あ、と思った時にはその黒き男は雪を己の間合いに捕らえていた。
 迎撃は間に合わない。己の身を守ろうと、せめて致命傷は防ごうとほとんど本能的に雪は槍を引いた。
 しかし。
「無駄だっ!」
 男は身を沈めたかと思うと地を蹴り、下段から黒い刃で雪を両断せんと斬り上げる。
 雪が槍を握る手に力をこめた瞬間、がつ、と鈍い音と共に衝撃が雪の腕を走り、
「きゃああっ!」
ひゅん、と槍は虚しく空を唸らせながら宙を舞う。
 くるくると回転して落ちる槍が存外軽い音を立てて地に突き立ったのと同時に男も着地し、刃を翻す。最上段から振り下ろされる黒い刃は確実に雪の命を奪う――
――ここで私は、死ぬ……
 雪はそれを認めた。自分はこの黒い男の黒い刃、死の象徴のごときそれに斬られて死ぬのだと。
――……あぁ……
 死を目前にした雪の脳裏に浮かんだのは義兄の姿だった。紅い髪の無口な剣士。その心にあるものを表にすることは少ないが、家族を想う心の厚い、強く優しい男。
 雪が密かに恋い慕い続ける、愛しい人。
 雪の形良い唇が、動いた。
「……守矢……」
 こぼれ落ちたのはその人の名。
 その名を口にしたのが助けを求めようとした故なのか、別れを告げようとした故なのか、死の恐怖から逃れようとした故なのかは雪自身にもわからなかった。

「……フン」

 自分がまだ生きていることに雪が気がついたのは、つまらなげに男が鼻を鳴らす音を耳にした時。
「……え?」
 自分の頭に落ちる寸前で停止した黒い刃と、自分を見据える黒い男の赤い目を、雪は見た。ぞくり、と背筋を冷たいものが今更のように走る。
 刃と男、双方にあるのはこの現世にあってはならない禍々しさ。生あるもの全てを憎悪し、否定する意志。その意志が雪の体を金縛りにする。
「つまらん」
 刃を止めた男が呟く。
――つまら、ない?
 男が何を言っているか雪には理解できない。雪の命を己が掌に載せた状態で、この男は一体何を言っているのか。
 男はもう一つ鼻を鳴らすと、すっと身を引いた。
「封印の巫女、貴様には絶望が足りない」
 低く言って男は踵を返す。どこからともなく灰色の梟が舞い降り、足に掴んでいた鞘を男に渡した。黒い刃を鞘に収めた男は雪に視線すら向けることなく歩み去り、その後を羽音も立てずに梟が追う。
 男の姿が見えなくなってようやく、雪はへたりと座り込んだ。
――あの人、私のことを知っていた……もしかして、常世の……
 雪の体が震える。初めて目の当たりにした常世の者の恐ろしさに。
 自らを死の寸前に追い詰めた力が恐ろしかったわけではない。恐ろしかったのは黒い男がまとう禍々しく忌まわしい気配と、その上でなお無垢に澄んでいた赤い眼。
 雪の耳にはまだ去り際の男の呟きが木霊している。
『守矢、か……』
 確かにそう言って黒い男は喉を鳴らして笑っていた。まるで、そう、まるで――
――まさか……
 再び雪の身に走った震えは、予感によるものだった。いや、それは予感ではないと耳に残る男の声が嘲笑う。
「守矢……」
 弾かれたように雪は立ち上がった。駆け出す。足を止めることなく地に刺さった槍を引き抜き、走る。
「守矢!」
 叫ぶ雪の耳には、長く男の笑う声が響き続けた。
 まるで、新しい玩具を見つけた子供のような楽しげな笑い声が。


 その宿場町は行き交う旅人も多く、冬の寒さ厳しいこの時期であっても活気と熱気に満ちていた。客引きも物売りも威勢良く声を上げ、旅人はそれぞれをひやかしては気に入った宿や売り物を選び、あるいは茶屋で一時の休息を取る。
 そんな宿場町を御名方守矢は一人、訪れていた。遙か遠くに懐かしい、しかしかつてとは異なって邪悪なものを含んだ気を追う旅路にある守矢は周囲の賑わいにも興味を見せることなく黙々と歩む。
 とはいえ紅い髪、白の着物と赤の袴の上に黒い異国の外套を羽織った守矢が人目を引かないはずがなく、またその端整な顔立ちに客引きの女達は積極的に守矢に声をかけてくる。それらに一瞥をくれることすらなく進む守矢の周りだけは、賑やかな宿場町にあって清冽な静寂が漂っているようであった。
「…………」
 不意に守矢の足が止まった。客引きの声に反応したわけではない。
――何かが私を見ている……
 客引きや物売りの視線ではない。それらとは異質な、じっと守矢を観察する眼差しがある。敵意や殺気はなく、それら以外の感情も感じない。感じないことがまた不気味である。
 髪と同じ紅の目を守矢は周囲に向けた。
「そこの美男のお兄さん、うちに泊まっていってくださいよ!」
 動かずにいる守矢に、この旅人に隙ありと見て取った客引きの女が個人的好みも露わにその腕へと手を伸ばす。ひとたび旅人の腕を捕らえればわらわらと店の者が集まり、大の男であろうと宿へ引き込んでしまうのが宿場町によくある光景であるが――
「あ、あらっ?」
 長く宿場町で働き、客を捕まえることにかけては百戦錬磨の自負のあった女はきょとんと空の自分の手を見た。慌てて守矢の姿を探せば、その紅い髪が人混みの中に消えていくところであった。
「おや、まあ……」
 女はしばらく狐につままれたような顔で立ち尽くしていたが、我に返るとまた新たな客に声をかけた。

 宿場町を出て少し行ったところで、街道から細い道が分かれている。道の先は森だ。細い道はおそらくこの近在の者が薪や森の恵みを集めに行く時に使う道なのだろう。その道を前に、守矢は足を止めた。
 足を止めた守矢が見ているのは、森に向かって飛ぶ一羽の鳥。昼間にあるのは珍しい、灰色の梟。
 この梟こそが宿場町で守矢が感じた視線の主であった。
 昼日中に梟が自分を見ていたことを不審に思った守矢は後を追ってここまで来たのである。梟は守矢が追ってきていることに気づいているようであったが、空を行くものでありながら守矢を振り切ることなく森へと姿を消した。
 梟の行動の意図は、明白。
――……誘って、いるか。
 何の為にかは不明だ。梟自身の意志なのか、その背後に何者かがいるのか――
 無言で守矢は森を見据えた。梟の姿はもう見えない。
 考えること、一呼吸、二呼吸。
 守矢は道へと足を踏み入れた。この先に何があるかはわからない。しかし守矢の直感は無視してはならないと告げた。このような迂遠な方法で己を誘うものが何なのか、見定める必要があると守矢は判断したのである。

 道を辿り森に入ると、うっそうと生い茂った木々の葉のせいで昼であっても薄暗い。外の明るさに慣れた目ではなお暗く感じる。
――妙だ。
 油断無く周囲に気を払って進みながら、守矢はそう思った。
 静かすぎる。
 今は冬であり鳥や獣が他の季節よりはおとなしいのは当然。だがそこを考えても静かすぎた。森全体が何かを警戒して息を詰めている、そんな感覚を守矢は覚えている。
 何かがいるのか、何かが起きようとしているのか。
――私を誘ったものと無縁ではあるまいな。
 右腰に差した刀に、守矢は手を置いた。
 そのまま進むことしばし、守矢の目が森の暗さに慣れた頃、ちょっとした広場のような場所に出た。この場所だけぽっかりと木が生えておらず、地面がむき出しになっている。どうやら森に仕事に来た者達の休息の場であり、森の神を祀る場であるようだ。広場の一角には小さなほこらが設けられ、別の一隅には座って休めるように上面を削られた丸太が置かれている。
 木が生えていないため日差しを遮るものもなく、この広場は森の他の場所より明るい。天を仰げばよく晴れた空が見える――
――……むっ……
 守矢の目が見開かれる。
 その紅い眼に映ったのは、青く晴れた空ではなかった。重苦しい黒雲に覆われた、光のない空。その央に在るは、黒く巨大な大穴。
 守矢はそれを知っていた。
――地獄門。
 かつて堕ちたる朱雀、嘉神慎之介が開いた現世と常世の境界の門、それが地獄門だ。嘉神が討たれた時に閉じたはずであったが、今地獄門は以前と変わらぬ禍々しさを放ちながら開いていた。
「まだ……開いていたのか……」
 言葉をこぼした守矢の声は僅かに震え、眼の紅は鮮烈さを増したかのようだ。あの地獄門のために守矢は多くを失い、またその運命もどれほど狂ったことか。守矢だけではない。あの門に関わりを持つ者、持った者皆そうだ。その門が今も厳然として開いている。冷静かつ感情を表にすることの少ない守矢が動揺を抑えきれないのも当然のことであった。
 だが、動揺しながらも守矢は天才剣士であった。
――!
 殺気を感じた時には守矢は既に前へと飛んでいる。その一瞬後、守矢がいた場所に、ざっ、と音を立てて何かが落ちる。うぉんと空が唸る。
「外したか。フン、少しはできるようだな」
 振り返った守矢が目にしたのは一人の長身の男。白い髪に浅黒い肌、暗緑色のシャツとズボンの上から青地に白の襟のついた羽織を羽織っている。手には、抜き身の刀が一振り。黒い刃の刀は珍しくも怪しい。
 黒い刃の刀からもその男自身からも禍々しいものを感じ、守矢は眉を寄せた。禍々しさを嫌悪、警戒したからだけではない。男から感じる禍々しさは天に開いた地獄門から感じるものとまったく同質のものであったのだ。
「何者だ」
 問いながらも守矢は既に柄に手を掛け、身構えている。襲った理由も男の素性もわからないが、先の一撃は明らかに守矢を狙っていた。また男は地獄門、つまり常世の禍々しさを宿している。構えないわけにはいかない。
「クク……貴様が知る必要はない」
 低く笑った男――その赤い眼には守矢への憎悪が見える――は、すうと柄を上にして縦に黒い刀を構えた。ばちり、とその全身に漆黒の稲妻が走る。
「貴様はここで死ぬのだからな!」
 叫んで男は守矢に斬りかかった。
「……くっ」
 空を裂いて襲い来る黒い刃を守矢は紙一重で避ける。危ういところで、ではない。完璧に男の太刀筋を見切った上での動きであった。
 避けながら抜刀し、守矢は男のがら空きの胴を薙ぐ――薙いだ、はずだった。
「なに……?」
 手に伝わった奇妙な感覚に、信じられない思いで守矢は男を見た。
「……クク」
 楽しげに男は笑う。確かに男の胴には守矢の刃が当たっている。一撃をかわされて男が体勢を崩したところを狙った守矢の神速の一閃は狙いを外さなかった。だが、男には何の痛痒も与えられていない。
 絶対の自信を持って放った一撃を不可解な形で受け止められた守矢の衝撃は小さくはない。しかしすぐに飛び退って間合いを取る。僅かに遅れて、黒い刃が空を切った。
――思った以上に侮れん相手か……
 気を引き締めて守矢は男を見据えたが、男は構えらしい構えも取らない。
「なるほど、貴様なら封印の巫女が執着するのも頷ける」
 一人納得して頷き、また男は憎悪を含んで笑う。
――封印の巫女?
 聞き慣れない言葉であったが、妙に守矢はその言葉が引っかかった。
「貴様の無残な様を見せればさぞや巫女は絶望するだろう。あの青い眼が怒りに、憎悪に、絶望に染まる様は実に見物だろうなぁ」
――青い眼、だと……
 守矢に関わりのある者の中に、青い眼の娘など一人しかいない。守矢の義妹、雪、ただ一人しか。
――……っ
 かっ、と守矢の体に熱が、怒りの熱が宿った。
 封印の巫女がどういうものかは守矢にはわからない。今わかるのはこの男が雪を狙っていること、雪を苦しめるために己を、御名方守矢を殺そうとしていることだけであり、それで守矢には十分だった。
 守矢は熱をねじ伏せる。熱に代わって冷静かつ冷徹な意志を以て己の体を奔らせる。
「は……っ!」
 守矢の姿が霞んだ。かと思うと、次の瞬間には守矢は男を己の間合いに捕らえている。天与の才に加えて厳しい鍛錬を経て得た強靱な脚力だからこそ為せる体捌き――守矢が「歩月」と称する技であった。
 男が反応する時など与えない。守矢の刃が鞘から解き放たれる。
「うおおぉぉぉっ!」
 雄叫びに応じるが如く、おぉん、と空が悲鳴を上げた。守矢が斬りつけるのとまったく同時に黒い刃が閃いていた。守矢の動きを読んだ、あるいは反応した動きではない。守矢の肩口へと振り下ろされる刃は、守矢が男に向けた剣気、殺気への反射のようであった。
「っ!?」
 とっさに守矢は斬りつける刃の流れを変えた。ぎぃんと鋼がぶつかり合う音が響き、黒い刃が弾かれる。一方で黒い刃の重い一撃は守矢の手にしびれを残した。
「あぁぁぁっ!」
 弾かれた刃を強引に返し、更に男は守矢に斬りつける。身を沈めて守矢はその一撃をかわした。
 男の剣技は重い斬撃が全てではなかった。
「クックックッ……泣き叫べ!」
 バチッ、と黒い刃を稲妻が走る。守矢に体勢を立て直す時を与えず、続けざまに男は斬りつける。
「……くっ」
 一振りごとに空を唸らせる男の刃を守矢は見切り、かわす。男の剣撃は重い。一つ一つ受けていては守矢の愛刀・月の桂がいくら業物とはいえ保たないであろうし、守矢自身の腕も危うい。
 ほんの僅かにかわしきれなかった黒い刃が、守矢の動きに合わせて翻る外套を裂く。それほどにぎりぎりの見切り、紙一重の見切りは先とは違い余裕があってのものではない。
 無論、防戦一方で終わる守矢ではない。
 暴風の如き男の攻撃をかいくぐり、疾風の如き一閃を繰り出す。正確無比な守矢の攻撃は確実に男の体に当たる。当たりはするが、守矢の手に伝わる手応えは常におかしく、痛みすら男に与えられない。徐々に手応えも人のものらしく変化しつつあるようにも感じるが、このままでは埒があかない。今でこそ速さで守矢が、力で男が互いを凌駕し、危うい均衡を取っているが男の体の奇妙さとその底なしにも思える体力――力任せに振るわれ続ける男の刃は一向に勢いを落とさない――にいつそれが守矢にとって悪い方に崩れるかわからない。
 その前に男に決定的な一撃を与える、埒を開けてくれる、その思いで守矢はその機を見定めんと男の四肢の動き、呼吸、表情、振るわれる刃、それら全てに意識を集中し、精神を一層研ぎ澄ませていく。
 故に。
 その声が響いた時まで守矢は気づかなかった。

「守矢っ!」

 それは恐れと不安の入り混じった切迫した女の声。
――雪……!
 戦いの最中であっても、守矢が澄んだその声を聞き間違えるはずがない。視線が勝手に声を追い、守矢は義妹、雪の姿を――守矢が辿ってきた小道に立つ金の髪、青い目の娘の姿を――認めた。
「消えろ!」
 大きく振りかぶった黒き刃を男が振り下ろす。
「守矢ぁっ!」
 雪の声が悲鳴と化す。視線を戻せば黒き刃が守矢の上へと落ちてくる。体は既に動いているが、雪に気を取られていた分、遅い。致命傷は免れても浅からぬ傷を受けるは必至。それを覚悟し、その上で反撃すべく守矢は剣を握る手に力を込めた。
 だが。
――……?
 ぴたりと、黒い刃が止まっていた。
「クク……追ってきたのか、封印の巫女……俺を追ってきたのか……!」
 二度目の叫びでやっと気づいたか、憎悪と歓喜の笑い声を上げて男は雪へと手を伸ばす。
「やはりか、やはり貴様を絶望させるのはこの男か! 丁度いい、今この場で――」

 剣閃の描く弧は、満ちた月の如く。

――逸刀・新月。
 下段から走った守矢の一閃は、男の下腹部から肩へとかけて走った。手応えは先よりある。守矢はこの機を逃さない。逃すわけにはいかない。
 雪を、この男から守るために。
 一拍の間も開けず、月の桂が再度弧を描く。先の一撃を寸分違うことなくなぞった剣閃が、黒い男の身に傷を穿つ。
――逸刀……双月……!
 白刃の描く満ち月を追うかの如く、赤い飛沫が舞った。
 守矢は流れるような動きで刃を振り抜いた姿勢から構えに戻り、ひた、と男を見据える。今度こそ確かな手応えはあったが油断はできない。
「……」
 ぐらり、と男の体が揺れた。しかし足を踏ん張って倒れるのは堪える。黒ずんだ血のあふれる傷口を押さえ、男は雪を見た。
「クク……」
 苦痛の色も見せずに男は、嗤った。
「いい顔だ……クク……あぁ、いい顔だ……」
 楽しげだが憎悪に充ち満ちた男の笑みは何故か、無垢な子供のように守矢にも雪にも見えた。
 男は嗤いながら後ずさる。
「必ず殺してやろう。巫女も、巫女の男も。絶望と苦痛の中で死なせてやろう。ククク……」
「させん!」
 禍根を残すわけにはいかない。守矢は踏み込み、男に斬りつける。閃いた鋼はしかし、予想もつかない方向からの一撃に弾かれた。
「……ナギ」
 羽音も立てずに飛来し、守矢の一撃を弾いた灰色の梟――そして、守矢をここまで誘い込んだ梟――を男がそう呼ぶのが聞こえた。
「くっ」
 梟が守矢に襲いかかる。向けられた鋭い爪にやむなく守矢は梟に向けて刃を振るった。
 灰色の羽が、舞う。
 手応えはなかったが羽が無数に舞い散り、守矢の視界を覆い隠す。
――逃がさん……!
 守矢は羽もろとも梟も男も両断する勢いで斬撃を放った。
 舞う羽が切り裂かれ、視界が開く。だが、既に男も梟も消えていた。気配もなく、残るは、地に滴り落ちた血だけ。
 澄んだ光が広場に落ちた。見上げれば空は晴天を取り戻している。
「…………」
 無言で守矢は月の桂を鞘に収めた。男も梟も逃げた。追っても無駄であろうし、最後まで得体の知れなかった男なだけに下手に追うのは危険でもある。
――今は。
 心中で守矢は呟いた。


「守矢……」
 ひとまずの危機が去ったことを確信し、まだ緊張は残しつつではあったが安堵の思いを含んだ声で雪は守矢を呼んだ。守矢の紅い眼が雪を見る。
「…………」
 幽かに守矢が息をついたのを雪は感じた。表情一つ変わらなかったが、それは雪の姿を見て、その無事を確認した安堵の吐息。
 そう感じたからこそ、雪は口を開いた。
「守矢、あの人とは……」
 関わってはいけない。あれは常世のもの、危険な存在。だから関わらないで。義兄を、愛しい人を案じ雪はそう言葉を続けるはずだった。
「…………」
 無言で守矢は雪に背を向けた。それだけの動きで、雪の言葉を遮る。先を封じる。
 お前には関係ない、守矢の背が冷徹な拒絶の意志と共に告げている。それはあの時――師であり養父である慨世の仇、嘉神慎之介を追っていた時に守矢が雪や楓に向けたものと同じ。己一人で決着をつけ、一人で雪達を守るために戦うと決めたが故のものと同じ冷徹さ。
 あの時とは状況は違うのに、この人は、御名方守矢は相も変わらず自分一人で全てを背負い、雪を守るためにあの男を追うのだろう。そんな守矢の想いが雪には嬉しかったが、守矢を危険な戦いへと向かわせてしまう申し訳なさは痛みとなってその胸に宿っていた。
「雪」
「は、はい」
 守矢の声に雪ははっと顔をあげる。
「封印の巫女とはなんだ」
「あ……」
 雪は首にかけた首飾りをそっと握った。両親を失い、慨世に拾われた時から身につけていた首飾り。この首飾りこそが封印の巫女の証であることを、雪はごく最近知ったばかりだ。
「……地獄門を閉ざす封印の儀に必要となる巫女のことよ」
 僅かに躊躇ったが、正直に雪は答える。
「お前がそうなのか」
「ええ」
 雪が頷くと、そうか、と守矢は呟いた。それ以上何も言わず、何も問わずに歩み始める。
 自分の答えだけで守矢は察したのだろうと雪は思う。
 地獄門が間違いなく今も開いていること、雪が自らが封印の巫女であることを受け入れ、役割を果たす覚悟を決めていることを。
 だから守矢は何も言わない。守矢もまた、己が為すと決めたことを果たすためにゆく。
 だから雪もまた何も言わず、去りゆく守矢を見送る。共には行けない。二人がそれぞれに為すと定めたことは近いようで遠い。
 しかし守矢は家族を、雪を想っていてくれる。雪もまた家族を、守矢を想っている。
 天の彼方にあっても月が、夜闇を優しく照らすように。
 それで十分だと雪は思い、森の木々の間に消えていく守矢の背を見つめていた。