天は厚い黒雲に閉ざされ昼だというのに薄暗く、地には淀んだ大気が漂う。
 天のこの様は今日に限った話ではない。ここしばらく気持ち良く空が晴れ、大気が澄んだ覚えは雪にはない。
 天にて蠢く黒き大穴、地獄門――この世である現世とあの世である常世を隔てる門――が開きつつある影響らしいが、欝蒼と木の生い茂ったこの山中では更に陰りが増し、増した陰りが大気の重苦しさをもいや増している。
 もっとも、大気の重苦しさは薄暗さや地獄門の影響だけが理由ではなかったらしい。
――まさか……そんな……
 山道を辿っていた雪は息を呑んで足を止めた。
 前方に、武器を手にした賊とおぼしき者達に取り囲まれた男の姿が見えた。大気に更なる陰鬱さは賊達の殺気立った不穏な気配が源であった。
 取り囲まれた男の顔かたちこそ距離があってよく見えなかったが白い洋装に身を包んでいることはわかる。
 雪が見忘れるはずもない、姿だった。


 あの日、白い洋装に身を包んだ堕天の朱雀――嘉神慎之介は冷ややかな目を雪に向けた。
「人の言う愛など無力……所詮は虚ろ。真の救いなどありえぬ……」
 冷酷そのものの眼差しはしかし、一点の曇り無く澄んでいた。きれいな目だと雪が緊迫したこの時――師であり養父であった人の仇であるこの男と対峙している時でありながらつい思ってしまったほどに。
 そして、同時に。
 愛槍を構えて雪は思った。
 嘉神慎之介は悲しい目を――憎悪と絶望、孤独に満ちた悲しい目をしている、と。


――でも、あの人、は。
 一歩、雪は足を踏み出した。その動きはぎこちないがそれも当然のこと。雪が知っている限り、嘉神慎之介は死んだはずなのだ。
 あの時雪では倒せなかったが、後に雪の義弟であり青龍の守護神である楓が死闘の末に嘉神を打ち倒した。敗れた嘉神は自らが開こうとした地獄門に身を投じたと雪は楓から聞いている。楓との戦いで深手を負ったという嘉神が地獄門に身を投じて生きているはずがない。
 ならば、今この場にいるあの男は一体――

 白い洋装の男は自分を取り囲んだ賊――ざっとその数、十人ほど――を無言で睥睨した。
 ただそれだけで気圧されたか、賊達は身を僅かにのけぞらせる。
 賊はいずれも貧相ななりで随分痩せていた。刀こそ持ってはいるが彼らはいずれも戦うすべなど満足には身につけていなさそうであった。
「な、なんだ、お前! か、金を出せって言ってるだろう!」
 己を鼓舞するように賊の一人が声を張り上げる。が、白い洋装の男は無言のままだ。
 男の無言はしかし、賊達に目に見えぬ圧力となってのしかかる。
 数で勝り、武器を手に取り囲んでいるというのに追い詰められているのは賊達にしか見えない。それほどまでに、男と賊とでは格が違いすぎた。
 だがよほど金品が欲しいのか、賊は誰一人引こうとはしない。
「い、痛い目見ないとわからないようだな!」
「か、数ではこっちが上なんだ!」
「やっち、まえぇっ!」
「身ぐるみはいでやる!」
 切羽詰まった様子で口々に叫び、武器を振り上げる。
――いけないっ。
 雪は駆けていた。理由は、わからない。あの白い洋装の男を助けるためか、むしろ賊を助けるためか。それとも単に白い洋装の男の正体を確かめたいだけか。しかし少し距離がある。これでは間に合わない、その焦りに雪は叫んだ。
「やめなさい!」
 皮肉にも、賊が一斉に男へと襲いかかったのは雪の叫びと同時。
 男は表情を変えることなく襲い来る賊を、そして――雪を、見た。
 一点の曇りもない澄んだ目だと雪は思い、確信する。
 あの男は間違いなく、嘉神慎之介だと。
――生きて、いた……っ。
 嘉神は雪の養父であり師であった人を殺した男。
 養父を殺されたことで残された雪と義兄、義弟はばらばらに生きることになった。
 雪は養父の死を、兄弟ばらばらになったことを悲しみ、それをもたらした嘉神を憎み、恨んだ。けれど、楓から嘉神を倒したと聞いた時、そんな想い、感情には区切りがついた――はずだった。
 どれほど嘆き、憎んでも潰された時は戻らず、師を失ったことを乗り越えて生きていかなければならないことを雪はもう理解していたから。
 そのはずであったのに、嘉神が生きていたと確信した今――否、最初にまさかと思ったその時から、雪の胸中には悲しみや憎しみが渦巻いている。
――でも……
 確信とそれがもたらす渦巻く想いの中に、一点の違和感。それが雪の足を止める。
 違和感がなんなのかを雪が掴む前に、白い外套の裾が翻った。
 淀んだ大気の中を涼風が吹き抜けたかのような錯覚を雪は覚えた。
 薄暗さの中を鮮やかに朱が走り、顕れた銀が閃く。
 鋼がかち合う音はほんの、数度。
 翻った外套の裾が元通りに流れ落ちた時には、賊達は全員地に倒れて呻いていた。もっとも賊のいずれも息はあり、たいした怪我もないようである。
「…………」
 嘉神慎之介は倒れた男達を再び睥睨する。冷たく、澄んだ眼差しで。
 それがとどめとなったか、声にならぬ声を上げ、落とした武器も拾わずに賊は逃げ出した。しかし一人、足を痛めたのかそれとも嘉神を恐れるあまりに腰を抜かしたか、尻をついたまま後退ることしかできない者がいる。
 嘉神の眼が立てない賊へと向く。その手の宝剣が曇天の薄暗さの中でもぎらりと存在を主張したかのように見えた。
「ひぃっ、お、お助け……っ」
 賊は手をついて必死に後退ろうとするが、恐怖と混乱に手は空を切るばかりだ。
「…………」
 みっともなく藻掻くのみの賊を見下ろしていた嘉神の、剣を持つ手が動いた。絶望的な悲鳴が賊の喉からほとばしる。
――……っ。
 賊であっても既に戦う力を無くした者が命を奪われることを雪は見過ごせなかった。だが雪が再び地を蹴るより、速く――
「だめぇっ!」
 幼い声が、響いた。
 小さな姿が転げるような勢いで座り込んだ賊の前に飛び出す。
「だめ!」
 小さな両手を広げて嘉神の前に立ちはだかったのは、まだ幼い男の童。
「お、おめえ、おせえぞ……っ!」
 父親であったらしい賊が怒号をあげる中、童はつぶらな瞳できっ、と嘉神を睨み付けた。
「あ、あっち、いけ!」
 童の声は震えていた。
 童の広げた手も、その体も震えていた。
 嘉神を睨むその目の光も潤んで震えていた。
 それでも、童は真っ直ぐに目を嘉神に向け、叫んだ。
「おとうに、ひ、ひどい、こと、するなぁっ!」
「…………」
 嘉神の揺らぐことのない澄んだ光を宿す碧い目は、真っ向から童の視線を受け止める。僅かにその目が細められたのは如何なる感情によるものか。
 そのまま、童の目を見つめたまま、止まっていた嘉神の手が動いた。
「……っ!」
 童が体を震わせ、目をつぶる。
 覆い被さるようにその小さな体を賊が抱きしめる。
――させない……!
 雪は今度こそ地を蹴る。

 カチリ、と小さな音がした。

 それが嘉神が剣を鞘に収めた音だと最初に理解したのは誰だったか。
 嘉神の剣を払おうと槍を下段に引いたままの姿勢で、雪は戸惑いの表情を浮かべた。
 恐る恐る顔をあげた童を抱いた男の顔にも同じ表情が浮かんでいる。
「…………」
 嘉神は無言だ。胸の前で収めた剣を持つ手を下ろし、変わらない冷ややかな目で賊を見る。
「ひ、ひぃぃっ」
 情けない悲鳴を上げ、嘉神の視線に弾かれたかのように賊は立ち上がって逃げ出した。
 こけつまろびつしながらも腕に抱いた童を一度も取り落とすことなく。

 嘉神が踵を返した。
 雪を、見る。
 かつてと同じ碧い目には、やはりかつてと同じように一点の曇りもない。
 ただ。
――この目は……違う。
 雪は先の違和感が何によるものかを理解した。
 今の嘉神の目にはかつてあったもの――憎悪も、絶望も、孤独もない。
 今は、静謐さだけが碧の眼にある。
「あなたは……」
 槍を引いて一歩、二歩雪は嘉神に近づき、その碧の眼を真っ直ぐに見つめて言った。胸には未だ過去の痛みを忘れ得ないが故の怒りや悲しみ、憎しみの想いが渦巻いているというのに、落ち着いた声が出せていたことが雪自身、驚きであった。
「……嘉神、なの……?」
 それは「問うべきこと」へと続けるための問い。
 嘉神はほんの僅か、眉を寄せた。問いに対してのものではなさそうであった。問うた雪に、何か気づいたことがあった、その様な風であった。
「違う……の?」
 怪訝に雪が問いを重ねれば、ようやく嘉神慎之介は口を開く。
「……そうだ。慨世の娘よ」
 答えた声も、雪の記憶の中の嘉神のものと同じ。
「死んだって、聞いていたわ……」
 そうだと思っていたとはいえ嘉神慎之介が生きていたことは間違いなく衝撃であるはずなのに、雪の声は先と変わらぬ落ち着いた響きを宿したまま。
「何故再びこの身が現世にあるのか、私自身わからん」
 答えた嘉神の口の端は苦々しさと自嘲の色を入り混じらせて歪み、口調には素っ気ない、何か突き放したものがある。表情といい口調といい、今こうして生きて在ることに嘉神は不本意ささえも感じているようにすら雪には思える。
「わからない、って……じゃああなたは、今は何をしようとしているの?」
 これこそが雪が問いたかったこと。しかしさすがにこの問いを口にした雪の槍を握る手には自然と力がこもり、声は緊張の色を帯びた。
 生きていた嘉神。
 天にある、開きつつある地獄門。
 以前と同じ野望を嘉神が抱き、地獄門を開くことを目論んでいるのならば見過ごせない。雪とその家族が味わった悲しみも憎しみももう繰り返させはしない。
 そう思い、緊張する一方で、雪はそうではないとも思っていた。
 今日この場で見たものが、雪にそう思わせる。胸の内で渦巻く恨みも憎しみも越えるほど、強く。
 それはきっと、嘉神の目のせいだと雪は思った。
「…………」
 ふっと嘉神は雪から視線を外した。その碧の目が見るのは、先の賊が逃げ去った方向。
「人間は己が欲のため、己を救うがためならば他者を害することもよしとする」
 そちらに目を向けたまま淡々と嘉神は言う。
「人間は己が欲のため、己を救うがためならば小さき弱き者さえ利用する。
 貴様も聞いただろう、童が現れた時にあの賊が「遅い」と言ったのを。
 あの童は賊が危うくなったら出てくるように言い含められていたのだろう。幼き身がかばうことで情けをかけさせるために」
 嘉神の碧の眼で怒りと侮蔑――もちろん雪ではなく賊に対してのもの――の色が揺れた。
「かように人は愚かで醜い」
 嘉神の声は不思議と、静かだった。眼に残す怒りも侮蔑も声には表れず、かといって先に自分の状況に見せた突き放したものや冷ややかさもない。
 だから雪は言った。
「でも」と。
 嘉神を見つめたまま。
 嘉神の言う通りではあるのだろう。思い返せばあの童があの機に現れたのはあまりに賊に都合よく、不自然だ。
 それでも、「でも」と雪は思う。嘉神の言葉に対して、そして嘉神自身に対して。
「嘉神、あなたもあの人が子をかばうのを見たでしょう」
 嘉神の手が動いた時、賊は童を守ろうとした。逃げた時も抱いたまま手放さなかった。確かに童を盾とするのがあの賊のやり方だったのだろうが、あの賊に童を想う気持ちがあったこともきっと間違いではないと雪は思うのだ。
「…………」
 ゆっくりと、嘉神は雪へと視線を戻した。
 澄んだ碧い目は真っ直ぐに雪を見る。
 きれいな目だと雪は思う。揺るぎない己と強い意志を持った人の目だと――かつての嘉神とは違う目だと。
 だから――かつて、とは違うから――嘉神は今、誰も殺さなかったのだろう。
「あぁ」
 雪を見つめたまま、嘉神は頷く。
「人間とは不思議なものだ。醜さ、愚かさを持ちながら、美しいものをも心に宿す。
 私は、そんな人間の在り方を見ていく」
 眼差しと何一つ変わらぬ、揺るぎない己と強い意志を宿した言葉はこうしたいと願望を示すのでも、させてくれと許しを請うのでもない。既にそう決めた己の在り方、それを嘉神は自分に告げたと雪は感じた。
「故に、地獄門を閉ざす」
「そう……」
 雪は小さく吐息を洩らした。その胸の内で渦巻いていた怒りや憎しみ、悲しみの感情が、潮を引くように治まっていく。だが一時治まっただけだ。師を奪われ、家族と別れ別れになった悲しみや恨み、憎しみを忘れたわけではなく、嘉神を許したわけでもない。
 ただ、雪は思ったのだ。自分が見た、今の嘉神に。
 もう自分はこの男を憎めない、憎まないのだと。
「嘉神」
 憎しみの代わりに、雪は言う。こうして嘉神慎之介と言葉を交わすのは今この時が最後、そんな予感を覚えて。
 最後だから聞いてみたかった。童や賊を見逃した嘉神の心を。
「あなたはまだ……愛を無力だと思っているのかしら」
「…………」
 問いを噛みしめるようにしばし雪を見つめた後、ふいと嘉神の視線が逸れた。
 それは答えから逃げたわけではなく。
「貴様は、今も信じているか。愛する者を守るために人は強くなれる、と」
 問いを返す嘉神の視線の先にあるのは雪の胸元に光る首飾り。
 涙の形のそれは、地獄門を封じる巫女の証。
「ええ」
 首飾りを握り、躊躇いなく雪は頷いた。隠すためではなく、自分の意思を示すために。
「ならば愛が無力かどうかは、人間が……貴様が示すだろう。
 私はそれを見届けるまでだ」
「……そう」
 かつてと同じ嘉神の言葉は今、かつてとは異なる響きを宿している。絶望や嘲弄はない、静かな響きにあるのは――それは雪の願いであったかもしれないが――祈りにも似た希望。
「あぁ」
 頷いて嘉神は白い外套を翻した。見るものを見、話すことを話した、ここに用はもう無い、我が役目はこの先に――嘉神の背がそう語る。その眼差しが今見据えるのは、天に蠢く地獄門。
 破滅と絶望の象徴であり、全ての因果が収束し、決着するその地へと嘉神は向かう。
――示して見せるわ。私の全てを懸けて。
 首飾りを一度強く握って誓い、雪もまた、歩み出した。その地、地獄門へと。
 先を行く嘉神の、かつては仇と憎み恨んだ男の白い背は、薄暗がりの中で道を示す灯火のように雪には見えた。