月下の運命 華の誓い
四の三 奇跡(偽)
黒いコートが、不自然に広がり――倒れるその人の後を追って流れるように落ちていく。
さっきから消えない息苦しさも体の痺れも忘れ、舞は目を見開いてそれを見る。
音は、聞こえない。あったかもしれないが舞には目に映るものを認識するだけで精一杯だった。
倒れ伏したその人、御名方守矢の上へ遅れてコートが広がる。
鮮やかな紅い髪も、黒いコートに包まれた体も、立ち上がろうとしているのか地をかく指も、不自然に震えているのが見えた。
――守矢、が……
守矢を眼に映したまま、舞は両の手を地に突く。力はうまく入らない。きっと毒の類に身体が侵されているのだろう。短い時の間に体の痺れは増し、地に手を突いているという感覚も怪しい。それでも舞は両の手に体重をかける。感覚が足りないなら意志で補う。補って、立つ。そうしないと間に合わない。知覚するより先に意識が叫ぶ。
――……守矢が、危ない……っ
叫ぶ意識が意志となり、突いた両の手を起点に体を立ち上がらせようとするが、舞の体は素直に意志に従ってくれない。
長身痩躯の男が守矢に近づく。感覚はおぼつかなくとも、男の全身から先程まで気配を感じさせなかったのが嘘のように強烈な怒りと殺気が放たれているのを舞は感じ取る。それが誰に向けられているかは明らかだ。
「……り、や……」
――うご、いて、動いて……っ!
恐怖に、それ以上に悔しさと情けなさに舞の目に涙が浮かんだ。このままでは守矢はあの男に殺される。そんな光景は見たくない。そんなことは許さない。
守矢も毒のせいで体が痺れていたはずだ。苦しみを、痛みを感じていたはずだ。それでも守矢は戦った。舞を守ろうとした。
守矢がサーヴァントで舞がマスターだからではない。
『お前は、一人ではない』
舞が魔物と戦い続けていた日々のあの月の夜、守矢はそう言った。
『お前には友人がいる。
……それに』
今もはっきり覚えている。言葉も、自分を真っ直ぐに見つめていた守矢の紅い目も。
『私もいる。お前は一人で戦わなくていい』
守矢は知っているだろうか。気づいただろうか。自分の言葉がどれだけ舞の力になったのか、舞の支えになったのかを。
大切な友人達がいて、守矢がいて、だから、舞はあの夜の日々を――絶望の最後の夜さえも――越えて生きることができた。
そして、あれからも守矢は自分の言葉を守り続けてくれている。
今も、命懸けで。
ならば、舞がすることも決まっている。舞が一人で戦わなくていいのなら、守矢だって一人で戦うことはない。
――守矢が、死ぬなんて、嫌。私の、体……動いて!
涙で視界がにじむ中、それでも守矢を見つめ、舞は必死に腕に力を込めた。立たなければ、守矢を守れない。
男がその痩躯からは意外なほど軽々と左手で守矢の喉を掴んで釣り上げた。時折びくりと体を痙攣させるだけで、守矢は抵抗の様子も見せない。ぐったりとうつむいた状態のため、表情も見えない。
ただ、その手から刀が離れ落ちることは、なかった。
「もり、や……」
男が右腕を引く。手刀の形をとったその手が狙うは、守矢の心臓。無手であったが、男の異様な色の腕がどれほどに恐ろしいものかは舞にも容易に察することができた。
「あ、あぁ……っ!」
守矢の危機への理解が、最後の起爆剤となった。渾身の意志を腕に込め、舞は立つ。弾みで目にたまっていた涙があふれ頬を伝うが拭う余裕など無い。ふらりとよろめく足を踏みしめ、痺れた手で懸命に剣を握る。
「守矢ぁ……っ!!!」
全力で地を蹴り、舞は駆ける。しかし、男までの十数メートルの距離は絶望的なまでに遠い。そう感じるほどに舞の動きは鈍い。
だが舞は駆ける。地を蹴る。守矢の元へと走る。その胸にあって舞を突き動かすのは意志であり、願いであり、叫びのような祈り、祈りのような叫び――
――守矢を、死なせない!
男の手が僅かに後方に引かれる。さながら、銃の撃鉄を起こすかのように。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
想い全てを込めた舞の剣が、閃く。
一つの結果だけを言うならば、剣は男には届かなかった。毒に侵された舞の体では、間合いを詰め切れなかったのだ。
しかし。
男の手刀が守矢を貫くこともなかった。
剣の代わりに男を止めたのは――洪水の如き、光の奔流。
全てが光に飲み込まれる。
光の根源は舞だ。自分の内からその光が現出していることを舞は感じている。そこに恐怖はない。あるのは戸惑いと疑問と、違和感。
――何……これ?
舞が疑問を抱く内にもすさまじい光の奔流に守矢も、男も、裏路地の光景も、舞の視界に映る全てが塗りつぶされる――
そう舞が思った瞬間、光は消え失せていた。
――……今のは、何? どうして?
舞の心に陰りを落とす違和感と疑問を残して。
しかし今はそれにかまけている場合ではない。舞は守矢を助けるのだ。光のせいでちかちかする視界の中に、男に釣り上げられたままの守矢が見える。男が光に目が眩んだおかげか、まだ守矢は貫かれていない。男は自分の右の手に目を向け、僅かに困惑しているようにも見える。
舞は迷わなかった。
「はぁっ!」
振り抜いていた刃を返し、舞は再度地を蹴った。ついさっきまでとは違い、体が軽い。感覚も戻っており、息も苦しくない。それを不思議に思う間も余裕もなく、舞は男に斬りつける。
「……」
男の行動は素早かった。守矢の体を投げ捨て、後方に飛び退る。
――守矢!
男を視線では追うが、それよりも守矢が気がかりだ。舞は躊躇なく守矢へと駆け寄った。首筋に手を当てる。あたたかい。生きている。胸も僅かに上下しており、守矢の生を示している。
――よかった……
ほっと息をつきかけ、舞はびくっと身を強張らせた。
氷の矢で射貫かれた、そんな錯覚を覚えるほどに強く冷たい視線。目を向ければそこには、小さな金髪の少女を抱きかかえた男の姿がある。
――次は、必ず。
男の目が、全身から放たれる怒り混じりの強烈な、しかしどこまでも冷たく昏い殺気がその意志を叩きつける。
『殺す』と。
「……っ」
舞の剣を握る手に力がこもったのは男に斬りかかろうとしたためではなく、身に走った戦慄からの反射行為にすぎなかった。
男が身を翻す。その姿が裏路地の奥へ、薄暗い影がわだかまる中へと消えていくのを呆然と見送るしか舞はできなかった。放っておけば禍根になると分かっていても、今まで向けられたことのない殺気に少女は動けなかった。
「……………………」
完全に男の気配が、殺気と怒気がこの場から失せてようやく舞は息を吐く。
剣を置き、守矢の頬に触れる。守矢に意識はないが表情に苦痛の色はなく、呼吸も安定している。
男の攻撃が掠めてできたものだろう、守矢の頬に赤く走っている傷をそっと舞は撫でた。
「……守矢」
男が最後に向けた殺気と意志は恐ろしかったし、気になること――舞自身から放たれた光、そこに感じた疑問と違和感は今は舞の胸中で漠然とした不安となっている――はある。
けれど、それでも、今は守矢が無事なのが舞にはこの上なく嬉しい。
「よかった……」
落ち着いた呼吸をゆっくりと繰り返す守矢の紅い髪を撫でながら、安堵の吐息と共に舞は呟いた。
月下の運命 華の誓い 四の四 大切な、言葉
ほんの小さな傷口から激痛と熱が全身に広がる。息ができない。音が聞こえない。何も見えない。体の自由が一瞬で失せ、五感全ての感覚が痛みと熱だけに埋め尽くされる。
毒。僅かに掠めたにすぎないと思ったアサシンの腕が致命的だったのだと気づいた時には遅かった。あの腕は見た目以上に危険なものだったのだ。
――ま、だ……だ……
これで戦いを終わらせるわけにはいかない。かろうじてその意志、戦意は痛みと苦しさの中に残っているが体が動かない。
左手に力を入れ、刀の柄を握りしめる。だが意志はそのつもりでも、左手がどこなのか、手の内に本当に刀があるのかさえももうおぼつかない。
それでも、刀を自らの意志で手放し、諦めることはできない。戦わなければならない。体を動かさねばならない。自分は――と彼女に、己自身に誓ったのだ。
しかしどれほどあがこうとも暴力的なまでの痛みと熱に意識は埋め尽くされ、虚ろになっていく。
『……まえ……、ひと……では……』
自分の言葉だったか、それとも誰かの言葉だったか。
はっきりと捉えられない言葉、それは己のあがきの証なのだとそれだけは理解している言葉と同時に虚ろな昏い意識に浮かぶ、白い光。
あれは確か、月――
――月……?
視界に映ったものが意識にあるものとは一致せず、御名方守矢は数度瞬いた。
「……舞?」
「うん」
頷きが戻ったところでようやく、視界にあるのが舞の顔だと守矢は理解した。
同時に、自分が舞に膝枕されていることも理解する。
柔らかで張りのある、舞の腿の感触を否が応でも後ろ頭に感じつつ、
「…………」
「…………」
舞と視線を合わせたまま、暫し。
「守矢?」
「あぁ……いや」
一つ咳払いして守矢は体を起こし、立ち上がった。左手に握ったままだった刀を鞘に納めたところで初めて身体に痛みも熱もなく、息苦しさも消えていることに守矢は気づいた。
「守矢、大丈夫?」
自分も立ちながら心配そうな顔で舞が問う。あぁ、と答えながら改めて守矢は状況を確認する。
マスターと思われる少女を斬りつけ、手応えを感じた瞬間に突如全身に激痛に覚え――そこで、守矢の明瞭な意識は途絶えている。
「何が、起きた?」
舞の様子、そして感じられない気配から、アサシン達は去ったのだということはわかる。だが、それが何故かなのかを守矢は知らない。
「……うん」
曖昧に舞は頷く。
「守矢が、倒れて、それから……」
あの男、アサシンに舞が斬りかかったこと。
守矢を助けるのに間に合わない、そう思った時に舞自身から放たれた光のこと。
光が消えた後、少女を抱いてアサシンが去ったこと。
舞の身を蝕んでいた痛みや苦しみが消えたこと、守矢の様子から守矢もそうだと察したこと。
その後、気を失ったままの守矢のそばに舞はずっといたこと。
それらを自分が理解していることとそうでないことを分けることなく、淡々と舞は語った。
「そう、か」
「……うん」
こっくりと頷く舞の内にある戸惑いと不安の色を守矢は見て取り、その種は去ったアサシンではないことを直感的に理解していた。舞の不安は――
「舞、その光はお前の力か?」
「……違う。あれは、私の……「まい」のじゃない……私の知らない、何か」
ふるふると舞は首を振る。
「光に何か感じたか?」
話を聞いた時点でこのことを慨世に守矢は相談することを決めていたが、仮に舞が光に悪いものを感じたのであればより急ぐ必要が出てくる。
「嫌な感じはしなかった。私のじゃないってわかっただけ……」
そうは言いながらも舞は目を伏せる。悪いもの、嫌なものを感じていなくとも「まい」がいなくなったことに加え、自分の知らない力、光が自分から放たれたのだ。不安になるのも当然だろう。
「舞」
舞にかけた守矢の声の響きはいつもとなんら違いはなかった。
「今日は戻ろう。師匠達に相談すればきっと力になってくれる。
すぐにこのことが解決するかどうかはわからんが、皆お前の支えになってくれよう。
お前は、一人ではない」
ただ、少しだけ饒舌になっていたことがいつもとは異なっていた。
「守矢……」
舞が目を上げる。黒目がちな大きな眼が、じ、と守矢を見つめる。
あの月の夜、守矢から今と同じ言葉をかけた時のように、しかし、あの時に浮かべた戸惑いではなく揺るぎない信頼を宿した眼。
「……うん」
頷いた舞の顔の不安が幾分、不安が和らいだ。
そっと伸ばされた細い手が、守矢の着物の袖を握る。
「守矢も、いるから」
握られた袖を、握る舞の手を守矢は見る。
舞の内心の想いを表したかのように、きゅ、と力の込められたそこを。
だから、守矢は。
「あぁ」
一つ、頷きを返した。
それはいつもと何も変わらないようで、舞にはわかる、確かな応えであった。
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