彼女だけのときめき
『MUGEN界』で開かれる大会は規模やルールの内容など実に様々だ。それに伴って使われる会場も様々であり、設備も会場ごとに異なってくる。食堂やトレーニングルームまで併設されている会場があれば、売店しかない、それどころか自動販売機しかない会場もあるし、試合で負傷した選手の治療の場もちょっとした病院クラスから学校の保健室レベルしかないところもある。選手控え室も大部屋しかない会場があれば個室完備の会場もある。当然、個室のレベルも会場ごとに違う。
今回開催されたタッグ大会は小規模なもので、会場も小さなものだった。控え室も個室ではなく選手全員が使う大部屋だ。
適当に休息が取れるように部屋のあちこちにテーブルと椅子が置かれ、水分や栄養の補給、または単純な空腹解消のために大会主催者から提供された飲み物や軽食が壁際の長机の上にバイキング形式で並べられている。反対側の壁には参加選手の荷物を収めておけるようにロッカーも用意されていた。もちろん、試合を観戦できるモニタも別の壁に据え付けられている。
試合のない選手は会場内限定で基本自由行動だが、多くの選手がここで過ごすことを選んでいるようであった。大部屋で他の選手といっしょに過ごさなければならないとはいえ、それさえ苦にならなければこの部屋の環境は悪くはない。空調設備も確かなもので、大部屋形式の控え室としては中の上には入るだろう。
一試合終えた嘉神慎之介はパートナーであるレンと共に控え室に入った。小さな大会であるせいか、参加選手には顔見知りも多い。大部屋でもさほど気を使わずにすむという考えからだ。昼時のせいか控え室にはかなりの数の選手が食事をとっている。
「ちょっとそれ、わたしのなんだけど!」
不意に、鋭い少女の声が控え室に響き渡った。
選手達それぞれの会話が途切れ、声の主の元に視線が向く。
向けられた視線の集中点にいるのは、白い少女だった。白銀の髪、白い肌、白いリボン、白い服。その眼だけが血潮の赤を宿している少女もまた、レンである。「白レン」とも呼ばれる彼女は、嘉神と共にいるレンから分かれた存在であった。
白レンも今回の大会に参加していたのである。そして注目されていることに気づかない白レンが睨み付けている相手――
「うるせーな、ちょっと間違えただけだろうが」
めんどくさそうに答えた白い髪で浅黒い肌の青年、K´が彼女のパートナーだ。
K´は手にしていたものをテーブルの皿へと戻す。ベーグルサンドのようだ。一口かじり取られている。
「これぐらいできゃんきゃん騒ぐな」
「これぐらいって、これ最後の一個だったのよ。それを食べといてその言い草!?」
「一口かじっただけだ。こんな肉の入ってねえやつ全部食うか」
ちなみにこのベーグルサンドの具はアボカドとレタスとドライトマトとモッツァレラチーズである。そのベーグルサンドの隣の皿には、ローストビーフをたっぷり挟んだベーグルサンドが乗った皿があった。こちらがK´のもののようだ。
「そういう問題じゃないでしょ!」
足を踏み鳴らして白レンは猛然と抗議を続ける。
「チッ」
周囲に目をやり、自分達に向けられた苦笑混じりの――この二人のこういったやりとりは珍しいものではない――視線を確認し、K´は舌打ちした。
「うざってぇ」と低く呟くと同時にK´はぬっと手をのばしてベーグルサンドを取る。
「何よ、また」
「取る気!?」と白レンは言うはずだったのだろう。だが開いた小さな唇から声が発せられるよりも、小さな手がベーグルサンド奪還に伸ばされるよりも早く、K´は白レンの口にベーグルサンドを突っ込んだ。
「もがっ」だか「ふがっ」だか、声とも息がいささか品悪く洩れたともつかない音と共に白レンは沈黙を余儀なくされる。容赦なく突っ込まれたベーグルサンドから開放されるためにはとりあえず食べるしかない。頬をリスのように膨らませもぐもぐと白レンが咀嚼している間に、さっさとK´はバイキングコーナーに向かってしまった。おそらくは白レンから逃げるついでに料理の補充に行ったのだろう。
「……あのバカ……」
ようやく口の中のベーグルサンドを飲み込んだ白レンは離れたK´の黒い背を睨み付けて呟いた
「勝手に人の物に手を出した上に、食べかけのものをレディの口の中に突っ込む……なん、て……」
白レンの赤い目が、右手に持ったままのベーグルサンドの残りを見る。左手は、確かめるように自分の小さな、花片のような唇に触れる。
「なに……、するのよ……あのばか……」
言葉こそ罵倒のそれだが、白レンの声には力なく、頬が朱を帯び始めている。これでは言葉は言葉通りの役割を果たさない。つまり単なる照れ隠しにしか見えない。
しかし白レンは他者から今の自分がどう見えているかなど意識している余裕はない。幸いにも、K´がベーグルサンドを白レンの口に突っ込んだ時点で「いつも通りの流れでもう収まるだろう」と判断したほとんどは既に彼女を見ていなかったのだが。
「……ばか」
赤い顔で呟き、おずおずと白レンはベーグルサンドの残りに口をつけた。ゆっくりと噛み切り、ゆっくりと咀嚼する。
美味しそうに、しかし少しだけ照れの色をその赤い眼に浮かべて。
「レン、どうした」
嘉神が声をかけると、レンはくるりと振り返った。なんでもない、とふるふると首を振って見せる。
「そうか」
頷いて嘉神はバイキングコーナーへと足を向けた。歩きながらもレンの様子が気になっている。
嘉神が声をかけるまでレンは白レンとK´が騒ぐ様をじっと見ていた。あの二人が騒ぐのはいつものことだ。もう一人の自分のことだから気にはなるだろうが、普段はそこまでいちいちレンは白レンを気にしてない。だというのに今日はどうしたのだろうと嘉神は思う。
とりたてて今日のあの二人がいつもと違っているとは嘉神には見えなかったのだが。
まあレンの気まぐれはいつものことだと思考を切り換え、嘉神はバイキングコーナーに並んだ食べ物に視線を走らせた。
試合は昼からもあるから重いものは避けた方がいいだろうと判断し、サンドイッチを幾つかと飲み物を盆に取っていく。レンも自分の盆の上に好きな料理を取っている。昼食ということはきちんと理解しているようで、菓子の類はあまり取っていない。
レンも一通り料理を取ったことを確認し、嘉神は空いているテーブルへと向かった。盆を置いてレンに椅子を引いてやる。
「……レン?」
すぐに座らないレンに振り返ると、何故か少し小走りでレンが来る。何か取り忘れたものでもあったかと嘉神が思う内に、レンはテーブルに盆を置いて椅子にちょこんと座った。
レンが座ると嘉神も自分の椅子に腰を下ろし、サンドイッチを一つ手に取り口にする。ゆでた卵を潰してマヨネーズで和えたものと薄切りのキュウリが挟まれている。こういったところで出されるものにしてはいい味だ。数をうまく調整し、適宜入れ替えているのだろう、パンがぱさついたり逆に湿ったりもしていないのもいい。
一つ平らげたところで、嘉神はカップを取った。そちらは温かい紅茶だ。残念ながら作り置きで、味もそれ相応のものだがこういうところではそれも仕方がない。
カップを盆に戻し、サンドイッチに手を伸ばしかけた嘉神の手が、ふと止まる。
「レン、飲み物はいいのか」
自分が飲んでようやく気づいたのだが、レンの盆の上には飲み物の類がない。いつもならミルクか何か冷たい飲み物を取ってきているはずだ。
ツナポテトを挟んだホットサンドを食べていたレンも手を止める。もぐもぐと口の中のものを咀嚼して飲み込むと、少し困った顔をして見せた。それから、バイキングコーナーへと顔を向ける。視線を追って嘉神もそちらを――特に飲み物が置いてある辺りを見た。選手が妙に集まっており、何かちょっとしたトラブルがあったようだ。嘉神が紅茶を取るときには何事もなかったから、起きたのはその直後だったのだろう。
「飲み物を手に入れられなかったのか」
問えばレンは小さく頷きを返す。
さっきレンが少し遅れてテーブルに来たのもそのせいか、と嘉神は納得した。同時にそこにすぐ気づかなかった迂闊さと、自分が紅茶を取る時にレンの分も用意してやらなかったことを悔いる。だが悔いても今はどうにもならない。すぐに大会スタッフが対応はすると思われるのだが。
それまでどうするべきか――とりあえず嘉神は自分のカップを手に取り、レンに差し出してみた。パンは喉が渇きやすく、またレンが食べているホットサンドは味が濃いはずだ。何か飲み物があった方がいいだろう。
「これでよければ飲むか?」
まだカップには紅茶は半分以上残っている。
「…………」
レンは嘉神を見て、カップを見た。何故か視線が一度ふっと他へと逸れたがすぐにカップへと戻すとレンはこくと頷いて手を伸ばした。
小さな両手が嘉神からカップを受け取る。紅茶はまだレンには少し熱かったのだろう、両手で包みこむように持ったカップにふーっ、ふーっ、と息を優しく吹きかける。
「…………」
じ、とレンはカップを見つめた。その小さな唇が微かに弧を描いたようであったが嘉神がそれを確かなものと認識する前に、ゆっくりとレンはカップに口をつける。
そこまで見てから、早くスタッフが対応してくれればいいが、などと考えつつ嘉神は自分のサンドイッチに手を伸ばした。
故に、嘉神は気づかない。
カップに口をつけて紅茶を飲んでいるレンの夕日色の眼には少しだけ照れたような色があったことに。
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