星明かりの下、玄武の翁が出掛けたのは冬の新月の夜のことであった。
 常と何ら変わることのない緩やかな足取りで迷いなく翁は山道をたどり、小川を渡り、森を進む。
 やがて翁が足を止めたのは森の中にぽっかりと開かれた小さな広場であった。
 広場に在るのは森の神を祀ったほこらと、それから――

 天を仰ぎ立ち尽くす真白い洋装の男。
 生き恥を拒み、自死したはずの男がそこに在った。

 ほう、と己が息をついていたのをその微かな音で翁は知った。
 男が死んでいなかったことを翁は察していた――男が死んでいたのなら現れていたはずの次代が現れなかったから。
 男が今宵還ってきたことを翁は感じ取っていた――おそらくは「あちら側」の守護神が翁にだけ報せたのだろう。
 察し、報せを感じ取り。しかし、それでも。
 この現世に在る男の姿を目にした翁は安堵し、喜んでいた。それが吐息となって老人の口をついて出たのであった。

 かつて人の愚かさ、醜さに絶望した男は現世と常世の境を封じる地獄門を開き、人を滅ぼそうとした。
 友を封じ、師を追いやり、同士を殺め――されど男の目的は阻まれる。
 目的を阻まれた男は自らが開こうとした地獄門へと身を投じた。
 人の負の側面への憎悪と絶望を胸の内に抱えた、まま。

 それから幾月か過ぎ。
 その男――朱雀の守護神、嘉神慎之介が今、ここに在る。

 嘉神が過ちを犯し、罪を重ねたのは事実。
 それでも翁は嘉神が生きていることを是とし、喜んだ。弟子であるからだけではなく、同じ四神であるからだけでもない。嘉神が生きていることで開いたままの地獄門を閉じる道が開けるからだけでもない。
 生きて歩むものには希望があることを翁は知っているからだ。
 生きていれば嘉神が己が本分に立ち返ることができるやもしれぬ。絶望と憎悪を手放せるやもしれぬ。
 人には負の側面があると同時に、正の側面があるのだと、だからこそ四神は常世と現世を分かつ地獄門を守り続けてきたということが嘉神にもわかるやもしれぬ。
 死してしまえばそこで終わり。生きているならばこれからを望める。
 故に、玄武の翁は嘉神が生きて在ることを喜ぶ。たとえ未だ嘉神自身が己が在ることに困惑し、戸惑っていようとも。
「慎之介や」
 昔日、嘉神が人に絶望する以前のように翁の声は穏やかであった。にもかかわらず、びくりと嘉神の体が大きく震える。
「……師匠、か」
 天から翁へと、嘉神の視線が動いた。星明かりの下ではその表情は翁にはよくはわからない。ただその声には困惑と動揺の色が濃く、そして、途方に暮れた響きが確かにあった。
 自らを捨てたというのに現世に在るのだ。それも当然であろうと翁は思う。
「体は、大事ないかの」
 地獄門へと身を投じる直前、嘉神は青龍の守護神を継いだ少年、楓と戦い、敗れた。その際にいくつも深手を負わせたと翁は楓から聞いている。
「……問題は……ない……」
 嘉神の声に困惑の色が増したのは傷が癒えているからだろう。
「ならば行こうか」
 何処へ、と問う嘉神には応えず翁は踵を返し、そのまま歩み始める。
 暫しの間の後、ついてくる嘉神の気配を背に感じ、翁は白い髭の下で笑んだ。

 常と何ら変わることのない緩やかな足取りで迷いなく翁は森を進み、小川を渡り、山道をたどる。
 三歩間を置き、嘉神は黙々と翁の後に続く。
 やがて翁が足を止めたのは、山中に結ばれた自身の小さな庵の前。
「そこで少々待っておれ」
 庵の縁を嘉神に示し、翁はその内へと入った。

 盆の上には急須が一つ、湯飲みが二つに皿が一つ。皿の上には残り飯で握った小ぶりの握り飯が、三つ。
 それを手にし翁は縁へと出た。
「なんじゃ、立ったままで」
 右の眉を吊り上げる翁の視線の先には、縁の側に佇む嘉神。
「ほれほれ、座らんか」
「…………」
 嘉神の視線が自分や手の盆、縁へと動く気配、何か言いたげにしつつも言葉を出せないでいる気配を感じつつ、翁は縁に腰を下ろす。
「もう冬じゃ、体も冷えるじゃろう。茶を飲めば温もるぞい」
 急須から湯飲みに茶を注げば、白い湯気がふわりと立ちのぼる。
「番茶じゃがの、淹れ立てはなかなか良いものじゃ」
 ことり、と嘉神の側へと湯飲みを置いて翁は笑んだ。
「冷めぬ内にのう」
「…………」
 やはり何か言いたげでありながらも嘉神からは言葉は出ず。諦めたように縁に腰を下ろすその口元から白く息が零れたのを翁は見た。

 嘉神は湯飲みを手に取り、しかしすぐには口をつけなかった。右手で持った湯飲みを左の手のひらに置き、天を仰ぐ。
 月のない夜空には、無数の星々がきらめく。星の光は小さくとも冬の澄んだ大気に研ぎ澄まされているかの如く、鋭い。
 只人ただびとの目であれば、この夜空は美しく映るだけだろう。
 しかし翁や嘉神は四神の守護神。二人の目には、夜空に黒く濃い影が――未だ閉じることのない、地獄門の姿が見えている。
 完全に地獄門が開いていなくても常世は現世に悪しき影響を及ぼす。早急に地獄門を再封印するのが四神の守護神の役割だ。
 再封印には四神と封印の巫女による封印の儀が必要。既に翁は楓や示源と共に巫女の捜索をはじめている。遠からず、巫女は見つかるだろう。
 翁はもう一つの湯飲みを取って口をつける。ほどよい茶の渋みが熱と共に口内に広がり、ゆるりと胃の腑に落ちていく。腹から熱が体の隅々へと広がるような感覚が冬の夜歩きに冷えた身には心地よい。
「……」
 嘉神もようやく湯飲みに口をつけた。ゆっくりと湯飲みを傾け、またゆっくりと左の手の上に戻す。喉が僅かに動いた後、ほう、と一つ息をついた。
 冬の夜の大気に一瞬息が白く凍り、間もなくして消える。

「……あたたかい」

 消えた白い息の後を追うようにその言葉は低く夜闇に溶けて。
「そうか、そうか」
 頷いて翁はもう一口、茶を口にした。
 困惑の眼差しを見ない振りをするためであった。