「お客さん、この街で宿をお取りにならないので?」
 とある宿場町の茶店で一服しようと腰を下ろした守矢は、かけられた声にちらりと視線を向けた。
「ああ、いえね、先程客引きを断ってましたでしょう? あれはうちの弟の嫁なんですけどね、いえいえ、だからって泊まることをお頼みしようとしてるわけじゃないんですが……お客さん、西へ向かわれます?」
 茶を運んできた茶店の主の顔にあるのは、心配と不安の色。縁者の営む宿に泊まってほしいという気が無いわけではなさそうだが、守矢を案じる色の方が濃い。
 故に、守矢は口を開いた。
「西へ向かうが、何かあるのか」
 まだ日は高い。これから次の宿場町へ向かっても日の沈む前には着く。普通なら何ら問題は無いところである。
「ええ、最近なんですがね、どうも、出るらしいんですよ」
「……出る?」
「西の宿場町の手前には野っ原がありましてね、昔は合戦場だったとか今はもう無い村の墓地があったとかなんだって話なんですが、そこでなにやら出るらしいんですよ。もう何人もあの辺りで見た者がいましてね、更には消えちまった者もいるって話でさ。それも、日が沈む少し前が一番危ないらしいんですよ」
「…………」
 守矢は湯飲みに口をつけた。湯温はちょうどよく、茶の味もなかなか良い。茶葉を惜しむような真似はしない店のようだ。
 主の口調にも誠実なものがある。話に嘘はないのだろう。
「向こうの方じゃ、坊様に供養してもらうか祓い師でも呼ぶかって話もちらほら出始めてるぐらいだそうでね、ですからお客さん、無理はしない方が良いと思いますよ」
「店主」
「泊まるんでしたら、先の宿にあたしが口をききますから……って、へえ?」
「どのようなものが出る」
「へ、へえ、落ち武者が出たって言う者もおりますれば、赤児を抱いた母親だとか、老婆や子供って話も聞きますねえ」
「そうか」
 頷いて守矢は立ち上がった。茶の代金と銭を置く。
「お客さん……」
 店主はおやめなさいと言ったのかもしれず、お気をつけてと言ったのかもしれず。しかしもう街の雑踏に紛れてしまった守矢の耳には届かなかった。

 茶店の店主の話に、気になるものがなかったと言えば嘘になる。
 半年前、堕ちた朱雀の守護神嘉神慎之介の手により現世と常世の境の門、地獄門が開かれかけてからこの方、怪異、というべき事件が増えている。中には人を襲う異形、化け物が出ることもあるらしく、実際、守矢もそういったものに出くわしたことがある。
 店主の語ったこの先の野原に「出る」ものも地獄門の影響を受けたものである可能性は高い。
 しかし守矢は急ぐ旅の身であった。今も感じる懐かしくも邪悪で巨大な気の流れ。それが守矢の思う通りの者であるのかどうかを一刻も早く確かめなければならない。
 更にもう一つ、守矢には見過ごすわけにはいかない「モノ」がある。怪異の話で足を止めているわけにはいかないのだ。
 早足に次の宿場町への道を守矢は進む。後にした街の賑わいが遠くなるにつれ、同じ道を行く者、来る者の数も少なくなっていく。この先の野原の怪異の噂はずいぶん広まり、信じている者の数も多いようだ。
 それでも守矢は歩みを緩めることなく黙々と進み――日が西に傾き始め、空がほんのりと赤く色づき始めた、頃。
 ひうと、風が吹いた。
 ひやりとした、どこか生臭い風が駆け抜け、ざわざわと草の葉の群れを揺らす。
 いつしか道はぼうぼうと草茂る野原の中を伸び、人の姿は絶えて無い。
「…………」
 守矢は、足を止めた。
 ここが怪異の噂のある野原と気づいたからではない。
 吹き抜けた風を不快に思ったからではない。
 守矢の前、ほんの五間あまり先に忽然と現れた幼子の姿を認めたが故。
 年の頃は五つ、六つか。どこかの武家の子供らしい、白い着物に赤い袴を着た赤い髪の幼子は、じ、と守矢を見る。
 幼い子供の姿をしてはいるが、およそ尋常の者ではあるまい。守矢は僅かに足を開き、右腰の刀に手をかける。
『――』
 否、幼子が見ていたのは守矢ではなかった。幼子の視線が、声が、自分の後ろへと向けられたものだと、後ろにもまた忽然と何かの気配があるのに気づいた守矢は振り返る。その横を、幼子が駆けていく。
――……っ
 守矢は、息を呑んでいた。
『――――』
 優しげに微笑む、たおやかな女人。
 守矢は、この女人を、知っている。
 女人は駆け寄ってきた幼子の頭に手を置いた。はにかんで幼子が笑う。
 守矢はこれが幻か何かだということはわかっていた。あり得るはずがない光景なのだから。
 しかし。
「は――」
 呆然と守矢は一歩、女人と幼子に向かって一歩足を踏み出していた。何故かなどわからない。胸の奥を締め付けられるような感覚がある。
 ごう、と風が吹いた。
 先より強い、冷えた生臭い風が、草の葉をざわめかせて渦を巻く。
『――――』
 聞こえた声に、はっ、と守矢は顔を向けた。
『――――!』
 茂った草の向こうに、幼子が二人見える。金色の髪の女の子供と藍色の髪の男の子供。男の子供が今度は間違いなく守矢に手を振っている。女の子供は嬉しそうに笑んでいる。
 そして、二人の後ろに、影が立った。
 大きな、子供達よりはるかに大きな、男。禿頭で、右目に刀傷がある。
 守矢が忘れるはずもないその男は、昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ――

『こちらへ来るのだ』

 昔と変わらぬ声だ、と守矢は思った。
 あたたかでやさしいその声が、守矢を呼ぶ。
『休んでいくが良い。お前は疲れておる』
 こっちへ来て、と女の子供が言う。早く早く、と男の子供が手招きする。
 お行きなさい、と女人も言う。休みたいよね、と赤い髪の幼子も言う。
「……っ」
 守矢は、顔を伏せた。胸の奥が苦しい。何かがあふれそうで声も出ない。しかしそれよりも強烈な感情がわき上がる。

「――――っ!!!」

 叫びが、響いた。
 銀が閃く。力任せに引き抜かれた刃は無為に路傍の草を薙ぐ。

『守矢?』

 怪訝に、不安げに、寂しげに、悲しげにそう言ったのは誰だったか。
 守矢は地を蹴った。どこへ向けて駆けるなど考えていなかった。されど矢のように駆ける守矢の前には、刀傷のある巨漢の姿。
 刃を翻す。一瞬目をつぶりかけ、しかし守矢は目を大きく見開いた。
 眼前の光景を、懐かしく愛おしい人々を、脳裏に焼きつけんと。
 揺らめく己の心の弱さを忘れまいと。

『守矢』

 昔とその声が何も変わらないことが、たまらなく、悔しかった。

『避けよ!』

 声音が違った、と守矢は思った。だがその理由、言葉の意味を考える間も理解する間もなく、守矢の体は反応する。地を蹴り、方向を無理矢理変える。
 轟音と共に黒いいかづちが走ったのは、その直後。
 悲鳴すら上げることなく、男と二人の子供はいかづちに貫かれ、呑まれ、消し飛んだ。
 それに守矢が衝撃を受ける間もなく、いかづちがまた落ちる。
 振り向かずとも、守矢はわかった。
 今度は女人と幼子が貫かれたと。

「クク……クハハハハハハハ……!」
 
 哄笑と共にまた一つ、いかづちが落ちる。
 ようやく守矢はいかづちが黒ではないことに気づいた。稲妻の色は昏く濃い、紫。
「くだらん……くだらんなぁっ! 滅びた者がいつまでも現世にしがみつく……無様な……!」
 哄笑し嘲るは、いかづちの紫よりもなお昏き影。
――あれは……
 常世の気を纏い、漆黒の刃を手にしたこの銀髪の男を守矢は知っている。
 常世の使者を名乗り、封印の巫女である雪を狙う男。守矢が見過ごすわけにはいかない「モノ」、倒すべき、敵。
「死んだ者は消えてしまえ! 目障りだ!」
 男が刃を振るう。いかづちが落ち、草を焼く。常世の気が颶風と化して荒れ狂う。
 どこかで、悲鳴がしたようだった。幻聴か、そう思った瞬間、守矢は見た。
 常世の気に中てられて現れたのか。風が唸り、紫電が、男の刃が荒れ狂う野っ原に漂う、無数の霊を。武者の姿をした者があり、農民らしき者、旅人らしき者、男、女、子供、老人、様々な者の霊。共通しているのはいずれも皆、飢えたような、寂しげな表情をしていること。
――先の、あれは、つまり……
 守矢は理解した。先に守矢が見た者は、彼らが作り出したもの。なんの故あってかはわからないが、彼らは己らの飢えを満たすために、生者を惑わし、自分たちの元に誘うのだと。
 そんな霊を、無慈悲に、無造作に、常世の使者は貫き、薙ぎ払い、滅していく。霊達は抵抗することも逃げることもかなわず、ただ悲鳴を上げて消えていく。
「クハハハハッ、そうだ、消えろ、死ね、失せろぉっ! 生者も、死者も、全て!」
「…………」
 守矢は、動いた。
 でたらめに落ちる紫電を意に介することなく、真っ直ぐに、常世の使者へ向かって。
 霊達を哀れんだわけではない。義妹の、義弟のために、今も遠くに感じる懐かしい気配のために、常世の使者は倒さなければならない。それを御名方守矢は承知している。
 刃は鞘の内に。常世の使者の身が尋常のものではなく、たやすくは斬れないことは以前の戦いで知っている。必要なのは、速さではなく、重い、必殺の一撃。
「……貴様……?」
 常世の使者の目が、赤い目が守矢を見た。意外な者を見た、そんな色が走り――瞬転、喜悦に染まる。
「封印の巫女の……クク……こんなところにいたとはなぁっ!」
 黒い刃が守矢へと向けられる。常世の気が濃さを増す。応じたか如く霊達がざわめき、声を、嘆きの声を上げる。
 ばちり、と黒の刃に紫電が走る。振り上げられる。
「死者に誘われるとは、貴様も……」
 常世の使者は真っ向から己を叩き斬るつもりなのだと守矢は知る。されど、守矢は更に地を蹴った。
――歩月。
 天賦の才と弛まぬ鍛錬に磨かれた技。神速の動き。黒の刃が振り下ろされるより、紫電が疾るより速く、常世の使者の懐へと飛び込む。ずん、と足を踏み込む。月の桂が鞘走る。
「はあぁぁぁぁっ!」
 通常は速さと技で攻める守矢の、重い一撃。狙うは、常世の使者のがら空きの胴。
「がっ……」
 常世の使者の動きが止まる。ぐらりと長身が揺れる。だが、手応えは鈍い。肉を斬り骨を断った感覚は無い。
「ク、クク……」
 息を詰まらせながらも常世の使者の口の端が嘲りにつり上がる。
 しかし、それすらも守矢の読み通り。この一手が全てのつもりなど初めから、ない。
 一気に刃を振り抜き、手を返す。状態を崩しながら後ずさる常世の使者を追い、更に踏み込む。
「……行くぞ」

 月が、舞う。

 斬り下ろし、斬り上げ、斬り払い――流れるように繰り出される白刃の閃きは雪の如く。
 弧を描く剣の軌跡は月の如く。
 散る血飛沫は花の如く。
 これぞ活殺・乱れ雪月花。
 無数の斬撃で相手を斬り刻む、活殺逸刀流の奥義。しかし此度の雪月花は通常の型とは僅かに異なっていた。
「月夜に……あがけ……!」
 下段から振り上げられた月の桂が真円を描き、常世の使者を斬り裂く。一撃目から変わらず斬りつけ続けた同じ一点、常世の使者の胴を。
 手に伝わる手応えから、内腑まで達したと守矢は確信する。
――だが、あと一撃。
 倒すまでには至らなかった。上段まで抜ききった刃を再び返し、守矢は飛び退って間合いを取る。あと一撃を放つより、下がらねばならぬと体が動いていた。その鼻先を、黒い刃が掠める。
「躱わしたか……クク……あと半歩で首が飛んでいたのになぁ……残念だ……」
 常世の使者は、嗤っていた。
 右の手で押さえた腹に広がる赤黒い染みをまるで意に介した風無く、左手に持った黒い刃を振りかざす。
「死に囚われし者よ……悦べ、死は……そこまで迫っている……!」
 無造作に、あっさりと。
 黒い刃を横薙ぎに、振るう。
 颶風が唸る。紫電が飛ぶ。
 間違いなく守矢は常世の使者の間合いの外にいた。にもかかわらず、その頬に熱が走る。斬られたのだと気づいたのは、熱の後に痛みを覚えてから。
「クク……死からは逃れられん……貴様も、封印の巫女も……皆、死ぬ。俺が殺す。全て、何も、残さずなぁっ!」
「させん……!」
 頬から流れ落ちる血も拭わずに哄笑する常世の使者に、守矢は斬りかかった。
「クハハハハ、いい顔だ! いい顔だ! 死を前に恐れあがく、無様な顔だ! 死に囚われし者、その顔のまま、矛盾を抱いて死ぬがいい……!!!」
 常世の使者もまた刃を振り上げる。
 守矢の月の桂が、常世の使者の黒い刃が、閃く。

 ごおごおと、風が、おめいた。

「……何?」
 呆然と、守矢は呟く。
 何も、そこには無かった。
 ざわざわと風に揺さぶられて草が泣く野原が広がる中に伸びる、道が一筋。
 そこに守矢は一人、立ち尽くす。
 月の桂は鞘の内。
「……すべて、まぼろし……?」
 ここで見たものも、常世の使者も、全て――
「……っ」
 頬に痛みを覚え、守矢はそこに触れた。ぬるりとした感触と、熱が触れた指に伝わる。
 見ればそこには、赤。

『死に囚われし者よ……悦べ、死は……そこまで迫っている……!』

 耳にこだまするは、哄笑。
「…………」
 手拭いで、守矢は頬と指の赤を拭った。
 そして、歩み出す。
 西へ。懐かしく、大きな、しかし邪悪な気配を感じるその地へと。
 幻にいつまでも囚われてはいられない。
 幻の言葉になど耳を貸してはいられない。

――守矢――

「…………」
 一呼吸と、半。
 守矢の足が止まる。
 懐かしい声。六年もの歳月が過ぎてなお、忘れられぬ声。
 あの時聞こえた警告は、真の声だったのか、守矢の警戒本能が作ったものだったのか――守矢には判断がつかない。
 守矢の唇が、僅かに動いた。
「――――」
 零れ落ちるは、声にならぬ、言葉。
 ずきりと、頬の傷が痛む。
 耳の奥で哄笑がわめく。
「……」
 守矢は、歩く。
 絡みつく哄笑の残滓を振り払わんが如く。ただ、歩く。
 己の全てを精算するがために、その地へと向かって――