白い少女と黒いジャケット

 その日の午後、白い服、白銀の髪のレンは居間のソファの背に引っかけられた黒い物体に気づいた。
――これって……
 慎重に、周囲の気配を探りながら、抜き足差し足でレンはソファに近づく。誰にも気づかれてはいけない。見られてもいけない。
――面倒はごめんだもの。誤解されたらたまらないわ。
 これはあくまでも見慣れないものを確認するための行為であり、決して期待を抱いての行動ではないのである。
 そーっと、そーっと、うんと手を伸ばして届くところまでたどり着くと、指先で黒い物体をつつく。いや生きているものではなく、爆発するような危険物でもないことぐらいはレンもわかっているのであるがつい警戒してしまうのである。
 警戒の対象は黒い物体そのものではなく、他者の存在。
 これをうかつに手に取ったところを見られようなものなら、マキシマとウィップは生ぬるい笑みを向けてくるだろうし、クーラは目をきらきらさせてあれやこれやと問うてくるだろう。
 しかし彼らの反応はまだ我慢できなくもない。たぶん。
 問題なのはこの、レンがゆっくりとつまみ上げた黒い物体の――レザーのジャケットの――持ち主だ。
 もし彼に、K´に今この現場を見られたらどうなるかなんてわかりきっている。K´のぶっきらぼうで不作法で無礼な一言にレンはカッとなり、淑女らしくない振る舞いをしてひどく後悔して自己嫌悪に真っ逆さまに落ちることになるのだ。
 だからレンは警戒して慎重に動いている。無様な真似をしたくないから。
「べ、別にK´に対してとかじゃなくて、誰の前であってもなんだからっ」
 レンの相手のない弁明は虚空に消える。誰も応えず、気配もない。
 それでも油断なく周囲を伺いながらレンは黒いレザージャケットを両手で持ち直した。軽く掲げるように広げてみる。
「もう、こんなところにほったらかしにするなんて」
 誰がいつ来てもいいようにわざとらしい言い訳を呟く。
――どこか傷んでるわけじゃないわね……あいつ、今日は別のを着ていったってことかしら?
 好んで、というより他の服装を考えるのが面倒らしいK´は黒のレザーの上下ばかり着るが、勿論持っているのが一着きりではないし、全く同じデザインのものばかりでもない。
 片付けや整理整頓とは縁遠いK´が脱いだモノをほったらかしにするのはいつものことだ。マキシマやウィップが小言を言うと渋々片付けはするが根本的な改善、つまり片付けの習慣化にはほど遠い。
「し……しようがないわね、わたしが畳んであげるわ」
 勝手に部屋に入ればK´は怒るだろうからそこまではできないが、きちんと畳んでおけばマキシマ達の小言は減るだろう。
「不出来なマスター(操り人形)のフォローをするのは優秀な使い魔(マスター)の役目だもの」
 ぶつぶつと呟きながら――しかしどこか楽しそうに――レンはテーブルの上にK´のジャケットを広げた。
「……大きいのね」
 小サイズとはいえテーブルのほぼ全面をジャケットは占めている。
「あいつ、姿勢が悪いからわかりづらいのよ」
 襟の辺りに指を滑らせる。さすがにマキシマよりは小さいが、このサイズならすっぽりとレンの体を包み込んでしまうだろう――
「……っ」
 このサイズなら。
 すっぽりと自分を包み込む――包み込まれる。
 頭に浮かんでしまったそのことに落ち着きなくレンは視線を彷徨わせる。振り返ってドアを見やる。
 幸いと言うべきか悪魔の悪戯が働いたと言うべきか、相変わらず誰の気配もない。
 再びレンはジャケットを手に取る。決して、断じて、畳むためではなかった。
「どれぐらい大きいのか、ちょっと、確認するだけなんだから」
――マスター(操り人形)のことを使い魔(マスター)はよく知ってなきゃいけないもの。
 これからすることはだから、やらなければいけないことであって本当は自分は乗り気ではない。そう思い込もうとしつつ、それが嘘であることはレン自身が誰よりもよくわかっていて――


 その日の夕暮れ、K´は居間のソファでまるまっている白い物体に気づいた。
――……こいつ。
 訂正。K´は居間のソファで丸まっている白くて黒い少女に気づいた。
 何をやっているのかという疑問と苛立ちに舌打ちを一つし、ソファに歩み寄る。
 ソファ背面から見下ろしてよく見ても、やはりそこで丸くなって――彼女の性である猫のように――眠っているのは、この家の居候であるレンだ。ただ、髪の色も肌の色も服の色も白づくめの少女は今、黒いレザージャケットを着ていた。
 レンの体には大きすぎるそのジャケットはK´のモノに間違いない。
――なに勝手に着てやがるんだ。
 苛立ちにK´が右手を拳に握り、レンの頭に――さすがに全力ではなく、軽く――落とそうとした、その時。
「……ん……」
 幽かな、吐息ともつかぬ声をあげてぞもぞとレンが身じろいだ。思わず動きを止めたK´には気づいた様子無く、レンの小さな手はジャケットの胸元をきゅ、と握り、
「……ふふ……」
薄く開いた、淡いピンクの唇から零れ落ちたのは笑い声。普段の、人を小馬鹿にする時やからかう時とは全く違う響き――幸せそうな響きをK´は確かにレンの声に感じ取った。
「……チッ」
 舌打ちは、気を削がれてしまった自分に対してで。行く先を失った拳は仕方なくポケットに突っ込まれた。踵を返し居間を出ていこうとし、しかしK´はもう一度、レンを見やっていた。
 すうすうと穏やかに、静かに――普段の煩さ、鬱陶しさは欠片もなく――眠るレンの口元には、先の笑い声に感じた響きと同じ色があるようで。
「…………」
 ふい、とレンからK´は視線を外した。舌打ちは、ない。
 レンを残し、K´は居間を出ていく。ドアが開かれ、そして、音を立てずに閉まった。
 

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