生きながらえてしまったあげくのこの失態。無様にもほどがある。
 羞恥と情けなさに、今は誰の顔も見たくはなかった。
「………………」
 少女は、無言で嘉神に服を差し出した。しかし力なく嘉神が受け取っても部屋から出ようとはしない。
「……すまないが……」
「…………」
 嘉神が重ねて言っても、少女は動かない。無言で、じぃっと嘉神を見つめている。
「…………」
 諦めた嘉神は少女の視界から身を隠すように服を着始めた。

 身につけた服は、形こそは以前嘉神が着ていたものと同じだが、真新しいものだった。
「これは、君たちが用意してくれたのか?」
 外套に袖を通し、振り返って問うと、こくり、と少女は頷く。
 元の服はおそらくは地獄門に身を投げたときに傷んでしまったのだろう。どうやったかはわからないが、あの淫魔は同じ服を用意したようだ。
「………………」
 少女が小首を傾げた。
「ん……?」
 嘉神が首を捻ると、すっと嘉神を指さす。
――……服のことか?
 少し考えて見当をつけると、嘉神は答えた。
「ぴったりだ。前のものと寸分変わらない」
 少女はまた、こくりと頷く。
「私の剣は何処だろうか?」
 今度は少女は、別の方向を指さした。その先には、小机が一つ。その上に、嘉神の愛刀が置かれていた。
「ありがとう」
 礼を言うと、嘉神は剣を取り、腰に吊した。自然にふっと、息をつく。剣を手にしてようやく気分が引き締まり、落ち着いたようだ。
――しかし……
 ここは何処なのだろうと改めて嘉神は思う。己の感覚を信じるならば現世だが、地獄門に身を投げた己が現世にあるはずがない。だいたい、淫魔が住まう家が現世にあるはずがない。
――なんにせよ、あの淫魔に聞くより他ないか……
 一つ頷いて嘉神は少女に目を向けた。無言で少女はさっきと同じ場所でたたずんでいる。
「あの女のところへ案内してくれ」
「…………」
 嘉神を見るが、少女は動かない。
「案内できないのか?」
「…………」
 問うても否定も肯定もせず、少女は嘉神を見つめている。
――……困ったな
 嘉神は僅かに眉を寄せた。
 と、それを目にした少女がきゅ、と口を引き結ぶ。それは不満を示しているように嘉神には思えた。
――何が、不満なのだ?
 考えても理由が思いつかない。だが嘉神を見つめる少女の夕日色の目は、変わらず不満を訴えているように見える。
――わからん。
 諦めた嘉神は、直接問うことにした。ここであまり時間を掛けても仕方がない。
「レン、私は君を怒らせることをしたのか?」
「…………」
 くるり、とレンは嘉神に背を向けた。
「レン?」
 嘉神の声にも構わず、レンは扉へと向かう。
 そして扉を開くと嘉神を振り返った。
 ついてこい、と言うように。
 不満の色はもう、無い。
――なんなのだ。
 怪訝に思いながらも、嘉神はレンの後を追った。
 

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