月下の運命 華の誓い
序の三 剣の担い手は月夜に
夜空に輝く月はその半身を闇に沈めている。光をまとった半身は禍々しいほどに赤く、それに怯え、息を潜めたかのように星々の輝きは弱々しい。
風はなく、空気は奇妙な熱を含んで淀む。
総体、不吉さを漂わせる夜である。
この夜を、一人の少女が駆ける。
その身を白いケープのついた赤い制服で包み、長い髪を青いリボンで束ねた少女――川澄舞は、その可憐な姿に似合わぬ剣を手に校舎の廊下をひた走る。
少女は追われている。
追ってくるものが何者かはわからない。わかるのは彼女に対する明確な殺意だけだ。
友人の家からのいつもより少し遅い帰り道、舞は突然襲われた。姿も見せず襲い来る何かが相手では心得のある剣を振るうことも適わず逃げ惑い、舞が飛び込んだのが自分の通う学校だった。この時間に人がいるはずもなく、助けなど期待できない夜の学校に逃げ込んでしまったのはここが舞にとって慣れた戦場であり、ある意味思い出深い地だったからだろう。
カッカッと高く靴音をあげて舞は夜の校舎を駆ける。追手はまだついてくる。気配は感じないがそれだけはわかる。
『逃げられないよ』
クスクスと笑う声が響いた。かわいらしく、あどけない少女の声だがこの声が、舞を追ってくるものの少なくとも一人だ。
『あなたはここでおしまい。逃げても無駄なんだから諦めたら?』
楽しげに声は言うが、舞は取り合わない。ただ、駆ける。
だが駆けながら、ちらりと舞は自分の左手の甲を見た。
そこには奇妙な赤い痣がある。今日の朝、痛みと共に目を覚ました時、この痣ができていた。痣といっても入れ墨のようにくっきりとしており、三日月を三つ組み合わせたその形は何かの紋章にも思える。
――この、痣の、せい?
走りながら舞は思う。明確な理由あってのことではないが、訳のわからない痣ができ、訳もわからず襲われ、追われる、この二つに関わりがあるようにしか思えない。
『逃がさないっていってるでしょ!』
「っ!」
とっさに舞は運良く開いていた教室のドアに飛び込んだ。無数の何かが舞が一瞬前までいた場所を撃ち抜く気配を後ろに感じながら、床を転がって勢いを殺す。
教室を満たす闇は窓から射し込む月明かりに薄赤く染まっていた。
一瞬、まばたき一回にも見たぬほどの間、舞の動きが止まる。
それほどまでにその様は、妖しく、不吉でありながらどこか幻想的であった。何が起きてもおかしくない、そう思わせる光景だった。
――……っ!
不意に左手の甲に走った激痛に、舞の意識は引き戻される。直後、舞は床を蹴っていた。
後ろ髪の先を何かが掠め、髪が千切れた感覚があった気がした。嫌な臭いが微かにする。
並んだ机が椅子が舞に体当たりされ、派手な音を立てていくつも倒れた。無論、舞も無事ではない。手の甲に走った痛みよりはましだが、体のあちこちが鈍痛を訴えてくる。それに構わず――いや、構っている暇無く舞は立ち上がった。
黒い影が襲い来る。ひょろりとした男のもののように思えたが考えている余裕など無い。剣を抜き放つ。男が左腕を振りかざす。
――間に、合わない。
死ぬ。
自分はここで殺される。
やけにゆっくりと男の腕が自分に振り下ろされるのを見ながら、舞は確信した。
――……死にたく、ない……
舞の体は男以上にゆっくりしか動かない。もっと速く動けば、あの手を切り伏せられるのに、そう思っても体がついてこない。
――助けて……
舞の心が悲鳴を上げる。自分自身を閉じ込めていた檻からやっと自由になった、自分を解き放つことを知ったばかりなのに、こんなところで死にたくない、手を取ってくれた友人、想いを寄せたかの人ともっと時を過ごしたい。死にたくない、助けて、為す術なく迫る死に、少女の魂は必死に叫ぶ。
風が、吹いた。
舞の左の手の甲に再び痛みが走る。ただただ男を見つめている舞は気づかなかったが、舞の左手の痣が赤く発光している。
――……助けて、死にたくない、助けて……!
舞は叫ぶ。声なき叫びを上げる。それは迫り来る死を前にした少女の精一杯の抗い。
心に思い浮かべるは、あの時、舞の手を止めてくれた彼の人――
一瞬、闇が濃さを増した。
それが舞の体を青白い光が包んだからだと気づいたのは、襲いかかる男のみ。
――……助けて、――――!
光が、爆散する。
爆散する光の中に一筋、銀が閃く。
「ぬうっ!」
光に弾き飛ばされ、男が黒板に叩きつけられた。
風が吹き荒れ、散った光、青白い光が踊り狂う。
『――っ!』
どこからか幼い少女の悲鳴じみた声が響いたが男はすぐに床に降り立ち、影へと姿を消した。
やがて風と光の乱舞が収まり、教室は静寂を、赤い闇を取り戻す。
「……あ」
驚き、それしかない声を洩らし、ぺたりと舞は座り込んだ。
その視線の先には、無言で佇む一人の青年の姿が在った。
その髪は紅。その眼も紅。端正な顔立ち。白の着物と赤の袴を身にまとい、その上から羽織るのは黒い外套。手には抜き身の刃が一振り。
今宵の月が人の形を取ればこのような姿になるのではないだろうか。そう思わせる姿の青年であった。
ただ、大きく違うことが一つ。
今宵の月が、この夜が宿す不吉さがこの青年にはない。清廉、凛冽、そう形容するにふさわしい居住まいであり、雰囲気を漂わせている。
不吉な月の光すら、青年の手にした刃を伝えば清浄さを取り戻す。
この青年を舞は知っていた。かつて舞を止め、舞に檻の外を示し、舞が心を寄せた、彼の人。
「……もり、や……」
へたりこんだまま、舞は静かに佇む青年の名を口にする。
「…………」
「もりや」と呼ばれた青年は舞に目を向けた。舞の目を見据え、そして、床についた舞の手を見る。
正しくは、未だ淡い輝きを残す赤い紋を。
「守矢?」
戸惑い、舞は再び名を呼ぶ。目の前にいるのは確かに彼女の知る守矢――御名方守矢であるはずなのに、僅かに違和感を舞は感じている。
守矢の目が、舞の目を再び見る。紅い眼差しは静かで、鋭い。
心まで、魂まで射貫くようなその眼差しに、こく、と舞は息を呑んだ。
「問う」
赤い月の光の中、守矢は言った。僅かに細くなった眼に、守矢らしからぬ悲哀の色が揺れたように舞は思い、戸惑う。
――……守矢……?
戸惑う舞に構わず、守矢は言葉を続けた。
「お前が私のマスターか」
序・終
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