青く、どこまでも高い空はなんだか懐かしい。
冷たく澄んだ――しかしどこかぬくもりも感じられる――大気も、芽吹いた木の芽も、枯れた草の中に伸び始めた草の葉も、ひっそりとつぼみを緩め始めた野の花も、皆、懐かしかった。
――五年、六年……いや、十一年ぶり……か。
その左手には刀――愛刀、疾風丸を、右手には花束を入れた手桶を携えて道を行きながら楓は思う。
常世に惑わされた朱雀の守護神、嘉神慎之介が地獄門の開放を目論み始めたのがそれぐらい前になるという。そのときから少しずつ、常世の気は現世を侵食していた。
しかし地獄門が封印により完全に閉じたことで世にわだかまっていた常世の気もようやく一掃された。十一年ぶりに楓は――否、この世界に在るものすべてが、常世の気の消え失せた現世を目にしているのだ。
故に懐かしい――と、感じるのだろう。
この美しい世界を。
――この間はゆっくりと周りを見るなんてできなかったしな……
左手の手桶にちらりと目を向けた楓の表情がほんの少しだけ、曇った。
楓が今向かう先は街の外れにある小さな寺だ。一人でこの古寺を切り盛りしている老僧は、寺が預かる何軒かの檀家だけではなく、この近隣の無縁仏やどこの寺の檀家でもない訳ありの者達の埋葬を積極的に引き受けている。
六年前、楓は義姉の雪と玄武の翁と共に、師であり養父であった慨世をこの寺で葬った。
そしてつい半月前、今度は楓は一人で封印の巫女として命を落とした雪を葬った。
今日は地獄門封印からのごたごたがやっと片付いた報告に来たのである。
さえずり渡る小鳥の声を耳にしながら、寺の山門をくぐる。狭いながらも手入れの行き届いた境内の掃除をしている老僧に軽く会釈し、井戸で手桶に水を汲ませてもらってから裏手の墓地へ足を向ける。
墓地に並んだ墓石は二十あまりか。葬られた者達の素性からして、いずれも簡素なものばかり。しかし中の一つに比較的立派なものがある。それが慨世と雪の墓であり、そして、そこに――
「……っ」
楓は足を止めた。
ふいと吹き抜けた風に真っ白な外套が翻る。
それは楓の知った白。
「……嘉神」
嘉神慎之介、楓と同じく四神の一角たる朱雀の守護神であり――かつて地獄門の封を解かんと図った男であり、慨世を殺めた男であり、また楓達と共に地獄門の再封印に尽力した男である。
その嘉神が、慨世と雪の墓の前に瞑目して佇んでいる。地についた己が剣の上に両の手を重ねておき、真っ直ぐに立つ様は――
――あの時のようだ。
地獄門の封印を解こうとした嘉神を倒した時のことを楓は思い出す。今は嘉神は傷を負っておらず、天には地獄門はなく、何より嘉神は四神として現世を守る役に立ち戻っている。けれど何故か、あの時の、地獄門に己が身を投じた嘉神の姿を楓は思い出す。
それから雨の日に再会した嘉神の姿も。あの時も嘉神は真っ直ぐに立っていた。
そして――同時に、もう一つ重なった既視感に戸惑う。
真っ直ぐに立つ背の高い、白い洋装の男の姿が、遠い記憶の中にも在る――
――なんだか怖かった気がするんだよなぁ……
それがいつ、どこでだったかを考えつつ、楓はゆっくりと歩を踏み出す。
嘉神の目が開く。楓に視線を向けることはなかったが、一歩、下がった。
――空けてくれた……んだよ、ね?
去りはせず、佇んだままの嘉神の空けた場所に入ることにいくらかの緊張を覚えつつ、楓は膝を突いた。
墓前には、真新しいシキミが花立ての間に置かれていた。
――……これ、嘉神が?
膝を突いたまま、楓はそっと後ろに立つ男を見やった。
先と変わらぬ姿勢で真っ直ぐに立つ嘉神の碧の目が、楓を見る。見下ろす。
「……あ」
既視感が、形を為した。
あれはずっと前、楓がまだ十にも満たない幼い頃だ。たぶんきっと、まだ嘉神が常世に触れてしまう前のことだろう。
養父慨世が嘉神を家に連れてきたことがあった。理由はわからないし実際に嘉神が家で何をしていたのか――茶ぐらい飲んでいったのかどうか程度のことすら――覚えていない。
覚えているのは背の高い嘉神が自分を見下ろしていたこと、表情を見せない無愛想な嘉神が無性に怖かったことと、それから――
「……なんだ」
思い出は、嘉神の声で遮られた。
――……不機嫌そうだな。
嘉神の眉間にしわが寄っているのを認め、つい楓はクスリと笑った。
記憶の中の嘉神も似た表情を、憮然とした、不機嫌な顔になったと思い出して。
十年以上の時を経て、楓も嘉神もその周囲の人間にも様々なことがあった。命を落とした者があり、離ればなれになった者もあり、新たに出会った者もある。
それら全てをひっくるめて、受け止め切れたとは楓にはまだ言えない。ここにいる嘉神慎之介への感情とて整理がついたとは言えない。
けれど、過去を思い出して懐かしむことぐらいはできるようになったことは悪くないと楓は思う。
「先から何を笑っている」
嘉神の不機嫌さの中には怪訝の色もあった。嘉神の言葉通りなら、振り返ってからずっと楓は笑っているらしい。
「なんでもないよ」
そんなに笑っていたかなと思いつつ、楓は前へと、墓へと向き直った。
シキミと持ってきた花を一緒に花立てに挿し、水を注ぐ。嘉神がシキミを挿さなかったのは、彼なりの遠慮あってのことだろうかともう一度楓は嘉神を伺った。
「…………」
嘉神は無言で瞑目している。故に問うことはできず、楓は再び墓へと向き直る。
線香に火をつけて立て、手を合わせる。
――お師さん、姉さん、やっと色々落ち着いたよ。僕も何とかやってる。
目を閉じて楓は二人に語りかけた。二人ともここには「いない」けれど、きっと言葉は届くと、聞いてくれていると信じて。
しばらくして楓は目を開き、立ち上がった。振り返ると、嘉神の姿は既に無い。
周囲を見回せば、遠ざかる白い背が見える。変わらず真っ直ぐと背筋を伸ばし、早足に嘉神は去って行く。
「シキミのお礼ぐらい、言いたかったんだけどなぁ」
呟いて、しかしまた機会はあるかと気を取り直して楓は手桶を持った。
「お師さん、姉さん、また来るね」
墓にそう声をかけ、楓も歩み出した。
晴れた空から降り注ぐ日差しは、やわらかくあたたかい。
春はそこまで来ているのだと、楓は思った。