天が黒雲に閉ざされて、久しい。
地に続く騒乱を憂いてか、はたまたこれからのさらなる災禍を恐れてか。日輪は厚い雲に隠れ、昼なお暗い日々が続いている。
天の異常の下、これまでの世を討ち果たさんとする者、逆に守ろうとする者が相争う。一方で大多数の民草は天の異常、地の騒乱が鎮まることを願い、祈る。
だが、争う者も祈る者も知らない。
暗き天にさらなる闇が在ることを。
黒雲の中、只人には見えないが確かにそこに、日輪の代わりのように在る、闇、暗黒が凝縮したかのごときそれ――常世と現世を隔てし『地獄門』。
朱雀の守護神の暴走により地獄門は封を解かれた。幸いにも完全に地獄門が開いて常世と現世の堺を消失させるには至らず――かといって閉じることもなく、黒々と天に、在る。
その、現世の破滅をもたらす地獄門を地より見据える者が一人。
森を通る街道沿いに設けられた小さな社やしろの側に佇んだ、真白い洋装を纏ったその男の名は嘉神慎之介。地獄門の封を解いた朱雀の守護神本人である。
かつて人の心の醜さ、弱さに絶望した嘉神であったが、地獄門の封を解いたことで生じた因果の末に今一度人の在り方を見直し、行く末を見届けることを己に定めた。今は四神の守護神の役割に立ち戻り、地獄門を閉ざそうとしている。
「まだ……時間はあるか……」
呟いた嘉神の視線がつと、動く。天より地へ――街道を歩み来る、大きな影へと。
長身の嘉神より一回り、いや二回りも大きな筋骨隆々とした巨漢の名は直衛示源。嘉神と同じく四神の一人、白虎の守護神であり、嘉神の親友であった。
「ここまで来たか、示源」
「地獄門の気を追ってくれば我ら四神、自ずと道は重なろう」
示源が天の地獄門を仰ぎ、その下方をもまた、見やる。その地、地獄門の真下にある地より強大な常世の念が四神である嘉神達には感じられる。ここにはいない玄武、青龍の守護神達、そして勘の鋭い者もそれを感じとってあの地を目指していることだろう。
「確かに……」
僅かに、嘉神の目が細くなった。
地を蹴る。白いコートを翻し宙に舞った嘉神の真下で空がおおんと喚いた。
突進した示源の剛拳が、一瞬前まで嘉神がいた場を貫いたのだ。
「……」
くるりととんぼを切って着地した嘉神は剣に手をかける。
しかし視線は伏せられ開きかけた口からは息を微かに洩らすも、言葉にはできず。
「慎之介」
代わりのように示源が言った。
「これより先の戦いは厳しいだろう。地獄門は未だ開いていないとはいえ、常世の使者なる者が現れまた、彼の地から感じる邪気は凄まじい。封印の儀を阻まんとする何かがそこにいるだろうことはお前も感じているだろう」
示源は着物を諸肌脱いだ。その右手首には白虎の守護神の証である数珠があり、握られた拳は鋼と化して鈍い輝きを宿している。
「故にわしは、お前の力を試したい」
嘉神は視線を上げた。弾指の間、碧い眼に困惑が揺れる。
「試す……だと?」
「うむ」
頷き、示源は構えた。全身の筋肉が一段と盛り上がり、鋼の輝きが右腕から広がっていく。
一つ、二つ瞬きして、そして。
「いいだろう」
嘉神は剣を抜き放った。刃が走るそばから鞘が朱の炎と化して空に踊る。
「この朱雀の力、とくと味わうがいい」
示源を見据える嘉神の眼には揺らぎはない。
ふっと満足げに示源は口の端を釣り上げ、吠えた。
「ゆくぞ!」
鋼が閃き、剛拳が唸る。
金剛の煌めきが地を割り、朱の炎が空を焦がす。
朱雀は天を翔け、白虎は地を震わす。
そして。
「昔と変わらん、いい剣だ。技の冴えは増したな」
社の石段に腰を下ろした示源は感嘆の言葉を漏らした。袖を通し直した着物の胸元から見えるその身にはいくらかの切り傷や火傷の痕があるが、いずれもかすり傷程度だ。
「……お前の拳も、重みを増したな」
示現の隣に真っ直ぐに立つ嘉神の白い洋装もあちこちに汚れが見える。
「鍛錬は欠かしておらんからな」
言いながら、示源は腰に下げた包みを開いた。
包の中身は、竹皮で包まれた握り飯。
三つある握り飯の一つを、示源は嘉神に差し出す。
「腹が減ってはなんとやらだ。食え」
「…………」
「食え。水もある」
握り飯の包みと同じく腰に下げていた竹筒を示源は示してみせた。
「ああ、その手袋は外したほうがいいぞ」
「…………」
一つため息をつき、嘉神は手袋を外した。
示源の隣に嘉神が腰を下ろすと二人は無言で握り飯を食べた。嘉神が一つ食べる間に、示源は二つを平らげる。
食べ終わると示源は竹筒の水を飲み、嘉神に渡す。受け取ったそれから嘉神も水を飲んだ。
「ここから先」
示源に水筒を返し、手袋をはめ直しながらぼそりと嘉神は言った。
「生きて戻れる保証はない」
「うむ」
頷く示源の顔は真剣であったが、気負いはない。
「親のお前には……」
「わしは、白虎の守護神ぞ。慎之介、お前が朱雀の守護神であると同じくな」
嘉神は、示源を見た。かつて己が裏切り闇へと封じた友を見た。
示源もまた、嘉神を見た。かつて己を裏切り闇へと封じた友を見た。
互いに見たのは、友であった。
「……そうだな」
頷き、嘉神は立った。
「我ら四神の守護神、これよりなすべきはただ一つ」
「うむ」
示源も立ち上がる。
二人の守護神が見据えるは、天に在りし地獄門。現世を守るために彼らが封じねばならぬもの。
「慎之介」
彼の地、決戦の地へと歩を向け、示源は言った。
「握り飯、美味かっただろう」
「……ああ」
真っ直ぐに前を見据えて歩みつつ、嘉神は答えた。
「美味かった」と。