天に開いた禍々しき大穴――地獄門の影響で空は暗雲に閉ざされ、昼なお薄暗い中、その男の洋装の白は自らの血に汚れてなお鮮やかであった。
 白が含みきれなかった赤、男の命の証はとどまることなく滴り落ち続ける。男の負った傷が致命傷であるのは明らかであった。
 だが、それでも男は立っていた。死に瀕しているというのに真っ直ぐに、揺らぎもせず。
「………愚かな人間などその歴史もろとも消し去ってくれるはずが……貴様ごときに敗れようとはな」
 男の――朱雀の守護神、嘉神慎之介の眼が、楓を、己を倒した少年、青龍の守護神を見る。
 哀しいまでに澄んだ、嘉神の眼の碧に浮かぶはこの地で対峙した時から変わらず在る絶望と諦念、それから今加わった、自嘲。
「……っ」
 思わず楓は一歩、二歩、嘉神へと足を踏み出した。どうしてなのかはわからない。勝敗はすでに決した。師であり養父である人を殺めた憎き仇、地獄門を開いて現世を滅ぼそうとした男とは言え、楓にはもはや戦う力を無くした嘉神に刃を向ける気はなく――何より、殺せなかった。ならばもう嘉神など捨て置けばいい、そう思いながらも楓の足は動いて――
「……青龍……仁の心、か」
低くそんな風に嘉神が呟くのを聞いた気がした。
「かが……」
「……だが!」
 嘉神の射貫くような眼光が、鋭い拒絶の声が楓の声を、動きを封じる。
「このまま敗北の中で生き恥を晒すは……あまりに、愚か。
 我が野望の大穴と共に朽ちて果てるもまた、……美学か……」
 瞑目し、一転静かに呟いた嘉神の手が、天へと、地獄門へと差しのばされる。そこにこそ、己の望むものが在ると言うかのごとく。
「待て、嘉神……!」
 再び足を踏み出した楓の叫びも、伸ばした手も、嘉神には届かなかった。
 楓の眼前で嘉神慎之介は地獄門の闇へと消え――

 そして。

 前触れもなく雨が、降り出した。
 さっきまで小雪がちらついていたというのに突如雨になったのはやはり地獄門の影響だろうか。今も天を覆う暗雲の向こうに在る地獄門を睨み、楓は雨宿りできる場所を求めて走った。吐いた息が白く流れる。
 嘉神慎之介が地獄門に身を投げてから半年経つ。だが依然、天の大穴たる地獄門は存在している。封を解こうとした嘉神が死んでも地獄門は閉じることはなかったのだ。
 現在、楓は開いたままの地獄門を封じるべく四神の一人として動いている。まず必要なこととして玄武の翁の指示により「封印の巫女」を探しているのだが、今は雨を避ける方が先決だ。
 街へと続く街道には人気は無く、休憩所のたぐいも見えない。
――参ったな、まだ街まで二里はあったはず……
 もうこのまま濡れ鼠になるしかないのか、と諦めかけた楓の視界に、大きな木が入った。
 あれなら雨をしのげるだろうと安堵した楓の駆ける足には自然、力がこもる。
 近づくにつれて、大木の下に人影が在るのが雨を通して見えた。
 真っ直ぐに、佇む男。
――あれ、は……
 楓の足が鈍る。
 薄暗い雨煙の中、枝葉を広げた大木の陰の下であったにもかかわらず、その人物が纏う服の色が真白なのが、わかった。
「……かが、み……?」
 呟いた時には楓の足は止まっていた。
 見間違えるはずがない。あれは、死んだはずの、楓の目前で命を絶ったはずの、朱雀の守護神、嘉神慎之介。その嘉神が大木の下で地についた己が剣の上に両の手を重ね、真っ直ぐに立っている。
 四神として、今も朱雀の守護神が存在しているのは楓もわかっていた。けれどそれは、かつて自分が養父から青龍を継いだように新たな誰かが朱雀となったからだと思っていた。
 だが、ここに嘉神慎之介がいる。以前と変わらず、朱雀の守護神として。常世の気配は感じない。青龍の守護神としての楓はそのことをはっきりと認識していた。
「嘉神……」
 死んだと思っていた男、それも養父の仇であり現世を滅ぼさんとした男が生きている、その事実を前に楓はどうしたら良いかなどわからなかった。わからぬまま、確かめるように嘉神の名を口にした。
「青龍か」
 視線だけを僅かに向け、嘉神が応える。雨粒の向こうに見える哀しいまでに澄んだ碧の眼も、雨音を通して楓の耳に届いたその声――殺気も敵意もない――も、間違いなく嘉神慎之介のもの。
「生きて、いたのか」
 ゆっくりと歩み寄りながら楓は自らの心を奇妙に思った。死んだはずの嘉神を前に、己は確かに驚き、どうしたらいいかわからないしひどく動揺している。だが憎しみや怒りといった感情が思っていたほどわき上がってこない。
 それどころか――
――そんなはずは、ない。
 浮かびかけた感情を楓は心の奥に押し込める。
「……そこでいつまで濡れているつもりだ」
 楓の問いには答えず、しかし嘉神はそう言った。
「あ、うん……」
 楓もいつまでも濡れていたくはない。他に雨宿りをする場所を探すのも難しい。ぎこちなく頷くと楓は木の下に入った。嘉神からは僅かに距離をとる。近づきたくない、というより近づいてもどうしたらいいのかわからなかったというのが事実だ。
「……っ」
 雨を避けて濡れなくなると、かえって寒さを感じる。肩を抱いて楓は小さく震えた。懐から手ぬぐいを出し、とりあえず頭を拭く。手ぬぐいも湿ってしまっていたからあまり効果があるとは思えなかったがしないよりはましだろう。
「……」
 嘉神が、動いた。反射的に楓は身を固くする。何を言うのか、何をするのか、それに自分はどう応じるべきか――答えは、見つからない。
 楓が迷う内に嘉神はその正面に立つと剣を無造作に抜き、楓が反応するより早く地に刺した。同時に剣は炎に包まれる。
「……え?」
「幾ばくかの暖はとれるだろう」
 淡々と嘉神は言う。どんな感情があるのかは全く読み取れない。ただ、言葉と共に薄く流れた白い息から、嘉神が間違いなく生きていることだけはわかった。
「なん、で……?」
 炎に包まれた剣を挟んで楓と対する嘉神の眉が、僅かに寄る。
 かすかな、溜息。嘉神の口元から再び流れた白い息から楓はそれに気づく。
「地獄門の封印を前に、貴様に体調を崩されては困る」
 何故わざわざこんなことを言わねばならぬのか、嘉神がそう思っているのが今度はありありとわかる。わかる、が、嘉神が楓の体調を心配――もしくは気遣っているということが楓には信じられない――
――い、いや、そこじゃない。
 慌てて楓は首を振った。嘉神が怪訝な顔をしているがそれどころではない。
「嘉神、今、地獄門の封印って」
「言ったが、それがどうか――」
 あぁ、そうだったか、と嘉神は合点した様子で呟いた。そのまま天へと視線を向ける。重く立ちこめた雲の向こう、開いたままの、開きつつある地獄門を見たのだと楓は思った。
「四神の一人として地獄門を封印する。今私はその為に動いている」
 声には躊躇いも、迷いもなく。静かな声にあるのは強い意志のみ。
 だから楓には、嘉神の言葉が真実であると、嘉神慎之介は本当に地獄門を封印する気なのだとわかった。わかってしまった。
 ぱちり、と走ったのが小さな火花の音であることは楓は認識していた。燃える炎の音ではないことも、その音が呼び合うように続いたことも。
 さっきはわき上がらなかった怒りが、今膨れ上がったことも。
「ふざけるな!」
 ばちぃ、と一際大きな音と共に、青い稲妻が楓の周囲で弾けた。同時に楓の髪が金に、眼の色が緋色へと変わる。
 嘉神の言葉に偽りがなかったからこそであった。それ故に楓は怒りが抑えられず、昂ぶった感情のまま力を解放していた。
「地獄門を封じるだと!? テメェが開いたんじゃねえか! 俺達のお師さんを殺して!
 そのテメェが今更、どの面下げて、地獄門を封じるって――」

「私がやらねばならぬのだ」

 怒りを露わにした楓を前にしながら、嘉神の表情も、声も、全く変わらなかった。静かに、淡々と、しかし雨音にも楓の叫びにも消えることなく、低い声が響く。
「四神が揃わねば封印の儀は為せぬ。
 私が朱雀であることが許されぬと言うならば私が死して次代の朱雀に任を負わす手もあろうが、今一時でも朱雀が欠ければ、封は更に緩む。得策ではない」
「……か、勝手なことを……」
 ぎり、と歯がみし、抑えきれない怒りに右の拳を強く楓は握ったが、携えた愛刀を抜くことも、手をかけることさえもできなかった。
 嘉神の言葉が正論過ぎるまでに正論であることもある。
 だが、それよりも。
――駄目だ、俺には……
 あの時、楓は嘉神慎之介を殺せなかった。
 養父を殺し、義兄、義姉と生き別れも同然になった元凶である嘉神を憎み、恨んでいたのに殺せなかった。
 あの時殺せなかったのに今殺すことが、刀を向けることができるだろうか。まして今の嘉神は楓に殺気も敵意も抱いていない。
「くそ……っ」
 やり場を失った怒りのままにそう吐き捨てる。
「……抜かぬのか」
 嘉神の呟きには、いささか拍子抜けした響きがある。
「抜いて、ほしかったのか」
「抜かれても仕方が無いと思っていた。斬られるつもりは毛頭無いが」
「……勝手なことを……」
 力なく呟いて、楓は目を上げた。
 碧の目と、視線が合う。真っ直ぐに立った男の腹立たしいまでに澄んだ目は真っ直ぐに楓を見ている。
 あの日あの時と何ら変わることなく、迷いのない、強い意志をそこにたたえ。
 違うのは今その眼には絶望も諦念もないこと。
――違う、のか……
 あの時の嘉神と今の嘉神とは、心の在り方が、違う。嘉神の言葉、眼差し、その存在そのもの――全てから楓はそれを理解した。
「……本当に、地獄門を封印するんだな……」
「己の始末は、己が手でつけねばなるまい」
「そう……か……」
 ほう、と楓は息を吐いた。息は白く流れ、やがて消える。楓の髪と目の色が本来の色に戻っていく。
 静かに揺らめく嘉神の剣の炎のぬくもりを、楓は初めて意識した。冷えていた体に、炎のぬくもりは心地よかった。
――僕、は。
 養父を嘉神が殺したこと、それによって楓の幸せな日々、家族とともに暮らした日々が失われたことへの恨みはある。今もって怒りも、憎しみもある。きっとこれから先も、激しく燃え上がることがなくともたやすく消え失せるものではないだろう。
――けど、僕は――
 楓は嘉神の目を見つめ返した。揺るぎない嘉神の意志に気圧されまいと、睨まんばかりに。
「僕も、四神の一人として地獄門を封じる。この現世を守る」
 かつて現世を守り続けた先代青龍、養父のように。その意志を、継いで。
「だから嘉神、僕は、同じ四神としてお前に聞いておきたい。
 お前は地獄門を開こうとしたことをどう思っているんだ」
 僅か、嘉神の目が細くなった。表情の変化は、ただそれだけで。
「誤ったとは思っていない。悔いてもいない。人の負の念は醜く、その存在は認めがたい」
「じゃあどうして、地獄門を封じる気になったんだ」
「…………」
 よどみも揺らぎもなかった嘉神が初めて、ほんの少し次の言葉へ間を空けた。楓の視線を真っ向から受け止めたままの無言の時は一呼吸だったか、二呼吸だったか――
「……人がそれだけのものなのか、今しばし、見定めたい。故に、私は四神の役目を果たす」
 それでも、続いた嘉神の言葉に揺れはなかった。
――あぁ……
 楓は先に押し込めた己の感情を今、認めた。
 安堵したのだ。嘉神慎之介が生きていたことに、楓は安堵したのだ。あの時声も手も届かなかった、目の前で地獄門へと消えさせてしまった嘉神が生きている、それに安堵したのだ。
 嘉神が生きてさえいれば、今のように言葉を聞ける。以前と変わることもできる。
 いつか、嘉神が己の為そうとしたことは誤りだったと気づかせることも、できる。
――ならば、僕は。
 改めて真っ直ぐと、楓は嘉神を見つめた。自分の意志を言葉だけではなく全てで示さんと。
「僕は、そんなお前を見届ける」
「……ふん。
 貴様もやはり青龍、か」
 嘉神は目を伏せた。幽かにその口の端が、歪む。あるいは笑んだのかもしれない。
「え?」
 楓が首を傾げるのに構わず、嘉神は地に刺した己の剣を抜いた。剣を包む炎が消える。
「勝手にするがいい」
 嘉神は鞘に剣を収め、楓に背を向けた。そこでようやく楓は雨が既にやんでいることに気づいた。服も髪もすっかり乾いている。
「私は貴様が四神の役目を果たすのならば、何も言うことはない」
 肩越しに僅かに振り返って低く、それだけを告げて。
 嘉神慎之介は歩み去っていく。真っ直ぐに背を伸ばし、揺るぎない、確かな足取りで。
 遠くなる嘉神の白い背を、じっと楓は見送った。「お前を見届ける」、己の告げたその言葉を守る第一歩がそれであるかのように。
 雨はやんでも未だ晴れぬ薄暗い天の下、白は鮮やかさを失わず、決して消えることなく遠ざかる。
 白が、嘉神の背が見えなくなると、楓もまた歩み出した。嘉神が行ったのとは逆の方向を、しかし同じように真っ直ぐと背を伸ばし、揺るぎない足取りで。