月下の運命 華の誓い

三の五 殺戮するモノ

 大気が、否、空間が喚く。
 これから来たるモノへの怯えを訴えるように震え、悲鳴を上げる。
 赤く染まっていた空が一気に暗くなるような感覚を、その場にいる者全員が感じ取った。

――退かなければ、まずい。

 何から逃れるためかなどわからないがとにかく退くべきだ。そう感じながらも既に手遅れであることを、やはり全員が理解していた。
「来るぞ」
 構えていた槍の切っ先をランサーは上へと上げる。取り囲む緑の鎧の兵達に対してではない。彼らもまた何かを感じ取っているのだろう、武器を下ろすことこそないものの落ち着き無く周囲を見回している。

 空間が、軋んだ。

 最初に現れた明確な異変は緩やかな降下を続けていた緑の光輪の停止――そして、一角の崩壊。
 崩壊した箇所から光輪は消滅していく。まるで、その「モノ」の道を開けるかのように。
 ごお、と颶風が渦巻いた。
 「ソレ」が飛来する。
 「ソレ」はおおむね人の形をしていた。顔立ちからは少年のようにも見える。黒を基調とした服を身にまとい、手には抜き身の刀を一振り携えている。
 だが「ソレ」は人ではない。
 生気を感じさせない白い肌。尖った耳、口から覗く牙、肌のあちこちに印された赤い紋様――よく見て数え上げれば「ソレ」が人ではない理由はいくらでも上げられる。
 だが何よりも明確に「ソレ」が人ではないことを示していたのはその背に広がるものであった。いびつで黒い大きなそれは、腕のようにも翼のようにも見える。
「……あれが、嬢ちゃんのサーヴァントか」
「はい」
 低く押し殺したランサーの声に、こちらも小さな、か細い声でハチミツ色の髪の少女は答えた。宙にある「ソレ」を悲しげな目で見つめた少女の、握り合わせた手に力がこもる。
「私、の、サーヴァント……楓……ううん、“エリミネーター”……です……」
「エリミネーター?」
 聞き慣れない名、おそらくクラス名にランサーが思わず問い返したその時――
「――――――――!!!!」
異形の翼を広げ、黒い髪を振り乱し、「ソレ」は、“エリミネーター”は吼えた。発した音は意味を為していない。しかしその中にある意志、感情は単純にして明確なただ一つ。

 【殺意】

 全テ、殺ス。
 貴様ラ全テノ、命ヲモラウ。

 感情によるものではない。それがエリミネーターの役割であり、咆吼はその宣言であることをやはり全員が理解する。
――これだけの殺気は久しぶりだな……なるほど、「殺戮者(エリミネーター)」か。
 ぞくりとランサーの総身を走るのは武者震いと、強烈な殺意への寒けの双方だったかもしれない。「こいつはヤバイ」とランサーの戦士の本能が告げてくる。
 されどランサーの口の端に浮かぶのは不敵な笑み。ヤバイ相手大いに結構、相手が強大な存在であるならば存分に力を振るって戦える可能性が高いということだ。楽しくならないはずがない。
 一方で懸念もある。エリミネーターに対してのものではない。自分のサーヴァントである雪に対してだ。
 当の雪は心に受けた衝撃を露わにして咆吼するエリミネーターを見つめていた。
「楓……そんな……」
 一見したところは明らかな異形であるエリミネーターは雪の義弟とは似ても似つかない。しかし雪にはエリミネーターが間違いなく義弟、楓なのだとわかったようだった。血の繋がりはなくても姉弟の絆というものが告げるのだろうか。
 家で眠りについたままの楓がいるはずなのに、ここにあのような姿で楓がいるのは奇妙なことではあったが、雪は確信しているようだった。
――どうして……楓、何があったというの……?
 エリミネーターの脅威を感じ、雪の気持ちはひどく乱れているのがランサーには手に取るように感じられた。脅威を脅威と理解し、槍を構えてはいるもののこれでは雪に十全の戦いは期待できない。
――こっちでなんとかするしかねえか。
 改めて見上げたランサーの目とエリミネーターの目が合う。
 否、そう思ったのはランサーの一瞬の錯覚だった。エリミネーターの目はランサーの側にいる二人の女性――雪と、ハチミツ色の髪の少女を見ていた、ようだった。
 僅かに、エリミネーターの赤い目が揺れた、かもしれない。
「――――――――!!!!」
 ランサーが正確にエリミネーターの表情を見て取るより早く、再び咆吼が響き渡る。
 轟、と音を立てて無数の火球がエリミネーターの周囲に出現すると同時に、弾けるように散った。ただ散るわけではない。雨の如く、意志あるかの如く炎は三組のマスターとサーヴァント、そして緑の鎧の兵へと降り注ぐ。
「……氷鏡!」
 動揺から立ち戻るまでの僅かな間――幸い致命的な空白とはならなかった――はあったものの、雪の振るった槍の軌跡が鏡のような氷の盾を生み出し、炎から自分達と、悲鳴を上げたハチミツ色の髪の少女を守る。
 だがエリミネーターの攻撃はそれで終わったわけではなかった。
――やべっ。
 風の唸りをランサーが認識したときには既にエリミネーターの姿は先の位置にはなかった。沈みいく日輪の赤い光に落ちているはずの影すら見えず、気配も捉えきれない。
「せやぁっ!」
 ランサーが槍を振るったのは、戦士としての直感だけを頼りとしたものだった。
 赤き槍に伝わる、鈍い感覚。金属音を聞いたようにランサーが思った時には「ソレ」はそこにいた。
 ランサーの槍を受け止めたのはエリミネーターの刃ではない。背に生えた腕とも翼ともつかないものがエリミネーターの身を包むようにして槍を受け止めている。
 が、エリミネーターは動かない。ランサーの槍を弾き返すでも、剣を振るおうとするでもない。
「…………」
 エリミネーターの赤い目は、さっきと同じようにランサーの丁度背後に位置する雪とハチミツ色の髪の少女を見ている。
「……楓……」
 震える声でそう呟いたのは雪だったか、少女だったか。
「――――!」
 エリミネーターが吼える。
 ランサーが槍を引き、黒き異形の翼の隙間を狙って、突く。
 影が、奔る。
 虚しく空を赤の槍が貫いた瞬間、エリミネーターの刃は緑の鎧の兵の一団を薙ぎ払っていた。そこから反転し、宙に舞い上がったかと思えばまた別の一団へ、あるいは元親達、あるいは元就達へと襲いかかって斬りつけ、炎を放つ。
 ただ一人での広範囲攻撃。常人では無謀だが、エリミネーターの速度、宙からの縦横無尽の攻撃、炎と刃の二手を駆使することが重なり、迎撃を困難としている。
 その攻撃の様はさながら鎮まることを知らぬ暴風の如く。その場にある者全てを殺し尽くすまでエリミネーターは止まらない――


――妙よな。
 己の背後に控えさせたマスターである少女、霊烏路空をかばって――手は欲しいところだが、空は乱戦には不向きである――輪刀を振るっては繰り返し襲い来る闖入者の攻撃を撃退しつつ、毛利元就は眉を寄せた。
 この闖入者、おそらくはサーヴァントであるのだろうが、狙いはこの場にいる者全ての抹殺であるのは今も衰えること無い無差別かつ強烈な殺気から容易にうかがえる。
 さすがに長曾我部元親他、サーヴァントおよびマスター達は仕留められてはいないが、確実に数を減らしている兵達は既に三分の一を割った。ここに至っても【天津日の兵】を維持し続けるのは元就にも負担はあるのだが、兵を全て下げれば闖入者の元就達への攻撃の頻度は増す。それは避けたい。元就含むサーヴァント達とて、緩むことのないこれだけの攻撃――すさまじい、一人のものとも思えぬほどの攻撃をいつまでも受け続けるのは厳しいのだ。
 闖入者であるサーヴァントが元就以外のものだけを狙ってくれる、あるいは先に元親どもが倒れてくれるのがわかっているのならばともかく、自軍が先に崩れる可能性は低くはない――先日の襲撃の失敗と【天津日の兵】の展開の分、元就の方が危ういとさえ言える。
 このままでいるわけにはいかないが、既に元就は新たな策への道を見出していた。
 あの闖入者がほとんど攻撃を仕掛けていない者達がいる。台風の目のように、そこだけが奇妙な安全地帯になっている。
――これは、どういうことか。
 肉体では闖入者の攻撃を捌きながら、元就の頭脳は素早くこの状況を見て取らんとした。
 例えどれほどの異常であろうとも、例えその異常を作り出すものが異形であろうとも、なんらかの理は必ずやある。理そのものが元就の理解の外、異形の理であったとしても、理の存在を掴み、流れを読み取ることは可能。読み取ることさえできれば対処もできる。
 闖入者が攻撃を仕掛けない箇所にいるのは、槍を使う男と女、それに少女が一人。槍を使う女はランサーのサーヴァントであり、男の方はマスターだ。この二人のことは元就は知っている。ここに入り込んできた道筋さえも把握済みだ。
 一方、少女のことは元就は知らない。今までの集めてきた情報の内には彼女のことはなかった。
 とはいえ特定の場所に攻撃を仕掛けないサーヴァントである闖入者、そこにいる未知の小娘――これらを合わせて考えれば導き出される答えは一つしかない。
 それがこの状況において埒を開ける道である。


――気づかれた、か。
 気配――殺気、敵意の流れの変化にランサーは上空のエリミネーターから下方へと意識を半分ずらす。
 生き残った緑の鎧の兵達が、エリミネーターではなく自分達に弓矢を、槍を向けている。
 エリミネーターは明らかにランサー達、否、ハチミツ色の髪の少女と雪への攻撃を躊躇している。サーヴァントとして植え付けられた本能からか一切手出しをしないということはなく、流れ矢ならぬ流れ炎も飛んでくるが他の連中に比べればこちらは放っておかれているのも同然だ。
 だがいくらほぼ放っておかれているとはいえ、エリミネーターは暴風の如く攻撃を繰り返し、この場は一種の乱戦状態と化している。この状態でエリミネーターを仕留める、それ以前に仕掛けるのはランサーでも難しい。それに、ハチミツ色の髪の少女は言うまでもなく雪には躊躇いもあるだろう。ゆえに今はまだ見ているしかなかった。
 こんなランサー達の状況に誰も気づかないでいてくれれば幸運だったのだが、あの緑の鎧のサーヴァントはそう甘くはなかったようだ。
 エリミネーターの攻撃の最中だというのに自分達の身を守ることをも放棄して兵達が弓を引き、槍を構える。数は随分減ったものの、あの兵達に一斉に攻撃されるのはいささかまずい。ランサーは生まれながらにして飛び道具への対処法をその身に備わらせている為、この状況で予測される程度の一斉射撃ならどうということもないが、雪や少女はそうではない。
「雪」
 低く声をかけ、雪に視線で周囲の状況を示す。
 矢が、槍が、放たれる。
 ランサーの赤い槍の切っ先が動く。雨あられと飛んでくる槍を、矢を、弾き返す。
 間に少女を挟んでランサーと背中合わせの位置にいる雪の槍もまた、槍と矢を払い落としていく。
 それでも飛来する槍と矢は多く、また不意に流れ飛んでくる炎が厄介であり――
「……っ」
「おいっ」
「大丈夫……しのいでみせる!」
 勇ましく言うが、雪が傷を負ったのは確かだ。今襲い来るのは第一陣に過ぎない。矢と槍の雨が降り止まぬうちに、第二陣の兵達は新たな矢を弓につがえ、槍を構えている。
――厄介だな。
 ランサーは自分の手の届く範囲で広く矢と槍を叩き落としているが、三百六十度全てというわけにはいかない。加えて、あの策に長けた緑の鎧のサーヴァント、毛利元就がこれだけですませる気もしない。
 追い込まれる前に、こちらが先になんらかの手を打つしかない。
――…………
 ちらりとランサーは背後のハチミツ色の髪の少女を見る。彼女自身も戦いの心得があるのだろう、ランサーと雪が払い洩らした矢と槍を少女は自らの拳や蹴りで叩き落としていた。
 この少女がエリミネーターのマスターであることも、元就は見抜いているとランサーは読んだ。こちらへの攻撃はエリミネーターの攻撃から免れていることをやっかんでのものなどではない。誰を狙えば状況が変わるかを見越した上での一手。
 元就と同様の考えでランサーも動くことはできる。ランサーの知る聖杯戦争とはルールに異なる部分があるとはいえ、マスターを倒されればサーヴァントになんらかの影響は出るはず。少女を排除することでエリミネーターの動きを止める、またはいなくなってくれればこの場は切り抜けられる。例えそううまくいかなかったとしても、この少女がいなくなれば元就がこちらを狙う理由も減る。
――悪い手じゃないが……
 女、それも少女に手をかけるのはランサーの趣味ではない。それ以外にどうしようもない状況ならば躊躇なくそれも選ぶが、今はそこまで追い詰められてはいない。この程度の危地を切り抜けるのに少女一人の命を必要とするなど、英雄と呼ばれる者には恥ずべきこと。
――なにより、だ。
 少女の命でこの場を切り抜けるなど、雪がいい顔をすまい。それはランサーとしては避けたい。マスターとサーヴァントの組み合わせはこの聖杯戦争でも絶対の固定ではないだろうが、悪くないと思った相手、しかもいい女に嫌われ、別れる事態に至るなどつまらないではないか。
 ならばどうするか。
「おい、嬢ちゃん!」
 第二陣が放たれる。降り注ぐ矢と槍が一端落ちた勢いを取り戻す中、ランサーは少女に言った。
「は、はい!」
 僅かな怯えの入り混じった声が戻る。
「あいつのマスターなら、あんたがあいつをどうにかしろ!」
「どうにかって……」
 困惑の気配。本気でどうすればいいか少女にはわかっていないらしい。
「あんたにも令呪があるだろうが。それでこの場からやつに退けと命じろ。サーヴァントは逆らえねえ」
 命令によっては抵抗しようとするサーヴァントもいるが、少女や雪に攻撃を仕掛けないだけの理性を残したエリミネーターならまだこの命令、令呪一画で制御できるはず。
 サーヴァントへの絶対的命令権である令呪はマスター一人につき三画、つまり三回しか使えない貴重なもの。場合によっては他のマスターから使えと迫られることに拒否感を覚える者もいるだろうが、この少女なら聞くとランサーは踏んだ。

『逃げて、ください。ここにいては駄目なんです。危ないんです』

 先刻ランサー達に告げた言葉。
 この少女は、エリミネーターが殺戮することを望んではいない。賭けるにはそれで十分だ。
「この場を何とかするにはそれしかねえ。やれ!」
「わ、わかりました!」
 少女の気配が変わる。心を決めたらしい。エリミネーターをどうにかできるという安堵も感じられる。
――間に合ってくれよ。
「せいやぁっ!」
 槍を大きく振るい、ランサーは広範囲の矢と槍を叩き落とす。令呪で命を下すにさほど時間はかからないが、少女の集中を乱されては困る。
 そして、一呼吸、二呼吸の後。

「令呪にかけて願う……楓、もう止めて!」

 切なる想いを乗せた少女の声は、矢と槍の風切りの音より、燃える炎の音より、エリミネーターの咆吼よりも強く、この場に響いた。

「――ッ!」

 まるで射止められたかのように、エリミネーターの動きが宙で、止まる。
 赤い目が驚きの色を宿して視線を彷徨わせ――少女へと、向けられた。

「――ク、ル――」

 掠れた声は何を言おうとしたのか。

「今ぞ、彼奴を射よ!」
 掠れた声を打ち消したのは、鋭くも冷淡な声とそれに応じてこだました無数の風切り音。
 矢が、槍が、飛ぶ。
 風切り音の、矢と槍の収束先は動かない――動けないエリミネーター。
「いやああああああっ!」
 少女の叫びが、先よりも大きく響いた。
 だが、しかし。
「なに……?」
 驚愕の声は、毛利元就の唇からこぼれ落ちた。
 矢も、槍も、一本たりともエリミネーターを傷つけるどころが触れもしていなかった。貫くと思った瞬間に、先端から消え失せていく。
「――――!!!」
 エリミネーターが吼える。
 吠え声が、更に飛来する矢と槍をかき消す。矢と槍ばかりではない。残っていた兵達までもが消えていく。
――魔力を消しているわけじゃねえ……こいつ、何をした……?
 ランサーが疑問を抱く間にも、エリミネーターの背の異形の翼が大きく広がる。飛ぶ。
 真っ直ぐに、ハチミツ色の髪の少女の元へと。
「……楓!」
 何かを察したのだろう。少女は駆け出した。手を、宙へと差し伸べる。
「――――!」
 エリミネーターのその吼え声はこれまでのものと違う、とランサーは感じた。殺気ではなく、人らしい感情がそこにあったと。
 エリミネーターの影が地を走る。再び宙高く舞い上がる。その腕に、少女を抱いて。
「……」
 一瞬だけ、エリミネーターが地へと視線を向けた。
「楓……」
 赤い眼の視線の先には、二人を見上げ、呟いた雪。体の痛みを義弟を案ずる気持ちが上回っているのだろう、腕や足には矢や槍、炎が掠めた傷や火傷を幾つか負っているというのにその痛みも意に介してはいないようだ。
 しかし雪の声はエリミネーター達には届いた様子はなかった。
 異形の翼を広げ、エリミネーターは少女と共に飛び去る。追撃できる速さではなく、あっという間にエリミネーター達は飛び去っていった。
 いつしか訪れていた宵闇の彼方へと。

 乱戦の舞台に、ようやく静けさが戻った――
 

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