月下の運命 華の誓い
Interlude - Girl meets Boy
少女――ククル・コーラルには過去がない。
気がついたときには崩壊した何かの施設の中でただ一人。
少女に残されたのは悲しみを伴う喪失感と、片手ずつしかない赤と青のグローブ、そして「抹消する者を抹消せよ」と囁く誰かの声だけ。
自分のことも名前程度しか思い出せないままに少女は、抹消する者を抹消することを誓った。明瞭には思い出せないけれど自分の抱く喪失感と悲しみが「抹消する者」という存在によるものだと――大切な誰かを奪われたからだと、片手ずつの赤と青のグローブに感じる懐かしさ、切なさから理解したから。
そして、過去を無くした少女には「抹消する者」を追うことにしか自分の生きる目的を見つけられなかったら。
幸いというべきか、ククルには戦う力があった。少女には不相応な強力な体術と、赤と青のグローブが象徴したかのような炎と氷を操る力。
それだけを頼りに、懸命に探して探して、かろうじてククルは「抹消する者」と思われる男は白い炎を操り、秘密結社ネスツという組織に関する者を抹消しているということだけ――すなわちククルもネスツに関わる者だったということを――を掴んだ。
けれどそれ以上の成果はなく、「抹消する者」を追い、あるいはククルを狙うネスツの残党狩りから逃れる時ばかりが虚しく過ぎ――疲れ果てたひとりぼっちの少女の前にあの夜、一人の少年が現れた。
それが、少女の聖杯戦争のはじまり。
「近くにいるはずだ、探せ」
「該当個体はKシリーズの力を持つと推察される。油断はするな」
感情のない声が交わされ、夜闇に紛れて男達が二人組となって散開する様子を、物陰で息を潜めてククルは伺っていた。表通りとは違って街灯の一つもなく、月明かり、星明かりだけが頼りのこの裏路地では詳細までは掴めないが、それでも彼らがネスツの残党狩りを行う組織の者らしいこと、その数はざっと十数人であるらしいことは見て取れた。
――あの人達……まだ、追ってくるんだ……
彼らが何故ネスツの残党狩りをしているのかは未だにククルにはわからない。
記憶がないククルには、自分がネスツにどう関わっていたかどうか、そもそもネスツがどのような組織なのかもまだ知らないのだが、彼らはそんなことはお構いなく何度もククルを追い続ける。
――大丈夫、今回も、逃げられる……
今までの経験上、彼ら一人一人の戦闘力はさほど高くない。銃器を使われるとやっかいだが逃げることに集中すればなんとかなる。ククルが精神を研ぎ澄ませて動く機を狙っていた、その時――
「……っ」
ククルの首筋に、痛みと熱が走った。焼きごてを体の内側から押しつけられたような痛みと不快感に呼吸が乱れる。あげかけた声は何とか殺したが、膝をつくのは耐えきれなかった。
膝をついた音がどれだけの大きさで響いたかは、ククルにはわからなかった。ただ、気づかれた、とだけ思っていた。
判断は、一瞬。
これまでくぐり抜けた危地の経験が、考えるより早く少女の体を突き動かす。地を蹴る。どういうわけか首筋の熱と痛みは既になく、動くになんの支障もなかったがその不思議に意識を向けている余裕などククルにはない。
彼らがすぐに来るであろうからだけではない。
――何、この感覚……?
胸の奥にざわざわとした異様なざわめきをククルは覚えていた。原因不明の、不安のような、期待のような、奇妙な高揚感にも似たざわめき。そのざわめきの中からにじみ出るように意志がわき上がってくる。
『聖杯を得るために戦う』
――やらなくちゃ、聖杯……手に、入れなくちゃ……
不意に、逃げなければいけない時だというのにククルは思っていた。『聖杯』がなんなのか、具体的なものは何もわからないのに手に入れなければならないという衝動が一方的にわき上がってくる。不可解だが、この感覚はククルには既知のもだった。
――これ……抹消せよっていう声と……似てる……
自分の意志と思えない、しかし自分の内から顕れ駆り立ててくる意志――それはククルを不安にさせる、が。
――……っ、今は、気にしてちゃ駄目……っ
不安に捕らわれている場合ではない、今は彼らから逃れることに集中しなければならない。ククルは生きなければならないのだ。
「抹消する者」を抹消するために。
しかしわき上がる意志は一つではなかった。
『サーヴァントを得る』
――サーヴァント……?
ククルの状況などまるで無視して容赦なく浮かぶ意志に、反射的にククルは疑問を浮かべていた。同時に、ククルは答えを得る。
「マスター」である自分に従って聖杯戦争――万能の願望器「聖杯」を巡るサーヴァントを従えたマスター達の戦い――を戦うもの、それがサーヴァント。聖杯を得るためにはまずサーヴァントを得なければならない。
――どうやって?
サーヴァントを得るすべなどククルは知らない――
「いたぞ」
「A組、状況−3」
――来た……!
聞こえた彼らの声が現実からそれかけたククルの意識をなんとか引き戻した。
彼らから逃れ、生き延び、「抹消する者」を追わねばならない。自分のすべきことを強く意識し、ともすればククルの状況を無視してわき上がってくる意志に引きずられそうになる自分を叱咤する。彼らから少しでも離れようと気配の少ない方を選び、月明かりすら避けてククルは駆ける。
しかしそれは、彼らの思う壺だった。
――……っ
身に走った、寒気のような感覚にククルが駆ける進路をずらした直後、乾いた銃声、遅れて着弾音が連続して響いた。
更に続く銃声に身を地に投げ出し、転がって物陰に飛び込み――ククルは自分がこの場所へと追い込まれたことを、知った。
向けられる銃口は見えるだけで五つ。人の気配はその倍ほど。銃も人も、ククルからは見えてないもの、見えない距離のものもあるだろう。
「動く愚はわかっているな?
ネスツKシリーズの生き残り、我らに従うかここで死ぬか選べ。2秒で答えろ」
――どちらも、選べない。
2秒も考える必要はなかった。ククルの答えは決まっている。ククルは「抹消する者」を抹消しなければならない。ここで死ぬわけにも、彼らに従うわけにも行かない。僅か、ククルは身を低くした。左の青のグローブが冷えていき、逆に右のグローブが熱を帯びる。
それに彼らが気づかないはずがなかった。
「撃て」
命令に、ためらいも容赦も、感情もなく。ただ彼らは決められたプロセスを実行する。
引き金を引く音をククルは聞く。緑の目が、赤く染まる。力をククルは覚醒させ――
【契約せよ】
それは意志、などではもはやなかった。
内からか、外からかの判別もつかない。ただただ強烈な「命令」。
「えっ?」
弾かれたように顔を上げたククルの視界が、金色に染まる。遠くで近くで、呻き声や倒れる音がした。
それは、光。
それは、力。
そしてそれは――存在。
――なに、これ……
反射的に目を閉じても金色は消えず、物理的な圧力さえ感じられた。
正体のわからない金色だったが、なぜかククルには恐怖はなかった。むしろ、安堵すら感じている。
――どう、して……?
ククルが疑問を覚える中、ふっと金色が薄れた。
消えてしまったわけではない。力も存在も感じられる。
おそるおそるククルは目を開き、そこに在るもの、金色の正体を見ようとし――身を、強張らせた。
「あんたが……俺の、マスターか……?」
聞こえた、低い声に。
感じていたククルの安堵が吹き飛んでいた。
「あ……」
一歩、ククルは後ずさる。「逃げろ!」と誰かの声がする。
胸元を掴む。「抹消する者を抹消せよ」、聞こえてくるあの声はいつもより鮮明だった。
「おい、あんた……」
声の主の姿はまだ金色に眩んだままのククルの目ではしかと捉えられない。しかしその声が耳に響くたびに、初めて聞くはずの声なのに、ククルの鼓動は跳ね、体が恐怖に、高揚に震える。
ククルの身に宿るものが言う。この声こそ抹消する者の声だと、お前が抹消するべき存在だと――同時に、恐ろしい存在だから逃げろと絶叫する。強烈な命令である【契約せよ】の声と拮抗するほどに。
――この声が、抹消、する者の……
「おい!」
応えないククルに焦れたか、声が荒げられた。ようやく戻り始めた視界にぼんやり浮かぶ姿――少年のように見えた――が近づいてくる。
ククルに銃を突きつけていた彼らは皆倒れ伏していた。他の者の気配も絶えている。少年が倒したのかもしれないが、ククルの意識は少年の声と自分の内で渦巻く声に捕らわれている。
「や……」
「あんた、マスターなんだろ!?」
強い口調で言いながら、少年がククルの両肩に手を置いた瞬間、
「いやあっ!」
ククルは少年を突き飛ばした。大きく飛び退る。左の青のグローブには冷気が、右手の赤のグローブには炎が揺らめく。彼らから逃る時よりも強く、力が身にみなぎる。
――恐い……けど……けど……
『逃げろ』『抹消せよ』【契約せよ】『逃げろ』『抹消せよ』【契約せよ】『逃げろ』『抹消せよ』【契約せよ】…………
ククルの頭の中で自分のものではない声ばかりがぐるぐると回る。震えが治まらない。首筋がずきずきといったん治まっていた痛みを訴える。逃げなければ、抹消しなければ、契約しなければ――いずれかを選ばねば、選べと一斉に突きつけられる選択と昂ぶる感情にククルは混乱していた。
少年の声は抹消する者の声だとククルに宿るものは言う。少年の声を聞くと恐怖を覚え、激しい衝動がこみ上げてくるのだからきっと間違いは無い。ククルは覚えていなくても、宿るものは覚えている。知っている。
――だから、抹消しなくっちゃ……いけない……ああ、でも……っ
戦うために手には冷気と炎を宿しながらもしかし、逃げる機を計って足を引く――いや、前へと飛び出そうとしているのか。混乱の中でククルは自身の体や力すら、どう使えばいいのかわからなくなっていた。
――逃げる……抹消……契約……どう、すれば……いいの……? 教えて……助けて……誰か、誰か……
「逃げろ」
その声は、やはり恐怖を伴って、しかし混乱したククルの意識の中に明瞭に響いていた。
「……えっ」
瞬きを、一度、二度。やっとそこで言葉の意味を理解し、しかしククルの混乱は増す。
――どうして、逃げろって、この声が言うの……
「逃げろ。行ってくれ……っ!」
ようやく正常に戻った視界に、ククルは認識した。
語気を強め、逃げろと繰り返した少年の目は、まっすぐにククルを見ている。
赤い――緋色の目が。
その眼差しの中に、ククルは苦痛と優しさが入り混じっているのを見た。
――知ってる……私、この目を……『知ってる』……
『生きろ、ククル』
声を聞いてなどいない。声の主の姿も見ていない。けれど、かつてククルにそう言った人達がいた。確かにいた。見ていなくても聞いていなくても、あの時、思い出せない記憶の向こう側で、ククルの身に宿るものが感じ取っていた。
今、それをククルは思い出した。思い出した言葉の記憶が、混乱していた思考がにふっと冷静さを取り戻させる。
――……似てる……
あの声の主は、あの人達は、苦しみを抱えながらもなお、優しかった。最後まで、ククルを守ってくれた――
――……っ
ククルは両の手を、赤と青のグローブをはめた手を握りしめていた。炎が、冷気が、散り踊って消える。
「……おい?」
動かず、何も言わないククルの様に、怪訝に少年が眉を寄せる。
それでも少年の目は優しい。そうククルは思い、確信した。
――この人は、違う。抹消する者じゃないよ。
自分の内に響く声、「抹消する者を抹消せよ」と迫る声に、「逃げろ」と促す声ににククルはそう言い聞かせる。少年への恐怖はもう、薄れていた。
――この人は――
金の髪の、緋色の目の少年は。
――サーヴァント。
まるで、この時を待っていたかのように。
【契約せよ】
声はひときわ強くククルの内に響いた。
「告げる」
誰かの声がそう言った。
「汝の身は我の下に」
――……え?
その声が自分のものであったことに、自分の意志とは無関係に続けられる言葉にククルは新たな戸惑いを覚える。
「おい!」
何をククルが言おうとしているのか気づいたのだろう、少年の表情が険しくなった。
「我が命運は汝の刃に」
――何、これ……止まらない……!?
早足に少年が歩み寄る間にも、ククル自身が戸惑いを、不安を深める間にも、言葉は続く。首筋が熱を持っている。
「やめろ、あんたに俺は合わねえ!」
少年の手が、再びククルの肩を掴んだ。何度か揺さぶってくるが、それでもククルの口から流れる言葉は止まらない。
「聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うのなら、我に従え」
「くそ……っ!」
少年の手がククルの肩から離れる。言っても駄目なら力尽くで止めようというのか、「悪ぃ」と詫びる言葉と共に少年の手がククルの口へと伸ばされ――ぴたりと動きを止めた。
「……っ、ぐ、くそ……」
少年の苦しげに歪んだ表情が、手を止めたのが彼の意志でないことを示している。
――この人……
少年はククルとの契約を阻もうとしている。理由はわからないがしかし、そこに悪意はないことはわかる。少年が契約を阻むのは、ククルを気遣っているから。少年の行動に、少年の緋色の目の奥に見える光に、ククルはそう思う。
――この人は、悪い人じゃない……
まるで把握出来ない状況の中でそのことに一抹の安堵を覚えつつ、ククルは次の、何故か最後と知っていた一節を口にした。
「ならばこの命運、汝が刃に預けよう――」
「……くっそう……っ」
苦しげに、悔しげに少年は顔をしかめる。少年が自分の左の二の腕を右手で強く握ったのは、何かに抗うためにククルには見えた。
しかしその抵抗は、虚しく。
「……殺戮者(エリミネーター)の名の下に、誓いを……受ける……ッ!」
少年の喉から絞り出されたのは悲痛な声。
「こうなってしまった」「逃げ切れなかった」――無念、怒り、絶望、少年の強烈な感情をククルはその声に――否、まるで肌で直接触れたかのように、感じ取った。
何か、ククルと少年の間に繋がった何かを、介して。
「――――!!!」
大気の震えが肌に伝わるほどの絶叫、咆吼がククルの感じる少年の感情を打ち砕いた。
――……っ!?
弾かれたようにククルが咆吼の源を見れば、それは少年自身。己の両肩をかき抱き、身をのけぞらして吼え猛る。
――何、どうしたの……!?
驚きにただ見るだけしか出来ないククルの前で、少年の金の髪が黒く、変わり始めた――
それは瞬く間の出来事だったのか、もっと長い時間だったのか。
咆吼が、止まった。
淡い月明かりの下、少年は、無言で佇んでいる。
あまりにも、変わり果てた姿で。
その肌は白く生気を失い、赤の紋様が体のあちこちに浮かび、口の端には鋭い牙が覗く。服の色までもがさっきより黒いように見える。
そして、少年の背には悪魔の腕を思わせる、いびつな黒の翼が広がっていた。
これが殺戮者のサーヴァントの、自分のサーヴァントの姿なのだとククルは理解した。
そしてこれが、自分の聖杯戦争のはじまりなのだということも。
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