月下の運命 華の誓い

三の一 喫茶店アーネンエルベ

「すんませんっしたー!」
 ぴしり、と綺麗な直角、90度に頭を下げる自らのマスターを、ランサーのクラスのサーヴァントである雪は目をぱちくりとさせて見ることしかできなかった。
――ええ、と……
 呆然、まさにその文字通りの心持ちで雪はこの状況に至るまでの経緯を思い返す。

 サーヴァントなどというものにされてしまい、聖杯戦争に巻き込まれた雪が、養父であり師である慨世の勧めによりその家を拠点とすることにしたのが三日前のこと。その翌日から雪は自分のマスターであるランサーという男――雪のクラス名と合わせるとややこしいことこの上ないのであるが、本名があるらしいにも関わらず彼はその名で通している――と共に、昼間は街を、夜は人気のない辺りを選んで出歩いている。
 といっても、闇雲に出歩いているわけではない。昼間は街を五つの区域に分け、毎日一つずつ回って他のマスターとサーヴァント、もしくはその拠点を探している。能動的に探すだけではなく、堂々と街を行くことで自分達自身を囮にして誘い出す意味もある。夜、人気のない場所に出ているのはその為であった。
 同じ方針で守矢と舞も動いているが、今のところ雪達も守矢達も他のマスターとサーヴァントや彼らの拠点に繋がる手がかりも得られていない。望まない争いに自分だけではなく家族も巻き込まれた中、変化が見られないこの状況は雪に心理的負担を感じさせているが、マスターであるランサーの存在はいつしか支えとなっていた。
 戦い慣れしているらしいランサーは初めて雪が会った時から変わらずその言動に常に余裕を持っている。街を回る際も自分達を囮にしているというのに一見したところ普通に散歩しているだけのようであったり、サーヴァントの気配を感じることに集中するあまり休息も忘れがちな雪に食事や休息を促してくれている。
 時に不躾であったり、粗野なものを感じさせたりするランサーに実際のところ雪としては眉をひそめたくなるところもあるのだが、先の見えない戦いの中で彼の判断は確かであり、そんな彼と共にあることに心強さを感じていることは否定できない。
 故に今日も「昼食はここがいい。ここのランチはうまいぞ」というランサーの勧めに従い、雪は落ち着いた雰囲気のこの喫茶店、アーネンエルベに入ったのである。
 だがそれが、今回のことの発端であった。
 店に入った途端ランサーの表情が引きつるのを雪は見た。表情どころか体まで強張らせた、今までに見たことがない様子のランサーにさては敵がいるのかと雪も身構え書けたところに歩み寄ってきたのは店長らしい初老の男性であった。
 オールバックで、サングラスを掛けた男性は落ち着いた雰囲気を漂わせており、敵意の類はない。しかしランサーが緊張しているのは間違いなくこの人物が理由だ。
「ランサーくん」
 むしろ穏やかといっていい男性の低音の声に、しかし言いしれぬ圧力があると雪が感じ、男性の背後に妙な三つの影が噴き上がるのを見たように思ったその瞬間――
「すんませんっしたー!」
完璧な90度の角度で頭を下げたランサーの声が店に響いた――のはもう10分ほど前のこと。

「お姉さん、どうぞ」
 その言葉と共に、テーブルの上に見事な黄金色のオムライスを乗せた皿とサラダとスープの小鉢が置かれる。喫茶店アーネンエルベの本日のランチセットだ。
「え、ええ。ありがとう」
 意識を今に引き戻し、雪は運んできた店員――猫と少女を適当に掛け合わせた風に見える実に雑な造型の生き物であった――に礼を言う。
 あの後、店長と共に店の奥にランサーは行ってしまい、雪はこの店員に「まあ、こっちで待っててくださいにゃ」と窓際の席に案内されていたのである。ちなみにランサーは「絞られている」そうである。
「でも、注文をした覚えはないんだけど……」
「兄貴からの指示ですにゃ。少し待たせることになるだろうからメシでも食っててくれと」
「兄貴って、ランサーのこと?」
「はい。兄貴はこういうことにぬかりのない人ですにゃー。
 にゃひひ、それでもカバーできない不幸が兄貴の持ち味……」
 不吉に、楽しげに、しかしどこか気の毒そうにネコモドキの店員は口に手を――まるまっこい、どうやってものを持つのか皆目想像できない手を――当てて笑う。一応かわいいと言えなくもないのだが、何故かそう思うことに躊躇いを雪は感じつつ、首を傾げる。
「不幸?」
「いえいえなんでも。それではお姉さんごゆっくり〜」
 ぺこり、と頭を下げてネコモドキの店員は下がっていった。
――えっ……と……
 残された雪はしみじみと目の前のオムライスのセットを眺める。ほんのりほかほかと湯気の揺れるオムライスは実に美味しそうだ。また、家ではあまり作ることはないが雪は洋食も好きだ。
――せっかくだし、いただいてましょう。
 ちらり、とランサーが消えたっきり戻ってこない店の奥の扉に一度目を向け、雪は両手を合わせた。
「いただきます」
 スプーンを手に取り、オムライスをすくう。黄色い卵焼きの下から、鮮やかな赤いご飯――おそらくチキンライス、というものだろう――が現れる。口に運べばほどよい焼き加減のとろりとした卵とチキンライスの味が入り混じって広がる。
「美味しい……」
 自然と言葉が洩れ、手が進む。オムライスだけではなく、サラダもスープも美味しい。ランサーが勧めるのも納得、そう半分ほど食べた頃に雪が思った丁度その時、
「待たせたな」
ようやく当のランサーが戻ってきた。その手には雪のと同じオムライスのセットが乗った盆がある。
「あー、絞られた絞られた」
 少し疲れた様子ではあるがほぼ普段通りの軽い口調で言いながら、ランサーは雪と同じテーブルの向かい合う席に腰を下ろした。
「何が、あったの?」
 こくん、と口の中のオムライスを呑み込んでから雪は問う。
「なに、バイトのシフトをうっかりすっぽかしちまっててな」
 雪が瞬きすること、三回。
「……バイトって、ここの?」
「おう」
「あなたが?」
「あぁ。ここのウェイターやってる。今までは真面目にやってたんだがなぁ、聖杯戦争のごたごたで忘れちまってた」
 苦笑しつつランサーはオムライスにスプーンを突き立てる。
「ま、話はつけたしついでに当分の休みももらったし、この件はこれでよし、だ」
「そう……」
「なんだ、あんたが責任感じることじゃねえぞ? 巻き込まれたのはお互い様で、オレが忘れてただけだからな」
 わっしわっしと重機のようにオムライスを口に放り込みながら問うランサーに、いいえ、と雪は首を振った。
「そうじゃなくて……いえ、それも気になったのだけど……」
「なんだよ」
 言い淀む雪を、ランサーは手を止めて促す。
「ええ、あなたにもあなたの生活があったんだなぁって」
「そりゃ、オレにだってあるさ」
「ごめんなさい、でもそう思ったの」
 雪とランサーは聖杯戦争に巻き込まれたことで出会った。その時から今まで、おおむね戦いに関わる形でしか雪はランサーを見ていない。そうであったから雪はランサーの日常など想像したこともなかったのである。それだけに今知った彼の日常は雪には驚きであり、ランサーも、つまりは聖杯戦争に関わる者――守矢と舞は除く――もまた自分と変わらない人間であろうという認識、即ちこの聖杯戦争は不条理なものであるという認識を雪に改めて持たせることとなった。
「ふうん……」
 雪の返事をなんと解釈したのかランサーは一つ鼻を鳴らし、わしゃ、とスプーンでオムライスをすくって口に放り込んだ。
「お前さん、おもしろいな」
「おもしろいって……」
 ランサーの言葉をどう受け取ればいいかわからず戸惑う雪をよそに、ランサーは一つニヤリと笑っただけでオムライスをがっついていく。合間合間にしっかりスープとサラダも食べている。
 それを少し釈然としない気持ちで眺めやりながら、雪も自分の分を食べ進んでいく。
 と、スプーンから手を離し、ぐび、と音とを立てて水を飲んでランサーが問うた。
「ああ、忘れていたことと言えばもう一つあった。
 雪、あんたは宝具を持ってるのか?」
「宝具……」
 宝具。聖杯戦争におけるサーヴァントが持つその力の象徴であったり、その力を具現化したもの。ひとたび振るえば戦況を一変させることも可能な、強大な力を秘めるもの。雪の認識にはそうある。そしてそうあるということは即ち――
「オレの知ってる聖杯戦争とは違うからな、サーヴァントとはいえ英霊じゃないあんたが持ってるかどうかはわからねえが、持っているかどうか、持っているならその能力を聞いておきたい。
 味方の戦力は知っておかないとな」
「宝具は……持っているわ」
 スプーンを置き、静かに雪は答えた。
「ほう。どんなのだ。槍に関わることか?」
 興味の光がランサーの赤い目を走る。その光から逃れるように雪は目を伏せた。
「今は……言えないわ」
「マスターにも言えないのか?」
 ランサーの口調にとがめる響きは不思議と無かった。言えない理由をただ素直に問うている、それ以上の意味を雪はマスターの言葉、声から汲み取れなかった。
「ええ。ごめんなさい。……自分でもちょっと戸惑ってるの」
 首に下げた首飾りに、自分でも気づかずに――ランサーがその手を見ていたことにも気づかずに――雪は触れ、呟く。
――この力が、宝具だなんて……
 「その力」は雪にとっては大きすぎる、また重い意味を持つ。いかに自分の力を表すものとはいえ、「宝具」などという定義を新たに与えられたことをまだ雪は受け入れ切れていなかった。
「別に謝ることじゃねえだろ」
 わし、と残ったオムライスを口にしてランサーは言う。さっきから全く変わることのない屈託のないその様子に、雪は却って戸惑う。
「でも、いっしょに戦うマスターに秘密にするのって……」
「そりゃ宝具がどんなのか知らねえのは戦術的にちいと困るが、言えねえ奴に無理に問いただしてもしかたねえだろ。別にあんたはオレを困らせるつもりで言わない訳じゃなさそうだし。
 言える時に言ってくれりゃいいさ。そうでなくてもあんたが自分の宝具の使いどころを間違えなけりゃそれでいい」
「…………」
「ま、それだけオレがあんたを信頼してるってこった」
 どう答えたらいいかわからないでいる雪に、ふっとランサーは笑んでみせる。それにつられるように雪の口をその言葉はついて出た。
「……ありがとう」
「あぁ、それそれ」
 ちょいちょい、とランサーは雪に向けてスプーンを宙で振った。既に皿の上のオムライスは雪よりも少なくなっている。
「え?」
「あんた、笑った方がやっぱいい。美人は笑顔が一番だ」
「っ……」
 頬が火照る、という感覚。雪がその瞬間に感じられたのはそれだけだ。
「あなた、何を言って……っ」
「あぁ、そういう顔もいいな」
 ニィ、と実に楽しげにランサーの口の端がつり上がる。どういう訳か更に雪の頬は熱くなる。
「か、からかわないで!」
 どうしたらいいかわからず――そもそも、自分が笑ったという意識さえなかったのだ――雪は強く言うとグラスの水に口をつけた。ランサーの顔も見ていられない。正直、この場から立ち去りたいぐらいの気分なのだがそうするわけにはいかない。
 ランサーは何も言わず、オムライスを口に放り込んでいる。むろん、口の端は釣り上げたままで。
――もう……っ
 やり場のない、苛立ちに似ていながらも少し異なる感情をもてあまし、とりあえず目の前の食事を片付けることに集中しようと雪はスプーンを握り直し――その肩を不意に、びくりと震わせた。
――この、感覚……っ
 自分と同じもの、「聖杯」にそうあれと存在に手を加えられた「もの」の気配。あの時「キャスター」を、「セイバー」を感じ取った時と同じ感覚にすっと雪の火照っていた頬も冷える。
「……サーヴァントか」
 ランサーがスプーンを置く。表情には既に戦士のものだ。
「ええ」
 雪もスプーンを置く。あからさまにならないように気をつけながら、店の外をうかがう。
 よく晴れた空の下、幾人もの人々が街を行き交っている。気配は近づいてくるが店のすぐ前の歩道にはそれらしき姿は見えない。車道を挟んだ反対側の歩道にも大勢の人々の姿がある。
――見えるところにいるとは限らないけれど……
 守矢に協力してもらって確かめた限りでは、雪がサーヴァントを感知できるのは100メートル程度の距離。それなりの範囲であるだけに、視界の内にいないことも十分にあり得る。今見えないところに他のサーヴァントがいるならばどうするか、店を出て探しに出るか、もう少し様子を伺うべきか――ランサーに雪が問おうとした時、
「あれか」
ぼそりとランサーが呟く。そっとその視線を追った雪もまた、「その二人」を視認した。
 車道を挟んだ向こう側の歩道で、自分達を見つめる一組の男女――海賊のなりをした、二人を。
 

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