月下の運命 華の誓い
序の二 ある失敗
彼女は必死に逃れようとしていた。とてつもなく禍々しく、力を持った「ソレ」が何故自分を襲ってくるのか彼女は知らない。知るよしもない。わかるのは「ソレ」が彼女を消したがっているということだけ。
だから彼女は逃げる。彼女の力――剣の技も、彼女が内に秘める力も――は今の「ソレ」には通じない。
『こんな形でなければ』
そう思ったのは彼女なのか、「ソレ」なのか。
こんな形での対峙でなければ、彼女は「ソレ」を一蹴できた。
「ソレ」はそのことに安堵し、優越を覚えている。
彼女はそのことに絶望し、恐怖に駆られている。
「ソレ」は彼女を追う。今、この形で彼女を潰すと。
彼女は「ソレ」から逃げる。今、こんな形で消えてしまいたくないと。
しかし「ソレ」は既に彼女を己が領域に取り込み、彼女が逃げ切れる可能性は極めて低い。そのことを誰よりも彼女自身がわかっている。それでも逃げ続けるのは生き物としての生存本能によるものだけではなく、彼女の心にある一人の人物の存在故であった。
――あの人ともっと過ごしたい、あの人もいないこんなところで、消えてしまいたくなんかない……っ
その思いが彼女を突き動かし、絶望の中を駆けさせる。
だがこの逃亡は、初めから先の見えていたもの。
「きゃあああっ!」
「ソレ」が彼女を捕らえる。全身に絡みつき、「ソレ」に浸食されるおぞましさに、恐怖に彼女は何度も絶叫した。涙が頬をこぼれ落ちる。
「いやぁ、離して、離してください……っ、助けて、助けて、……!!」
心にあるその人への想いに、彼女は縋り付いた。捕らえられた彼女にできる、それが最後の抵抗。
――……!!!
彼女の目が見開く。絡みついた、彼女を喰らおうとする「ソレ」の内に視えた物に――
「――!」
彼女の名を呼ぶ声と共に、白刃が、蒼雷が閃いた。
彼女に絡みつく「ソレ」が断たれ、彼女はふらりと倒れ込む。長い黒髪が力なく流れ落ちた。
「……さ、ん……」
彼女の花片の如き唇からこぼれ落ちる声にあるのは歓喜と、悲嘆。
「大丈夫かい?」
その人の、彼の声が問う。こんな時でも、いやこんな時だからこそ彼の声は優しく、あたたかい。
だから彼女は嬉しい。大好きな、愛おしいこの人が助けに来てくれたことが。
だから彼女は悲しい。「ソレ」が狙うのが自分だけではなく彼でもあることを知ってしまったから。
よろめきながら彼女は立ち上がった。
――まもら、なきゃ……
刀を構え、自分を「ソレ」からかばって立つ彼の背を見つめ彼女は思う。この人を「ソレ」に渡してはいけない。あんなものに彼を喰らわせるわけにはいかない。
――……でも、どうしたら……
彼の剣が疾る。蒼き稲妻が「ソレ」を撃つ。「ソレ」は怯むが、倒すには至らない。強き力、意志を持つ彼であっても「ソレ」を倒すことはできない。
ここは「ソレ」の領域。本来「ソレ」に有効な彼女の力さえ封じられた――
――私の、力……!
はっ、と彼女は自分の手を見た。彼女の力、「封印」の力。「ソレ」に対しての力の行使はできないが、彼女の力自体が消えたわけでも封じられたわけではない。
――ひょっとしたら……!
「うあっ!」
僅かな希望を彼女が見出した時、彼が声を上げた。見れば、「ソレ」が彼の左手に絡みついている。彼が動揺する。ただの攻撃ではない。「ソレ」は触れた端から浸食を開始する。「ソレ」本体と繋がっている限り「ソレ」は触れた相手を喰らい、同化しようとする。その状態に動揺せずにいられる者などいるだろうか。
その隙を逃さず、「ソレ」が彼の腕や足を更に捕らえる。
「……っ」
時間がない。彼女の持つ力がない分、彼の方が浸食されやすい。彼女は力を集中する。
「……ごめんなさい……」
こうする形でしかあなたを守れない私を、許してください。
詫びながら、彼女は彼を後ろから抱きしめた。
「……!?」
自分に絡む「ソレ」をふりほどこうと刀を振るい、もがいていた彼が驚いて振り向く。
二人の視線が合った。
泣きそうな目で自分を見つめる彼女の目を見て、彼は、彼女の思いを理解した。良いよ、とその唇が動く。彼は知っている、彼女が自分を害することなどないことを。
彼女は微笑んだ。自分を信じてくれることが何よりも嬉しく、心強く――彼女は躊躇いなく、力を解放した。
まばゆい白き光が彼女から放たれ、彼を捕らえる「ソレ」を引き裂く。浸食されかかっていた彼が苦悶の声を上げ、彼女は彼を抱く腕に力を込める。大丈夫だと答えるように、彼が弱く手を彼女の手に重ねたのと同じくして、光は二人を包み込んだ――
蒼い光が狂乱の輝きを宿し、流れ落ちていく。
【………………】
「ソレ」は己の失敗を理解した。
危険な因子、己の天敵とも言える力を感じ取った「ソレ」はその因子を潰すと、喰らおうとしたが果たせなかった。
しかし完全な失敗ではない。危険な因子は無力化できた上に、思わぬ僥倖もあった。それで十分失敗は帳消しにできる。
今回の失敗を分析し、次に似たことがあった場合の対処を検討する。この世界は特異だ。同じことが起きる可能性はある。
次は力尽くで無力化を図らない、と「ソレ」は決めた。「人」というものの抵抗力は侮れない。今回はうまくいったが次は手痛いしっぺ返しを喰らうかもしれない。それはまずい。
では今度このようなことがあればどうするか。
【…………】
しばしの思考の後、「ソレ」は一つの対応策を導き出した。
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