朝の、真新しい光が地に差し始める時間。
 色街がもっとも静かになる時間だ。
 ひとときの現の夢の狭間の、静かなる眠りの時。夢も見ずに夢を売る女達が眠る僅かな時。
 その静寂の中、はらはらと花は散っていた。
 鮮やかな、しかしどこか物悲しい色の花は決して絶えることなく、散り続ける。
 女達の夢を紡ぐが如く、はらはらと、音もなく散り続ける花の下に、嘉神慎之介―世界を守る四神が一人の朱雀―は佇んでいた。

 京の色街、島原の真ん中には、桜の巨木がある。
 「万年桜」と呼ばれ、一年中花を絶やすことなく、散り続けるその木がいつからあったかを知る者はない。
 ある者は島原ができた時からあったと言い、ある者はほんの十数年昔からだという。
 そしてある者は言う。
「そこにきれいな花がある、それ以上問うのは野暮だろう?」
 屈託のない笑みを嘉神に向け、酒の入った盃を突きつける。
「きれいな花にはいい酒が付き物だ」
 その不敵な顔は、一年前と何も変わらない。

 一年前、「万年桜」が花を絶やしたことがあった。
 新たな花をつけることなく、それでも涙のように花を散らし続ける桜の木の下で、嘉神はその男と対峙した。

 男は左腕を懐のままに、ぶん、と右手の木刀を振った。
「真打ち登場、ってな」
 倒れ伏した青年―まだ目醒めきっていない青龍を庇うように、からん、と下駄を鳴らして前に出る。
「下種が。
 死にたいのか」
 焔に包まれた剣を片手に、嘉神はその不遜な男を睨み据える。
「いんや、全然」
 散る花吹雪の中、同じ色の衣の男は、不敵に笑う。
「俺は、お前さんをぶちのめすつもりだぜ」
「巫山戯たことを」
「試してみるかい?」

 男は自分の言葉を完全には果たせなかった。腕が立ってもただの人間が、四神たる嘉神をそう簡単に倒せるはずもない。
 だが、十分以上に役割は果たした。男は満身創痍になりながらも未熟だった青龍を守りきり、嘉神を退けたのだ。
 あの時、あの男が青龍を守ったからこそ、後に目覚めた青龍は嘉神を倒し、地獄門を閉ざすことができたのだ。

 嘉神は男から盃を受け取った。
 口元に運び、一息にあおる。酒など久しく口にしていなかった所為か、清冽な液体が喉から腹へと流れ落ちた後が熱く感じられる。
「イイ飲みっぷりだ」
 杯を返すと、男はそれにまた酒を注ぎ、今度は自分で干した。
「ふぅ……」
 盃を空にして、男は満足そうに酒臭い息を吐く。
「い〜い花だ。これぞ万年桜だ。
 コイツのために命を懸ける馬鹿が出て来ても、おかしくないだろう?」
 散り続ける花を見上げ、男は笑う。
 嘉神は無言で、花を見上げた。
 天の理からも地の理からもら外れ、尽きぬ花を咲かせ、尽きぬ花を散らせる、桜の巨木。
 愚かしい存在だと、嘉神は思う。
 天地の理に従わぬものなど、在ってはならない。滅びるのならば、その方がいいと。
 それでも、そう思いながらも、嘉神の目に散る花は美しく映った。枝に揺れる花は、美しく映った。
 あの時の、死に逝く桜とは比べものにもならぬほどに。
「………………」
 無言のままの嘉神をちらりと見やって、男はまた盃を傾けた。

「……で、お前さん」
 空になった杯を手の中でひねくり回し、男は桜を見上げる。
「ここに、何用だい?」
「…………」
 嘉神は、答えなかった。
 何の用かと問われても、まともに答える言葉など無いのだ。強いて言うなら、この桜を見に来たことになるかもしれない。
 嘉神に立ち向かった者達の中でただ一人、よく言えば酔狂、悪く言えば戯言に命を懸けた男が守ろうとしたものを、見たかったのかもしれない。
 己の信念の結晶の崩壊と共に捨てたはずの嘉神の命は「何か」に拾われた。しかし嘉神は次なる道を見いだせず、無為に時を過ごしている。
 だから、己がかつて愚かと言い放ったものを、見たくなったのかもしれない。
 自問を繰り返しても、そうだという確信は得られないのだが。
「ま、なんだっていいけどよ」
 少し困った風に苦笑して、男は嘉神に徳利と盃を差し出した。
「ちょいと、持っててくれや。飲んでもいいからよ」
「…………」
「何、ちょっとした用を片づける間さ。
 すぐ終わるからよ」
 な、と笑ってみせる。
 だがその笑い顔に、さっきまではなかった陰鬱な何かを嘉神は見た。

 からん、からん、と男は下駄を自分の後ろへ脱ぎ飛ばした。
 裸の足で、地に積もった花びらを踏む。
 そういえば、と嘉神は思った。
 この花びらは朽ちるのだろうか。地に積もり、朽ちて己の故郷の糧となるのだろうか。
 それとも日ごとに掃除され、いずこかへ捨てられてしまうのだろうか。
「消えちまうのさ。
 雪みたいに……いや、女の夢のようにな」
 嘉神の心中の呟きを聞きつけたように、男が呟く。
「いいこともいやなこともみんな抱えて消えちまうんだ。
 消えられねぇ、人の代わりに」
 手にした木刀を右腰に差す。
「まだ……やるのかい?」
 男の声から、軽い響きが、失せた。
 陰鬱で疲れきった、老人のような声が舞い散る花の中に響く。
「終わるものか。どの口でまだなどと言うのかっ!」
 若い、怒りを含んだ声が花を震わす。
「貴様が死ぬまで、何も終わらん!」
 桜の舞い散る中から、一人の若い侍が姿を現した。
 腰に二刀を手挟み、雪のように真白い上下に同じ色の襷をきりりと縛り、頭にも白い鉢巻きを巻いている。
「……奴ぁ、死んだよ。なぜそれで通せねぇ」
「死んではおらぬっ! 貴様はそこにいるではないか!」
 叫ぶ若い侍の怒りの声の裏に、悲痛な叫びを嘉神は聞いた。そして気づく。激しい怒りを男に叩きつけながらも、この若い侍に憎しみはないことに。
 そのことに確かに気づいているだろうに、男はゆっくりと首を振った。
「俺は漂。天野漂。ただの遊び人だ。
 お前さんなんか、知らねぇよ」
 へらり、と笑う気配。
「わかったら、怪我しないうちにとっととけぇんな」
 『天野漂』と名乗った男は左足を一歩踏み出し、ぐっ、と膝を曲げて身を低くする。
 ひる、と風が唸る。地に落ちた花びらが舞い上がり天野の濃い桜色の着物の裾や袖を翻す。
「名前などどうでも良い! 貴様を斬るが我が役目!」
 叫び、若い侍は刀を抜いた。

「名前にさえも縛られねぇってのも……厄介だなぁ……」

 ぽつん、と天野は言うと、滑るように一歩足を踏み出した。
 刀を振り上げる侍の左脇を、駆ける。
 駆け抜けざまに──抜刀。
 一分の乱れもなく銀が閃き、侍の胴を、薙ぐ。
 だが。
──浅い。
 天野の腕の所為ではない。刃の切れ味が悪い。
 おそらくは本人は何があったかもわかっていないだろう、かくりと侍の足が崩れかけるが、まだ倒れない。振り向くと天野の背に刀を振り下ろす。

 どん、と鈍い音が響いた。

 背を向けたまま、天野は斬りかかって来た侍の心の臓を、刃で貫いた。
 無造作に。怯みも躊躇いも見せず。

 天野は、ゆっくりと刃を引いた。
 その動きに合わせて、若い侍の目は閉じられ、体はくずおれていく。花びらの上に倒れる時に幽かに声がしたようだったが、意味成す音にはならぬまま、侍は事切れた。
 天野は刃を一振りすると、視線を侍に向けることなく、口を開いた。
「……さっさと、連れて行きな」
 その声に、どこに隠れていたのか一人の侍が姿を現した。年のころは若い侍よりは上、天野とほぼ同じくらいに見える。
 侍は死した侍の体を担ぎ上げると、静かな怒りに満ちた目で天野を睨みつけた。
 若い侍を斬られた所為ではない。もちろんそれも含まれているだろうが、それより深く、重い怒りをそこに嘉神は見た。
「……もう、やめようや。遊び人相手に、無駄に命を散らすなんてばかばかしいだろう?
 お前さんらの命のかけ……」
「黙れ」
 疲れた口調の天野の言葉を短く遮ると、侍は言った。
「自らを遊び人とあくまでもほざくならば口を挟むな。
 貴様が死ぬまで、事は終わらん」
「ああ、そうかいっ」
 投げやりに、天野は侍に向かって言葉を吐き捨てる。
「今度来るときは、手前ぇが自分で来い。これ以上無駄なことは、願い下げだ」
「……考えておこう」
 冷ややかに言うと、侍は死んだ若い侍を担いで花吹雪の中を去って行った。
 足音が遠ざかると、天野は左手に握ったままの刃に目をやった。
 長い間手入れされていないらしく、刃に曇りが見える。それでも血の一滴も残っていない辺り、本来はかなりの業物なのだろう。
 天野は手拭いで刃を拭くと、鞘に収める。
「手入れしねぇといけねぇな……悪ぃことしちまった」
 嘉神に顔を向け、取り繕うように天野は、口の端を歪めた。
 それが笑い顔に見える者も、あるかもしれない。

 嘉神は、天野の歪んだ顔を奇妙な思いで見ていた。
 道化の顔の下に、この男が隠していた顔。
 一年前、どれほどの傷を負っても、とらえどころのない不敵な表情を崩さなかった男の、歪み。
「……何故だ」
「あん? なにがだ?」
 下駄を拾って履き直し、漂は首を捻った。左手は懐に収まり、木刀は右手に握られている。
「それだけの腕があるのならば、あの時とて……」
 この男が左手で剣を振るったとしても、朱雀たる自分を倒せたとは思わない。だが、嘉神はもっと苦戦したであろうし、この男もあれほどの怪我は負わなかったはず。
 それがわからぬほど、この男は愚かではない。万年桜の下で、嘉神はそれを知った。
 天野漂は命懸けで道化の道を歩んでいる。過去を切り捨て、それでも己を捕らえようとする過去を抱えて、この男は道化でいる。
 余裕ではない、自信過剰でもない、人を嘲ることもない、真剣に道化でいる。

「まともに構えなきゃ本気じゃないってか?
 それぐらいで本気と信じられるとはおめでたいねぇ」

 不意に、一年前の天野の言葉を嘉神は思い出した。
「本気、か……」
「あん?」
 首を捻りつつも、からんころんと下駄を鳴らして、天野は嘉神に歩み寄る。
 朝の風が駆け抜け、枝から花を散らして舞わせ、地から花びらを掬い上げて舞わせる。
 天野が男を斬った痕は、もうどこにもない。
 にへら、と天野は屈託無い笑みを浮かべると手を差し出した。
「返してくんな」
「……」
 憮然としながらも、嘉神は徳利と盃を天野に返した。
 受け取るやいな、天野は徳利に直に口付け、ぐいぐいと酒をあおる。
 大きく酒臭い息を吐き、口元を手の甲でぬぐった。
「やっぱコイツがキクねぇ」
 見事な居合を見せた男も、もうどこにもいないようだ。
 ここにいるのは遊び人の天野漂だ。

「さぁて、俺はもう行くぜ。
 用もできたことだしな」
 腰に徳利をつるし、ぽんぽんと肩を鞘に収めた刀で叩きながら、天野は言った。
「刀か」
「ああ、使わねぇからって放っておくのは、よくねぇな。
 捨てるわけにはいかない以上、やることはやっとかねぇと、な」
 弾指の間、天野の目を先ほどの影が掠めたが、すぐに不敵な笑みがそれを払拭する。
「捨てるわけにはいかない……か……」
 嘉神の目が、すっと細くなる。
「面倒なことだけどよ。
 お前さんはどうする。もう少しこいつを見ていくかい?」
 天野は嘉神の表情の変化を見ないふりをして、万年桜を見上げた。
 嘉神もまた、桜の古木を見上げる。
 ほろほろと、はらはらと桜は散っていく。
 優しく、静かに。
 何も言わず、静かに。静かに。
 花は何も言わない。
 語るのは人のみだ。
 思いを、寄せるのも。
「そうだな……今暫く……」
「その内、夜桜を見に来いよ。
 夜の万年桜もいいぜぇ。月や町の灯りに花の色がよく映える。
 ちいと周りは賑やかだがね」
 特にお前さんなら、賑やかなことこの上ない。ニヤニヤと笑ってそう続ける。
「……どういうことだ」
「あと半刻もここにいればわかるさ、色男」
 怪訝な顔を浮かべる嘉神に、片目をつぶって天野は答えた。
「んじゃ、な」
 刀を帯に突っ込んで、ひらひらと開いた右手を振ると、下駄の音も高らかに天野は歩き出す。
 その背を、嘉神は見送る。
 ふいと、天野は足を止めた。
 ひょいと振り返り、口を開く。
「お前さん、顔、変わったよ。
 前よりもいい顔だ。
 その内ゆっくりと飲みたいねぇ」
「……」
「気が向いたら、ここへ来いよ」
 無言の嘉神を気にすることなく、にっと笑顔を投げると、またからんころんと下駄を鳴らしながら、天野は歩み去った。
 その背が町並みに見えなくなるまで、下駄を鳴らす音が完全に聞こえなくなるまで嘉神は動かなかった。
 動かない嘉神の肩や頭に桜の花びらがいくつもいくつも舞い降りる。
 何も言わず、静かに。
 無数に舞い散りながらも、決して嘉神を飲み込むことはなく。
 嘉神はゆっくりと顔を上げていく。
 花の遙か向こうの晴れた蒼い空に、嘉神は己の野望の残滓を見る。
 ただ人には見えぬ、開いたままの虚ろな空洞を。
 その耳に、目覚め始めた町のざわめきが届く。
 あえかな夢から目覚めた女達の、それでもしたたかな命の声、その周りに集う男達の猥雑な、それでもたくましい命の声が聞こえる。
 僅かに、嘉神の口元が歪んだ。
 ひるりと外套を翻し、嘉神は万年桜に背を向けた。
 ふわりと花びらが新たに散る。枝から、嘉神の肩や頭から。
「それも、良かろう」
 低く呟くと、嘉神はゆっくりと、色街を去った。
 万年桜は何も言わず、ただ静かに、花を散らせていた。