月下の運命 華の誓い

四の二 蝕む影

「……っ!」
 少女の言葉が終わるより早く、守矢は一歩踏み出していた。声は姿がこちらには見えないことで油断しているのか、無防備そのものだ。いるであろうサーヴァント――おそらくはアサシン――と違い気配もはっきりとわかる。
 ならば先に抑えるのは、少女の方。
 守矢の姿が霞み、一気に間合いを詰める。刃を走らせる。ようやく状況を察した少女の悲鳴が大気を震わせ――
「!」
 守矢は手首を返した。剣閃が急激に、無理矢理に軌跡を変える。美しいとさえ言えた剣閃はいびつで不安定ながらも、「それ」を――陰から伸びた腕を受け止める。
 人のものとは思えぬ異様な色をしたその腕の向こうに、守矢はアサシンのサーヴァントの存在をようやく感じ取る。
「…………」
 ずるり、と腕が退く。ほんの刹那の間、アサシンと自分の視線が重なった気がしたが、それが事実かどうかは守矢にはわからない。それほどにアサシンからは感情が感じられなかった。今守矢と戦っているというのに、敵意も殺意も感じない。もし本当に視線が合っていたとするならばアサシンに見えたのは淡々と眼前のことを処理する、まさにアサシン――暗殺者のサーヴァントの在り方にふさわしいそんな無機質なもののみだったと守矢は思う。
 思いながらも守矢の体は動いている。
 陰へ下がらんとするアサシンを追い、踏み込む。
「守矢!」
 少女の声と共に影が走る。鞘走りの音と共に空が唸る。
「舞」
 守矢の前へ出た舞が振るった刃は守矢に向けて流れ来ていた紫色の霧を切り裂いていた。霧の正体は定かにはわからないが、おおよそろくでもないものに違いない。
「もうー、邪魔しないでよー!」
 切り裂かれ、薄れ消える紫の霧の向こうから少女の声がする。拗ねた響きは緊迫したこの場に似合わないが少女にそれを気にした様子はなかった。
「おとなしくやられちゃえ!」
「下がれ!」
 少女の声と同時に膨れあがる異質の気配に守矢は叫びながら飛び退る。守矢の声を聞いてか自分の判断からか、舞も既に動いていた。
 吹き付ける、颶風。先を上回る速さで広がる紫の霧、その奥から襲来する星形のいくつもの弾丸。
 舞う銀閃は、二つ。
「……くっ」
 舞が小さくうめく。致命的なものは弾いたとはいえ、数の多さに幾つかはその体を掠めていた。
 それは守矢も同じく。だが、痛みに構わず守矢は更に刃を振るう。
 剣を振るう者として培った直感、本能だけを頼りに振るった刃に、鈍い、しかし浅い感触が伝わる。霧と弾丸に紛れ、死角から守矢を襲う、アサシンの攻撃を弾いたのだとそれで理解できる。
「そんなに」
 舞も一歩踏み出し、大きく剣を振るった。弾丸を跳ね返し、紫の霧を裂きながら口を開く。
「聖杯が欲しい?」
「当たり前よ!」
 答えと共に、再び弾丸が飛ぶ。
「なんでも願いを叶えてくれるすごいもの、欲しくないはずがないじゃない! あなた達だってそうでしょ!」
「いらない!」
 舞の剣が閃き、星形の弾丸を次々に叩き落とす。落とし損ねた弾丸が腕や足に当たる痛みの中、舞は顔を前に向けたまま叫んだ。
「願いを叶えてくれる力でいいことだけが、起きるわけじゃ、ない……!
 奇跡は……そんな、べんり……じゃ……」
 言葉が不明瞭になってきたかと思うと、不意に舞は膝をついた。呼吸が浅く、早くなり、その体は苦しげに震えている。
「舞……っ!?」
 振り返り、舞に歩み寄ろうとした守矢の足から一瞬力が抜けた。かろうじて踏みとどまり、体勢を整えるが身体の異常は去らない。力がうまく四肢に入らず、息苦しさもある。
――これ、は……
 毒、か――思考まで鈍り始めたかのようで、うまく言葉が出てこない。
 確かに妙な薬臭いにおいもしていたし、紫の霧はろくでもないものだろうとも思っていた。一端足を踏み入れた以上この場から逃れるのは困難ではあるが、それでもこの場に留まったのは迂闊、などと思ってももう遅い。
「……くっ」
 剣を握る腕を振るう。思うより遅い動きながらもなんとか守矢の刃はまた死角から襲い来るアサシンの一撃を受け止め、弾いた。
「アハハッ、やっと回ってきたね」
 無邪気な声が守矢の推測を肯定する。
「ここは私と麟の世界。優しい毒に包まれて、覚めない眠りにつくといい!」
 砂が流れ落ちるような音と共に、紫の霧が三度広がる。霧の内より襲い来る者の気配を守矢は感じる。その動きは先よりも速い。守矢達に毒が回ってきたことで、気配を抑えるよりも確実に仕留めることをアサシンは選んだのだろう。
 守矢は痺れ、感覚がおぼつかなくなっていく手に力を込めた。
――……月下(アンダームーン)……
 気配が、霧が迫る中、揺らぎがちな意識を凝らす。時はなく、狙える機も多くはないだろう。小さな針穴に糸を通すが如く精神を研ぎ澄ませる。
 霧が来る。微かに空が揺らぐ。予備動作無くアサシンが腕を、おそらくはあの異様な色をした方の腕を繰り出したのを守矢は感じ取った。
――絶影(ストライダー)……!
 瞬間、守矢の姿が霞む。
 月下絶影(アンダームーンストライダー)。守矢の身体能力を高め、肉体を強化するサーヴァントとしての技――即ち、宝具である。
 その身が毒に侵されていようとも、十全以上の動きをこの宝具なら可能とする。
「――っ」
 守矢の動きは予想外だったのだろう。アサシンが初めて感情――驚きの色を僅かに表す。が、それで逡巡することはなく守矢の気配を追い、二の拳を放っている。
「はぁっ!」
 鋼の銀が舞う。己を飲み込まんとする紫の霧を裂き、アサシンの一の拳から身をかわし、二の拳を跳ね上げ、踏み込み、袈裟懸けに、一閃。
――……浅い……っ
 手に伝わる感触に守矢は咄嗟にもう一歩踏み込み、刃を返そうとし――たたらを踏んだ。
 視界が霞む。今までの動きが嘘のように体が重くなる。
「…………」
 アサシンが飛び退って間合いを取った。霞む視界の中ではあったが、初めて守矢はその姿を確かに見た。
 長身痩躯、弁髪頭で口元を覆面で覆っている。その眼差しからはなんの感情もうかがえない。赤とも黒とも紫ともつかぬ異様な色をしたむき出しの右腕が目についた。
「毒に身を侵されながらもその動き……サーヴァントとはいえ不自然。
 術か、宝具か――だが、長続きはしない。そうだな?」
 感情のない低い声が問うが、守矢は答えない。答えるつもりなどもとよりないが、それよりも今は答えられないと言った方が正しい。脂汗を額に浮かべ、剣を構えてじり、じりと後退る。間合いを取るためだけではなく、膝をついたまま立ち上がれない舞をかばうために。
 アサシンの言う通り「月下絶影」は長い時間保たない。せいぜい、普通の鍋一杯分の水が湧くほどの時間が関の山であり、肉体への負担から連続使用も不可能だ。
 そう、本来ならば「鍋一杯分の水が湧く程度の時間」なら保つのだ。
 それがこれほど早く効果を途切れさせたのは間違いなく守矢の体を蝕む毒のせいだろう。「月下絶影」の効果でほんの一時毒の効果を無いものとして体を動かしても、毒は消えたわけではない。
 毒と、宝具の効果と、どちらが上回るか――それまでの勝負であった。
 だがまだ完全に「月下絶影」の効果が消えたわけではない。
 姿を見せたアサシンを討つか、舞を連れてどうにかしてこの場から逃げるか、それとも他の手を打つか――選択肢はまだ、ある。
「一つ、問う」
 守矢から戦う意志を感じ取ったか、すうっとアサシンが右手を上げ、構える。
「先に貴様のマスターは「聖杯はいらない」と言った。
 それは本当か」
「……あぁ」
 吸う息は最低限に。吐く息は緩やかに。柄を握る両の手、ともすれば握っている感覚が失せそうな手に力を込めて後方に下げ、守矢は身を低くする。
 弓に矢をつがえるが如く、意識を引き絞る。
 体の状態からして、使える機はただ一度。
「聖杯、など不要。私達は……降りかかる、火の粉を払う、だけだ」
 掠れる声で、ただ機を図るためだけに守矢は言葉を紡ぐ。真の目的は口にはしない。言っても理解はされないだろうし、長々語る余裕もない。
「……如何なる願いでも叶うというのにか」
 アサシンの声は重ねて問う。何か確かめるようなその声は、どこか怒りを宿している。
 守矢は、機を見出した。
「不要……っ!」
――月よ、翔ろ(かけろ)……!
 アサシンの問いを一蹴し、それを合図として守矢は地を蹴る。全ての力を振り絞り、一陣の風の如く、天より射す月光の如く翔る。
「まだ、それほどに動けるか……っ」
 するするとアサシンが動く。速さでは格段に今の守矢にも劣ってはいるが、的確に気配を読み、繰り出された右腕がしなる。ひう、と空が悲鳴じみた音を立てたかと思うと、無数の拳撃が守矢に向けて放たれた。
「!?」
 が、守矢に攻撃はほとんど届かない。
 僅かに拳の一発が頬を掠めただけだ。守矢の動きがそれだけ速いということもあったが何よりも大きな理由は――
「……え?」
 きょとんと少女は、戸惑いの声を上げた。
 アサシンの後ろ、うっすらとたなびく紫の霧の更に奥。無防備に立つ小さな少女。金の髪が薄暗いこの場で嫌に鮮やかに見える。
 守矢の狙いは最初の一手と同じ、アサシンではなくマスターである少女の方だった。この状況を覆すにはある程度の無茶を冒してもやはりマスターを狙うしかない。
「メディスン!」
 アサシンの声に焦りの色が混じった。守矢を追うが、あまりにも遅い。その速さも、動き出した時も。
 駆けながら守矢は刃を振り上げる。
 少女は呆然と迫り来る守矢を見ている。

『聖杯、壊そ』

 守矢の脳裏に、舞の声がよぎった。
 聖杯を壊す。それは舞が望んだこと。だが舞の望みはそれだけではない――否、舞のどんな想いがその望みを抱かせたかを守矢は見ている。
 舞の声の響きに、眼差しに、表情に。
 『奇跡』を巡って人が相争い、傷つけ合う。それを厭う舞の心を、守矢は見た。
 それは平穏な日々に生きる少女ならば当たり前のささやかな願いであり、舞のこれまでの人生を思えばやはり当たり前の望み。
「……」
 守矢は柄を握る手首を捻った。刃が、疾る。
「きゃあああああああ…………っ」
 ようやく己の危機を理解した少女の悲鳴は遅く。守矢の腕に手応えを与え、小さな体が倒れる。
「う……」
 ひどく軽いその音を聞きながら、守矢は膝をついた。己が首に手を当て、何度も咳き込む。
「……ぐっ……が……っ」
 己の身全てが腐り落ちるかのような怖気の走る感覚が痛みと共に守矢を襲う。息ができない。何も見えない、聞こえない。苦しい。痛い。苦しい。苦しい。思考がそこから動かない。

「――――!」

 誰かが叫んでいる。
 しかし守矢にはもう、それが誰の声でなんと言っているのか認識することはできなかった。
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-