月下の運命 華の誓い
一の二 それも悪くない
キャスター達の気配も魔力もきれいさっぱり消え失せていた。あれほど血の香をまとわせていた魔力のひとかけらも残さず消えたとは、見事な引き際と言っていいだろう。
しかもその撤退には魔術は使われていない。少なくとも魔力の流れをランサーは感じなかったし、キャスターである男もマスターである女も呪文を唱えた様子はなかった。
「チッ」
ランサーは一つ、舌打ちをする。
仕留めるつもりだったのにみすみす逃した腹立たしさと、キャスター達が厄介な敵である事への認識がそうさせた。
――次は確実に仕留めねえとな……
「あの」
「ん?」
控えめだが、舌打ちしたランサーの心境に近い響きのある声にランサーは目を向ける。
「おろしてくれないかしら」
じ、と。
娘の青い目が幾ばくかの非難と、それよりは抑えた恥じらいと、それなりの不快の色を宿してランサーを睨んでいた。
「おお」
そうだった、とランサーは左腕で小脇に抱えたままの娘を下ろしてやった。当初は娘ごと間合いを詰めた後は下ろして戦うつもりだったのだが、戦いに集中しすぎてころっと忘れていたのである。
「悪ぃ悪ぃ、あんたが軽いんでうっかり忘れてたぜ」
「……無茶な人」
左手で軽く服の裾を払い、呆れた目を娘はランサーに向ける。右手には槍が握られたままだ。
あの状態でも槍を手放さず、かつ自分の動きの妨げにしなかったのはたいしたものだ、とランサーは感心した。
「さすがは槍兵のクラスってことか」
「…………」
途端、娘の表情が硬くなる。自分への警戒と――おそらくは聖杯戦争への困惑、自分の現状への不安によるものだとランサーは読んだ。
――この姉ちゃんも色々わかってるわけじゃなさそうだな。
「そんな恐い顔をすんな。なりゆきと勢いとはいえあんたとオレは契約を結んだ運命共同体だ。わからねえことは一緒に解決していこうぜ」
「……そうね」
硬い表情のままだが、娘は頷いた。完全に気を許したわけではないだろうが、ランサーと協力するのが一番だと判断したのだろう。
「とりあえずあんたには色々聞きたいことはあるが、ここは長話にはむかねえ」
場所を変えようぜ、とランサーは娘に背を向けた。赤い槍は既にその手から消えている。
「待って」
「あん?」
肩越しにランサーは振り返る。
娘は一端目を伏せたが、すっとその目を上げ、
「助けてくれて、ありがとう」
とはっきり言った。
赤い、どこか歪んだ月の光の下、その光に犯されることも穢されることもなく娘は凛と佇んでいる。抜けるように白い肌、さやかな海風に揺れる金の髪、ランサーを見据えるは湖水の青の目。文句なく、この娘は美しい。
美しいのは姿形だけではない。きちんと筋を通すことをこの娘は知っている。
――イイ女だ。
「マスター?」
無言で自分を見つめるランサーを怪訝に思ったのだろう、娘は青い目を僅かに細めた。
「あぁ、いや、なんでもねえ」
ひらひらとランサーは手を振った。
「助けたことは気にするな。こっちにもそれなりに理由あってのことだ。
それよりだ」
ランサーは娘に向かい直し、ずい、と顔を近づける。
「やっぱ先に聞いとく。あんた、名はなんだ」
「え?」
一歩後ろに下がった娘が、きょとんと瞬きした。こういう表情をするとかわいげが出てくるな、とランサーは思う。
「名前だ、名前」
「あ、えっと、雪よ」
「ユキ……ゆき……雪か」
数度口の中で繰り返し、娘の名の響きをランサーは確認した。外見こそ白人、おそらくは北欧など北の地の者のそれだが、名は日本のものであるというのは少々意外である。しかし同時に納得するものもある。
――こいつには似合いの名だな。
この娘は穢れを知らない、穢れを拒む凛と冷たい雪の精が人の形をとったものだ、と言われれば信じる者もあるかもしれない。まさに名は体を表すというべきか。
「じゃあ雪、これからよろしく頼むぜ。
それでな、オレのことはマスターじゃなくてランサーと呼べ。オレはあんたを名で呼ぶ」
「えっ?」
ランサーの予想通り、戸惑いの色と共に雪は目を丸くした。この娘のこういった反応は面白く、見せる表情も良い、とランサーは口の端を釣り上げる。
「あの、ランサーは私、だけど」
「オレはこっちじゃそう呼ばれ慣れてるんでな。マスターってのはどうもしっくりこねえし」
あぁ、そうだ、とぽんと手をランサーは打った。
「オレがランサーって呼ばれてると、敵は混乱するかもしれねえ」
「するわけないでしょう。サーヴァントはサーヴァントを感知できるのだから。
現に、私はあなたをサーヴァントと認識していないわ。さっきのキャスター達だってそうだったでしょう」
呆れた、そんな顔で雪はランサーを見る。
「あぁ、そうだっけか」
その辺りは自分の知る聖杯戦争とほぼ同じであり、また自分はあくまでもこの戦いではマスターなのだと改めてランサーは理解した。
もっとも、そんな軽い口調では雪にはランサーの内心までは感じ取れるはずもなく。
「そうよ。……もう」
ふう、と雪は一つ息を吐いた。
「呼び名のことはわかりました。あなたがそう言うならランサーと呼ばせてもらうし、私のことも名前で呼んでもらって構わないわ」
「よし。じゃあ、改めてよろしくな、雪」
ランサーは雪に手を差し出した。
その、利き手を。
「え?」
今までで一番の困惑の色を浮かべ、雪はランサーの手を見る。
「契約は、したでしょう?」
「契約のじゃねえよ。これからよろしくって奴だ」
「えっ、でも……」
ランサーの手からその顔へと視線を戻した雪の顔にある困惑の色は濃さを増している。雑多な世界、時代が入り混じったこのMUGEN界には、握手の習慣や知識がない者も珍しくない。ランサー自身、かつての聖杯戦争で召喚されて握手を知った口である。雪の戸惑いもそれによるものだったのだろう。
――その気持ちはわからねえでもないが……
「オレ達はこれから互いに背中預けて戦うんだぜ。握手ぐらいしとかねえとな?」
真っ正面から雪の目を見つめ、その視線を捉え、気持ち強い口調でランサーは言った。共に戦う仲間としての信を結ぶため、その理由に偽りはない。が、実を言えば、この美しい娘の手に触れてみたいという思いの方がランサーには強い。この娘は警戒心が強いようだから、おくびにもそれは出さないが。
「それ……じゃあ……」
おずおずと、そして仕方なさそうに雪も手を差し出す。当然ながらランサーのもう一つの意図に気づいた風はない。
――さっき礼を言ったのもそうだが、こいつは素直だな。
凛とした振る舞いであり、気丈さでありながら、かわいげのある様、素直さも併せ持つ娘。その様にランサーはかつて自分を召喚した赤毛の女や、その心根を気に入った黒髪の少女をふと思い出した。
――つくづくオレはこういう女に縁があるのかね。
「この戦い、必ず勝ち残ろうぜ」
差し出された雪の手をランサーは握る。
「っ……できれば、無益な戦いはしたくはないのだけれど……」
僅かに、雪が震えたのがその、槍を使っている割にやわらかな、紛れもない女の手を通して伝わる。
この娘は握手だけではなく男にも慣れていないのだろう。ランサーへの警戒心のいくらかも、そのせいかもしれない。
――それも悪くない。
ニィとランサーは笑う。この聖杯戦争がどういった経緯で起きたかも、どんな戦いがこれからランサーを待っているかはわからない。だが少なくとも一つ、楽しみは見いだせた。
「ま、どうやっていくかはこれから考えようぜ」
そう言ってランサーは雪の手を握る手に力を込める。
名に反して、その手はあたたかだった。
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