月下の運命 華の誓い
Assassin - Dream of SweetPoison
漂うは湿ったカビ臭さ。
響くはちょろちょろと水の流れる音、キィキィと何かの小動物のあげる鳴き声、走る音。
闇を照らす明かりはただ一つ。小皿に注がれた油に浸かった灯心に揺れる火の光。
ここは街の地下に設けられた水路だ。といっても随分古いもので使われなくなって久しい。
少々湿度が高く、かび臭いことを我慢すれば、身を潜めるには申し分ない。
そう考えた一組のマスターとサーヴァントの姿が小さな赤い光の中にあった。
一人は、床に敷かれた布の上に横たえられた少女。
少女の髪はウェーブのかかったショートボブの金髪で、赤いリボンがヘアバンドのように結ばれている。
着ているのは黒いブラウスと赤いロングスカート、胸元には赤、腰には白の大きなリボンが付いている。
白い肌には生の気配が薄く、普段は薔薇色の頬の色も失せ、無機質さを感じさせる。
少女の目は青空に似た色なのだが、今は閉ざされて見えない。
その姿はこの水路には似合わない愛らしい人形のようだ。しかしそれもある意味道理と言えた。
少女の本性は「人形」なのだ。
捨てられた人形に長い年月をかけて鈴蘭の毒が蓄積することで誕生した妖怪、それが少女――メディスン・メランコリー。
もう一人は、意識を失ったままのメディスンを無感情に見つめたまま見つめる男。
メディスンに従うアサシンのサーヴァントであり、暗殺者一族の飛賊の一人である男の名は麟という。
麟は周囲の気配を探って誰も後をつけていないことを確認し、無造作に自らの右の親指を噛み切った。たちまちの内にあふれ出すどす黒い血をメディスンの僅かに開いた唇に垂らす。
「……」
小さく少女の喉が動き、麟の血を飲み込んだ――が、反応はそれだけだ。閉ざされた目が開くことも、白い頬に薔薇色が戻ることもない。
「……これでは駄目か……それとも、足りんのか……」
親指の傷に布を巻き付けながら麟は呟く。その右腕はセイバーのサーヴァントと戦っていた時と比べて異様な色が少し褪せていた。
その理由も、メディスンが目を覚まさないわけも麟は気づいている。セイバーに斬られたせいではない。どういうつもりかはわからないが、セイバーはメディスンを斬らなかった。寸前で手を返し、峰打ちしたのみだ。それも急所を外している。それでも真剣の一撃であるから人ならば肋骨にひびぐらいは入っただろうが、人形の妖怪のメディスンは気絶ぐらいですんだだろう。
今のように生気を失い、目を覚まさない理由は他にある。
麟とメディスンには共通点が一つある。おそらくは二人をマスターとサーヴァントとして結び合わせた理由であるそれは「肉体に毒を宿している」こと。
メディスンは人形の身に毒を蓄積されたことで生まれた妖怪。
麟は飛賊としての修行により赤子の頃から毒を摂取し続け、その身に流れる血液までもが猛毒と化した暗殺者。
だが今、二人の体の毒素はひどく薄れている。薄れてしまったからこそ、麟の五体の内もっとも毒素の強い右腕の異様な色が褪せてしまったのだ。それだけではなく己を構成する一つとなっている毒素が薄れたことで麟は肉体に変調を覚えている――体が重く、倦怠感があり、意識していないと呼吸も乱れる――が、誕生からして毒が関わっているメディスンにとって自分の体から毒素が消えるのは麟以上に致命的なことに違いない。目を覚まさないのは当然である。
毒素が消えた理由も分かっている。
セイバーのマスターである少女から放たれたあの光。
「…………」
マスターである少女のことを思い浮かべた麟の眼に、僅かに不快の色が浮かんだ。が、微かに首を振って意識を少女から放たれた光のことに切り換える。あの時何が起きたのか、正確に把握し直すことが先決だ。
あの光が放たれた直後に麟の体の毒素が薄れ、少女の動きが変わったのだから少女とセイバーの毒を消すためのものだったのだろう。麟とメディスンにまでも影響が及んだのは偶然にすぎないと見るべきか。
その偶然は最悪の偶然になってしまったのだが。
だが最悪の中の僅かな幸いと言うべきか、メディスンにはまだ命はある。メディスンが「スーさん」と呼ぶ小さな妖精のような姿をしたものは普段と変わることなくふよふよとメディスンの側を飛んでいる。スーさんとメディスンがどういった関係なのか麟は知らないが、メディスンの命が無くなったなら、もう少しなんらかの反応は示しそうな気がする。
なにより、小さな右の掌にある赤い、花を三つつけた鈴蘭を意匠化した紋様――令呪は消えておらず、サーヴァントである麟はマスターであるメディスンとの繋がりをまだ感じている。
しかし生はあると言ってもどうすればメディスンが回復し、目を覚ますかが麟にはわからない。猛毒である自分の血を飲ませてみても反応はほとんど無い。単純に量が足りないのか、麟の毒では駄目なのか――もしかしたらメディスンを妖怪へと変化させた鈴蘭の毒が必要なのかもしれない。
――どうするべきか。
メディスンへ視線を向けたまま麟は思案する。
「何をしたらいいのか」ではない。するべきことは決まっている。思案するのはするべきことの順位漬け、および手段、方法の模索だ。
麟が今一番にするべきことは――
『何でも願いが叶うの? じゃあ、私はね……』
聖杯戦争に自分がマスターとして巻き込まれたことと、聖杯を勝ち得たときに何が起きるかを知ったメディスンが無邪気に言った言葉が、ふと麟の脳裏によぎった。
『全ての人形が幸せになれる世界を願うわ』
メディスンは他のマスター、サーヴァントと戦い、殺し合わなければならないことなどまるで意に介していなかった。
それが幼い少女だからなのか、人とは違う理に生きる妖怪だからなのかはわからない。
『全ての人形が幸せになれる世界』。人形の幸せというものがどんなものかは麟にはわからないが、それが人形が変じた妖怪であるメディスン自身も幸せになれる世界であることは間違いないだろう。
『私が幸せに』ではなく『全ての人形が幸せに』と望んだのは何故かも麟にはわからない。ただ無邪気に、麟の戸惑いなどまるで気づかずに少女は願いを口にし、それを叶えることを望んだ。
『ね、麟は私のサーヴァントなんでしょう? サーヴァントって私(マスター)を手伝ってくれるものなのよね。じゃあ、手伝って』
わかった、と。
少女の望む心が理解できないまま、何疑うことなく自分のような者に頼んできたメディスンに戸惑いながらも麟はあの時頷いた。
麟にも叶えたい望みがある。それまでどれほどに手を尽くしても手がかり一つ得られなかったその望みが叶うのなら、奇跡を頼ってみるのもいい。
そうせざるを得ないほど、麟には己の望みを叶える他の方法がなかったのだ。
だからこそ、己の望みを叶えるためと、麟はメディスンをマスターとして認めた。
今も、新たな方法などない。聖杯を手に入れ、その奇跡の力で望みを叶える――裏切り者の龍の居場所を見つけ出し、この手で罪を贖わせる――しか麟にはない。
『願いを叶えてくれる力でいいことだけが、起きるわけじゃ、ない』
『聖杯など、不要』
「…………」
思い出してしまった二人の言葉に今度ははっきりと、麟の顔に不快の色が浮かんだ。
セイバーとそのマスターははっきりと聖杯を拒絶した。聖杯を奪い合うのが聖杯戦争に関わるマスターとサーヴァントの有り様のはずであるというのに、彼らはそれを望まない。望まないならまだ良い。だが彼らは望みのある自分達に刃を向けた。
無邪気に幸せを望んだ小さなメディスンにまで――
愚かしい、と麟は思う。セイバー達のことではない。自分自身のことだ。
聖杯戦争は問答無用でマスターとサーヴァントを選んでいる。叶えたい望みがあったとはいえ、麟もメディスンもサーヴァントやマスターに自らなったわけではない。気づいたらマスターに、サーヴァントにされ、その結果として聖杯を得れば願いが叶うことを知った。
セイバー達とて同じだろう。ただ彼らは選ばれたものの聖杯に望むものなどなかっただけだ。そうであっても聖杯を得ようとする麟達のような他の者がいれば自分の身を守るために戦うのは当然のこと。聖杯にかける願いがないからといって他者にむざむざ殺される理由こそ、あるはずがない。
そんな彼らに、そこまでわかっていてどうして不快感を覚えるのか。しかも麟は暗殺者だ。戦い――殺す相手と真っ向から対峙することをそう言うのならば――において、戦いに関係のない相手の感情や思考など考慮したりそれに反応するなどこれまでなかった。
にも関わらず、麟はあの二人、紅い髪の剣士と黒髪の少女の言葉に不快を覚え、怒りすら感じた。
「愚か」
今度は口に出して麟は呟いていた。自分に言い聞かせるが如く、己の感情を否定するが如く。その呟きが功を奏したか、麟の顔からは感情の色は消えた。
まずはメディスンを目覚めさせ、麟自身も回復しなければならない。今回のようなことは今後も予想されるのでメディスンを伴っての戦闘は避けたいところだからメディスンの意識がないのは好都合とも言えるが、マスターが意識不明のままでは不都合も出てくるかもしれない。
他のサーヴァントやマスターの情報を探るなどもしておきたいが、今は麟自身も薄れた毒素を補うために毒を摂取し、少しは休息しなければならない――
ヒュッと空を切る音が一つ。
それだけで小皿の上の灯心が切断され、闇がこの場を支配する。スーさんが不安げにメディスンの胸の上に降りた。
「警戒は不要だよ、アサシン」
妙にもったいぶった男の声が裏路地に響く。奇妙に反響する声は、どこから聞こえてくるのか捉えづらい。
声に構わず麟は意識を研ぎ澄まして声の主――アサシンでもないのに気配を一切感じさせない男の気配、またはこの場の変化を探る。
――遠隔から声のみを飛ばしているか、何かの術で気配を消しているか……
どちらにしろ、「警戒は不要」な相手とは到底思えない。
ここは麟がねぐらに選んだ場所だ。もう使われていない水路は無闇に複雑に入り組んでおり、明かりもないため安易に踏み込めば間違いなく迷ってしまう。更にここに戻る際には麟は尾行に十分気をつけている。サーヴァントに選ばれた時点である程度の魔力を感知する能力も麟は得ている。他者の気配を察知することにかけては麟には自信もある。
それなのに、声をかけられるまで何も気づけなかった。それだけの力量を持った相手だということだ。警戒しないはずがない。
もちろん、声の主とてそれぐらいわかっているだろう。そのはずなのに何も知らぬ風に、芝居がかった口調がまた闇に響いた。
「私は君の敵ではない。君と手を取り合いたいだけなのだよ」
「……何?」
予想外の言葉に麟の眉が僅かに寄る。
「君の可憐なるマスター・ドールを回復させ、再びの笑顔を取り戻すすべが私達にはある。私達も君にも、他のサーヴァントを倒す理由がある。
助け合って損はないと思うがね。敵の敵は味方、という言葉もある」
助け合う、等と言えば聞こえはいいが、要は向こうは麟達を利用したいということだろう。
男がメディスンを回復させられるのなら麟の側にはメリットがある。では向こうのメリットはなんなのか。それを男は口にしていない。「他のサーヴァントを倒す理由」などメリットではない。手を組むならば双方のメリット・デメリットを提示できなければならない。一方的なこちら側のメリットのみの提示は裏があるものと見るべきだ。
それだけではない。この男は麟に気づかれずにこの場所にまで至っただけではなく、先のセイバーとの戦いも見ている。そうでなければ「君のマスターを回復させる」などと言えないだろう。だが、あの戦闘を見ている者の存在など麟だけではなくセイバー達も気づいていなかった。もし気づいていたらセイバー達の立ち回りももう少し違ったものになっていたことだろう。
何より見過ごしてはならないのは男が「マスター・ドール」と言ったことだ。この男は、メディスンの本性を見抜いている。今は生気無く意識を失い、「人形のよう」にも見えるとはいえ、見た目だけでメディスンを人形と断じることなど並大抵のものにはできない。
「他のサーヴァントを倒す理由か。ならば貴様には俺達を、俺達には貴様を倒す理由があるはずだが」
言外に麟は「貴様は信用成らない」の意を含ませる。身動きはしないが、四肢には緊張を走らせ、いつでも動ける体制は整える。
「キキキ、確かにその通り! よろしい、訂正しよう。
私達には君を最優先で倒す理由は今は無い。君にはあるかね? 無ければ手を組むに問題はあるまい」
愉快そうに嗤った男は、全く態度を揺るがすことなく言葉を訂正した。麟の指摘も予想の範囲内であったのかもしれない。
「…………」
麟は、沈黙した。
確かにこの男を最優先で倒す理由はない。他のサーヴァントやマスターの様子を窺いながら倒しやすいものから倒していく。それが麟の方針だった。一度逃げられたセイバーとそのマスターにメディスンがこだわりを見せていたぐらいである。
だからといって手を組みたいと思える相手でもない。未だここにいるのか、遠隔から声だけを飛ばしているのかも定かではないことはともかくとして、この男の声からはどうにも薄気味の悪い、嫌悪感じみたものを感じてならない。話を聞いてみる気にさえなれない。
「やめましょう」
呆れた声――今度は、女、それもまだ若い女の声が響いた。最初の男の声と同じく奇妙に反響しその場所を掴ませないが、男の声よりはまともだと麟は感じた。
「おやおや、彼と手を組むのは諦めるのかい? 君から言い出したことではないか」
「あなたに交渉を任せるのをやめるということよ」
はぁ、と一つ溜息が響いた。
「アサシンのサーヴァント、あなたは助け合うなんて飾った言葉よりはっきり言った方が信用する気になるタイプよね」
奇妙に反響していた声が一点に収束する。
「私達はその子を回復させる。引き替えにあなたは私達の指示で動いてもらう。これならわかりやすいでしょう?」
話す声の気配をようやく麟は感じ取った。闇に佇む女の息づかいまで聞こえる。距離は麟の位置から――ふざけた話ではあるが10m程度しか離れていない。やろうと思いさえすれば、一挙動で麟は間合いを詰めて女を仕留められる。
邪魔するものがいなければ、の話だが。
女の側に、異様な、あるいは奇妙な、だが間違いなくサーヴァントの気配――これが先の男の声のものだろう――がわだかまっていることも麟は感じ取っていた。いや、気配より先に「臭い」に気づいたと言うべきか。
水路のかび臭さすら忘れさせる、濃厚な血臭。それが気配もつレベルまで凝固して女の側に在る――そんな感覚がある。
さすがにサーヴァントが側にいては迂闊に手を出せない。手を出すより先にこの場を脱する道を検討しておいた方がいいぐらいだ。
「どうかしら?」
女の声が響く。要求を明確化し、姿も現す。その上でのこの言葉は決して問いかけではない。女は麟に応じろと迫っているのだ。
「直接的なのが悪いとは言わないがね、これは少々面白味に欠けないかね」
男が先の女の声よりもなお強い呆れの色を露わにする。
「こんなところで時間をかけるのが嫌なだけよ」
「おお、そういうことであれば言ってくれれば君のお好みの舞台を仕立て上げたものを!」
「……答えを、アサシンのサーヴァント」
大げさな嘆きの声を無視して女が再度迫る。
――…………
麟は、メディスンを見ていた。
妖怪だからか、人形だからか、メディスンの呼吸は感じない。離れた位置にいる女の息づかい、命の存在感の方がよほど生々しく感じられる。
このままにしておいてメディスンは目を覚ますかどうかはわからない。麟にはメディスンを目覚めさせる方法がない。放っておいても自然と回復するならいいが、その保証はない。
『ね、麟は私のサーヴァントなんでしょう?
じゃあ、手伝って。願いをいっしょに叶えて』
無邪気にメディスン・メランコリーは言った。
願うことの、聖杯戦争に身を投じることの意味も知らず、ただ結果だけ、それもまだ手に入れてもいない結果を見て少女は言った。
無邪気さは無知から生まれ、愚かさの裏返しとも言う。
実に愚かにメディスンは、捨てられた人形は望んだのだ。
凄惨となるであろう殺し合いの果てに得られる聖杯で『全ての人形が幸せになれる世界』を願うことを、ただただ無邪気に、一心に。
「……いいだろう」
低く、ただ一言。
麟の返答はそれだけだった。
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