「僕は、兄さんを止めてはいけなかったのかもしれません」
辛そうに目を伏せ、楓は言った。
天野漂は無言で盃を傾け、少年が話すに任せる。
「僕は兄さんに生きて欲しかった。
僕達の仇は四神の一人、朱雀です。いくら強くても、普通の人間の兄さんでは朱雀には勝てない。僕はそう思ったんです。それに……四神を止めるのは、同じ四神である僕の役目……お師さんの代わりに僕がって……
だから僕は兄さんを止めました。剣を交えて、力ずくで兄さんを止めました。言葉では……止められなかったから……」
自分の無力さへの悔しさに、楓の膝の上に置かれた両拳が強く握られた。
「僕は、これで兄さんが死ぬことはないと安心しました。
あとは朱雀を……嘉神慎之介を倒せば、すべて終わる。僕たちはまた兄弟三人で暮らせる、そう、思ったんです。
でも兄さんはいなくなってしまいました。
たった独りで、どこかへ行ってしまったんです!」
「それで、今も兄さんを捜してるってわけか」
「はい……」
辛そうに楓は俯き、震える声で答えた。
「なあ坊や、お前さん、何で止めちゃいけなかったって思うんだい?」
「……見てしまったんです」
「ん?」
「あの一瞬、僕が兄さんに勝ったあの一瞬、兄さんは絶望していた。何もかもを失った、そんな顔をしていたんです」
感情がごっそりと抜け落ちた、虚ろな、顔。
今にも消えてしまいそうに儚い、顔。
御名方守矢が目を覚ましてから三日、漂が見た守矢の表情はそういったものばかりだった。
――何もかもを失った、か。
弟に敗れたことが、それほどに守矢を打ちのめしたのか。
――ただ負けたからとは思えねぇんだがな……
日に日に生気を失っていく守矢の端正な横顔を思い出しながら、漂は渋川の家の戸をくぐった。
「よう、藪医者。あの兄ちゃんはどうしてる?」
雨の日に倒れていた守矢を担ぎ込んでから五日、日課のように漂は医師である渋川の元を訪れている。
「今は眠っておるよ。
今日も何も変わらん。食事も薬も、与えれば取る。だが、いっこうに回復せん」
「役に立たねぇな」
軽口を叩きながら、土産代わりに持参した酒を渋川に渡す。
「あの若いのには生きる気力がない。そんな者を癒せる医者はおらん」
不機嫌そうに渋川は茶碗に酒を注ぐと、一息に煽った。医師として、守矢をどうしてやることもできないのが腹立たしいのだろう。口が悪く、小ずるいところのある老人だが、医師としての誇りと腕の高さは漂も認めるところである。
「幸いなのは、死ぬ気力すらないことじゃろう……
命を繋いでおるうちに、何か見いだせるやもしれん」
ふう、と酒臭い息をついて渋川はぼやいた。
どうして、と叫ぶ声がする。
どうして、と二対の目が問いつめる。
どうして、どうして、どうして、どうして。
どうして、お師さんを殺したの!?
どうして、と叫びたかった。
どうして信じてくれない。師匠を斬ったのは私ではない。どうして私だと思うのだ!?
どうして、どうして、どうして、どうして。
叫ぶことはできなかった。
悲痛な顔で自分を見る二人の目が、言葉を奪った。
「どうして」に答える言葉は自分にはない。
それでいて、「違う」と叫ぶことができない。
何度か口を開きかけても、言葉が声にならない。
それは、師を守れなかった罪悪感の所為。
仇を取り逃した自分を許すことができなかった所為。
信じてもらえないかもしれないことを恐れた所為。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
左肩に、焼け付くような痛みが走った。
「どうして……ねぇ兄さん、どうして……」
泣き出しそうな顔で、楓が私を見上げる。
その手には、師の愛刀、疾風丸がある。義弟はそれを、私の肩に振り下ろした。
錯乱しているのだと、私の中で声がする。
事切れた師の姿に、何も答えぬ私に、まだ年若い義弟の魂は耐えられなくなったのだ。
「兄……さん……」
楓の体が震え出す。刃を私の血が伝い、小さな弟の手を濡らす。
私は妹を見た。
青い目を大きく見開き、目の前の現実を否定するように首を振る。
私は、知った。
私は罪人なのだと。
師を守れなかったからではない。仇を逃したからでもない。
私が守るべき者達の魂を傷つけ、救う術を持たぬことが、私の罪。
その証が、この痛み。
「答えることは、何もない」
楓の体を、突き飛ばす。
「おい、起きろ、起きろ!」
漂は、意識を眠りの中に置きながらも、狂ったように叫び続ける守矢の体を揺さぶった。
「おいこら、うるさいだろ、御名方守矢!」
だが守矢は目を覚まさない。悪夢を見ているのか苦しげに表情を歪め、叫び続けている。
ならばと漂は守矢の襟元を引っつかんで体を引き起こし、叫ぶ声に負けないように怒鳴りつける。
「起きやがれ!」
ぱたりと、叫び声が止まった。
御名方守矢は目を見開き、漂を見る。
一瞬、怯えて親にすがりつく子供のような表情を、漂は守矢の見開かれた目の中に見たように思った。
次の瞬間には、いつもと同じ虚ろで何処か寂しげな色のみが、そこにあったのだが。
「……離せ」
叫びつづけて掠れた声が形よい唇から洩れ、襟元を掴んだままの漂の手を掴む。
細い手だと、漂は思った。
憔悴し、肉の落ちた細い手は、それでも剣士のそれだった。痛みを覚えるほど強く漂の手を掴んだ守矢の手は堅く、剣を振るうことに慣れた手であることが伝わってくる。
何故かそのことが、漂には哀れに思えた。
すぐさま己を嘲笑う。
――人を哀れむほど、俺は、えらいか。
「おう」
低く唸るように頷くと、漂は手を離した。守矢の体はそのまま布団にどさりと落ちる。
守矢は何も言わず、漂の手を掴んでいた手で目元を覆った。
泣いているのかと、漂は思った。
だが守矢はぴくりとも動かず、吐息すら洩らさない。
暫く黙っていたが、沈黙に耐えられずに漂は口を開いた。
「……起きてるかい?」
「なんだ」
目を手で塞いだまま、乾いた声が戻る。
「楓の坊やに、会ったぜ。
坊や、お前さんを捜していたぜ。雪ちゃんも、お前さんを捜してるってさ」
僅かに息を呑む音が、聞こえた。信じられないことを聞いた、とその音が物語る。
「……話したのか」
「いんや」
「何故」
幽かな感情が乾いた声に混じったのを漂は聞いた。
それは安堵と、僅かな失望。
ふっと、漂は息を吐くと立ち上がった。
部屋に飛び込んだときに開け放した障子の方に顔を向けると、短く口笛を吹く。
きゃん、と声を上げて白い小犬が縁に足をかけて顔を覗かせた。
「お前さん、俺が嫌いだろう」
こいこい、と手で子犬を呼んで、漂は言った。
「……?」
怪訝な顔で、守矢は漂を見た。
白い小犬が、漂の膝の上に飛び乗る。
守矢に顔を向け、きゃん、と嬉しげに声を上げる。
「嫌いだよな?」
にか、と笑みを浮かべ、念を押すように漂が言った。
「…………」
確かに、この男は好きではない。
以前、師の仇である嘉神の行方を追い求めていた頃に、この男と出会ったことがある。軽薄でだらしのない天野漂に、守矢は言いようのない嫌悪感を抱いたものだ。
だが今、守矢は答えることができなかった。
守矢には辛辣な一面がある。例え身内であっても、容赦のない言葉を向けることがある。「そうだ」の一言を漂に返すことぐらい、何でもないことのはずだった。
だが今、守矢は答えることができなかった。
ふう、と漂が息をつく。
「お前さんは、俺のことが嫌いなんだよ」
また、繰り返す。まるで守矢に言い聞かせるように。
「……そうでなければならないと、言いたいのか」
「まあ、そうだな」
膝の上の小犬の頭を撫でながら、漂は頷いた。
「そうでないと、俺が言わなかった理由がなくなっちまうんでね」
漂の言葉に、守矢が不審そうな顔をする。
「自分を嫌ってる奴を好きになれるほど、俺はイイ人間じゃないんでね。そいつのためになることなんてするかよ」
「ならば何故、私を拾った」
体を起こし、守矢は正面から漂を見据える。
「何故放っておかなかった。何故拾った。何故毎日ここに来る」
「そりゃあ」
睨むように自分を見つめる守矢に、漂は抱いていた小犬を無造作に、投げ渡した。
「お前さんはこいつの恩人だからな」
漂の言葉に、反射的に受け止めた小犬を守矢は見つめた。
冷たい雨の中で一人で震えていた、小さな白い小犬。同じように雨に濡れた守矢を見つけるや否、駆け寄ってきた。
黒い目で守矢を見つめ、尻尾を振った。
寒さに震えながら、小さく鳴いた。
小さな命の声も、眼差しも、守矢を信じ切っていた。初めて出会うこの人間が、自分を助けてくれると信じ切っていた。
守矢は、それから逃げることができなかった。
――何故?
あの時も、漂に拾われた後も、何度も守矢は自問を繰り返した。
何度問うても、答えが見つからなかったのだけれども。
理由がわからないままに守矢は小犬を抱き上げ、自分が更に濡れるにも関わらず、懐の中に治めた。
小犬はぐっしょりと濡れていたけれども、そのぬくもりは確かなものだった。
小犬は今も、あの時と同じ目で守矢を見つめている。
守矢が恩人だと覚えているのか、ちぎれんばかりに尻尾を振り、喜びを露わにしている。
「別に俺の犬ってわけじゃねぇんだけどな」
じっと小犬を見つめている守矢を見やりながら、漂は呟いた。
「世話って程世話もしてねぇし。
それでも、なぁ……」
――あの目は、ずりぃよな。
守矢を一心に見つめている小犬に、一人苦笑する。
あんな目をする小犬が、雨の日にいなくなったら気になってしかたがない。馴染みの女に口うるさく問われたのもあって、漂は雨の中、小犬を探しに出たのだった。
そして、小犬を抱いて倒れていた守矢を見つけた。
気を失いながらも、小犬が濡れないように外套の下に抱いていた。
その姿を見た時、漂は放っていくことができなくなった。
細い、細い糸一本で、気を失った男が何かに男自身を繋ぎ止めようとしている、そう、直感的に悟ったから。
そんな男を見捨てることは、漂にはできなかった。
――助けたわけじゃねぇけどな……
守矢が「拾った」と言ったのは正しいのだ。守矢を助けようなどと、漂は欠片も思っていない。放っておけないから連れて帰った、ただそれだけだ。
守矢が抱く小犬を拾った時と、同じように。
御名方守矢はやはり、気づいている。認識はしていないが、気づいている。
漂がかつてした選択を。
そしてその選択を、無意識に守矢も選ぼうとしている。
――助ける気はねぇが……こいつは、みすごせねぇよ、な。
道化は一人でいい。
同じ阿呆を見るのは、気分も悪い。
もっとも、どうすればいいかは漂も考えあぐねていたところだった。
渋川の言う通り、「生きながらえていれば、何かを見いだせるかもしれない」、それに賭けざるをえなかった。
――分は悪かったが、勝ち目が出てきたかね。
小犬を見つめたままの守矢に、ちらりと思う。誰の勝ち目だと、自分でつっこみながら立ち上がる。
「天野」
立ち上がった漂の背に、低い声がかけられた。
「あん?」
首だけ振り返り、応える。
やはり小犬を見つめたまま、守矢は問うた。
「楓と雪は、本当に私を捜しているのか」
「ああ。心からお前さんを心配していたぜ」
「……何故」
「さあな」
投げるように言葉を返すと、漂は部屋を出た。
それから数日経った、ある日。
「あの若者、出て行きよった」
いつものように家を訪れた漂に、溜息をつきながら渋川は言った。
その日の朝、守矢の様子を見に行ってみたところ、もういなくなっていたという。床はきちんと畳まれ、書状が一通残されていた。
書状には渋川への礼の言葉だけが書かれていたという。
「そうかい」
ニヤリと、漂は笑った。
「なんじゃ、えらく嬉しそうじゃな」
意外そうな顔で渋川は首を捻った。
「嬉しそうじゃ悪いかい?」
「随分入れ込んでおったからの。少しは寂しがるか怒るかと思うておったが」
「よせよ。男に興味はないぜ」
「そうかい」
ふん、と渋川は鼻を鳴らした。
「寂しいのは、こいつだろうさ」
漂は足下の小犬を抱き上げた。
守矢がいないことを気配で感じたのか、小犬は寂しげな、少し潤んだ目で漂を見た。