丸い月が、夜空に在った。
 真円ではない。僅かに陰に蝕まれた、十六夜の月。
 同じ月が、水面に在った。
 天の月を映していながらもどこか歪んだ、水月。

 天の月の下、水面の月を見下ろす、一人の男が在った。
 月明かりの下でも鮮やかに映える紅い髪、白い着物に赤い袴の上から黒の外套を羽織った男――御名方守矢は一人無言で佇んでいる。
 何を思ってそうしているか、守矢の冷然とした面立ちからはまるで窺えない。
「…………」
 守矢の右の手が、動いた。
 自らの左肩に触れ、強く、掴む。
 まるで何かを堪えるような仕草であり、それを示すかのように守矢の眉はほんの少し、寄せられている。
 不意に、守矢の眉間に刻まれたしわが深くなった。その右手が左肩から離れるのと、

「未だ痛むだろう?」

嘲笑を含んだその声――守矢のよく知った声が夜の闇に響いたのは同時だった。
 声と共に濃厚な殺気と、血の臭いが辺りに広がる。
「…………」
 ゆっくりと、守矢は振り返った。その左手は既に右腰の愛刀の柄にかけられている。
「その痛みは『私』を誘う内なる声よ」
 声から、あるいは本能的な何かから感じ取ってはいたのだろうが、それでも守矢は微かに息を呑んだ。
 消えぬ嘲りの響きを声に宿し、現れた男――御名方守矢の姿に。
「死へと、な」
 月明かりの下に身を晒した男はまさに御名方守矢であった。だがその髪は闇の漆黒であり、外套こそ同じ黒であったがまとう着物は赤く、袴も黒い。
 何より守矢と異なるのはその眼だ。人の身ならば白であるはずの部分が、男の眼は血のような赤をしている。
 そのことが何よりも――男がまとう血の臭い、そして師を殺めた「あの男」と同じ気配よりも――示している。この男がこの世のものではあらざることを。
 だがそうでありながら天の月を映した水面の月の如く、この男が間違いなく「御名方守矢」であることもまた、守矢は感じ取っていた。
「わかっているのだろう?」
 クク、と男の喉が笑いにひくつき――その笑いを残したまま、その姿が消えた。
 刹那にも満たない時の後、十六夜の月明かりを弾いた銀閃が男のいた場所を薙ぐ。
「否定するか。何故に」
 数歩離れた場所で、男は嗤う。その人ならざる眼の先には、抜刀し構えた守矢の姿がある。
「私とて『私』が呼んだのではないか」
「……」
 再び銀が閃く。今度は鋼と鋼がぶつかり合う鈍い音が月明かりの下に響いた。
 一度ならず二度、三度響く中でなおも男は守矢を嘲笑う。
「何故拒む、何故否定する。左の肩の傷は『私』が死を欲した証ではないか」
「黙れっ!」
 初めて守矢が声を発した。その剣閃が如き鋭い声には、怒りの色が隠しようなく表れていた。
 守矢の言葉を無視し、なおも男は言葉を続ける。
「義弟に兄殺しの罪を着せることも厭わず、死を欲して『私』は己が身で、しかも利き腕の側、心の臓の側で刃を受けた。そうだっただろう?」
「……っ!」
 射貫かんが如く男を見据えていた守矢の眼光が初めて揺らいだ。
 刃が強く弾かれる衝撃と共に、守矢の脳裏に浮かんだのはあの時の光景――


 普段の清冽な気配はかき消え、濃い血の臭いに満ちた道場。血だまりの中に倒れた、死した師。立ち尽くす己。手にした抜き身の刃からは赤い雫が滴る――
 闇を震わせる、義弟の悲痛な叫び。義弟の手にあるのは今や師の形見となった刀。まだ年若い身には大きすぎる刃を振りかざし、守矢に向かって義弟は駆ける。
 振り下ろされる刃、義妹の悲鳴。
 守矢は、動かなかった。未熟な腕前で感情のままに振るわれる刃の動きを全て見て取っていながら、動かなかった。
「――――!」
 不思議と痛みはなかった。鈍い衝撃と熱を覚えただけだった。
 義弟の、義妹の泣き顔が見えた。師の骸が見えた。
 そして、御名方守矢は理解した。


「『私』は死を欲していた。師を守れなかった己を憎み、あの男の強大な力に絶望し、死による終焉を望み――今もなお、望み続けている」
 ひた、と守矢の喉元に禍々しい血の色の刃を突きつけ、赤い目に哀れみと喜悦の色を浮かべて男は嗤う。
「受け入れるがいい。『私』の望む安らぎはここに……」

 風が吹いたか、二人の御名方守矢の剣気に震えたか、水面の月が、崩れた。

「……ぐうっ」
 男の顔が苦悶に歪む。その鳩尾に突き立つは、守矢が右手で振るった黒い鞘。
「黙れと、言った」
 身を崩す男から守矢は飛び退る。飛び退りつつ鞘に刃を収め、取るは居合の型。足が地に着くと同時に、再び刃を解き放つ。微かな鞘走りの音の一瞬の後に無数の銀の閃光が、未だ体勢の整わぬ男へと襲いかかった。
――十六夜月華。
 守矢が放ったは今宵の月の名を冠した技。刃が舞い閃くたびに、赤い血が散っていく。
 やがて。
 守矢の刃が鞘へと戻ると同時に、どう、と男は倒れ伏した。血臭が更に濃さを増す。
「…………」
 一瞥をくれはしたものの、無言で守矢は男に背を向けた。
「クク……」
 夜気を振るわせる歪んだ笑いに、立ち去りかけた守矢の足が止まった。ほんの一呼吸の間――それは確かな躊躇いの間――の後、肩越しに守矢は振り返る。
 男は倒れたままだった。
 倒れたまま、男は嗤っていた。
「十六夜……闇に憑かれし歪み月……」
 守矢が自分を見ているのに気づいているのかいないのかは定かではない。だが男は嗤いながら言葉を紡ぐ。人ならざる赤い目が、月明かりの中で妖しい輝きを宿している。
「『私』に実に相応しい……ククク……十六夜は……決して満ち月には戻れぬ、陰に呑まれるだけの死を負った月……いずれ月は……『私』は死の闇に呑まれるが、さだめ――」
 ふつり、と男の声が途切れる。
 さわり、と風が吹いた。
 いつの間にか形を取り戻していた水月が、ゆらん、と大きく揺れる。
「…………?」
 怪訝さに守矢の眉が寄る。
 しかしどれだけ見つめても、男の姿はどこにもなかった。血だまりすら、残っていない。ただ大気に濃い血の臭いと、守矢の手に人を斬った確かな感触だけを残し、男は消え失せていた。
 僅かに守矢の眼が細くなる。だが表情の変化はそれだけだった。前を向き、守矢は歩を踏み出す。一歩、二歩進み――足が止まる。
 右手が、左肩を押さえる。何かを堪えるように抑えつけるように強く握りしめる。
「私は」
 低く掠れた声がこぼれ落ちる。
「私は死なぬ……死ねぬ。そのような資格、とうに失った」
 右手の下の左肩の傷。既に癒えたはずの傷が鈍い痛みを放つ。
「……っ」
 一際強く、守矢の右手に力がこもった。その目が固く閉ざされる。
 さわさわと風が吹く。十六夜の月の下、水面の月を、守矢の黒い外套を揺らし、血臭を吹き散らし、風がゆく。
 守矢は目を開いた。
 その足が前へと進む。左肩を押さえたまま、守矢は行く。闇に憑かれた月の下、揺らめく水月を後にし、ひとり。
 ひとり。