紅を飾った青
やわらかな月明かりの中、その紅はとても鮮やかで、とても綺麗だった。
あまりにも綺麗だったから、知らず、舞はそれ――紅い髪に触れていた。
「……なんだ」
問う声はとがめるわけでなく、ただ低く、静かに月明かり射し込む校舎に響く。
この声の主、紅い髪の剣士と夜の学校で舞が共に戦うのは今日で十日目。言葉にすると十日だがもっと長い夜を過ごしたようにも、逆に短かったようにも思う。
どうしてそんな風に思うのか、舞自身わからないのだけれども。
「うん……」
紅い髪に触れたまま、曖昧に舞は頷いた。触れた紅い髪の手触りはさらりとしていて心地よく――やはりとても鮮やかで、綺麗だった。
「結って、あげる」
零れた言葉に一番驚いていたのは舞自身。けれど、それには気づかない振りをして舞は自分の髪を結ぶリボンを解いた。
答えを待たずに金色の髪留めの上にリボンを一巻き、二巻き。蝶々結びにしようかどうか迷ったが、男の人だからとただ結うだけにとどめた。
「これでいい」
鮮やかな紅にリボンの青はよく映え、似合った。少なくともそう舞には思えた。
「……そうか」
言葉はそれだけだったけれど、舞は胸の奥にほっこりとあたたかいものが広がるのを覚え――思った。
これで大丈夫、と。
ばらっ、と小石か何かがばらまかれたような音がしたと思ったら、あっという間に滝のように激しい雨が降り始めた。
「いけない」
外を見やり、雪が慌てて腰を浮かす。
「洗濯物っ」
――濡れたら、大変。
急いで外へ出て行く雪を、舞も追う。今日は守矢も楓も慨世も出かけていていない。もうすぐ帰ってくるはずではあるのだが。
「ああ、舞さんごめんなさい、そっちお願いできる?」
舞が家の裏、洗濯物干場に着いたときには手早く雪は洗濯物を取り込み始めていた。屋根のある場所だが風があるせいで強い雨が振り込んできている。放っておけばせっかく乾いた洗濯物は全滅してしまうだろう。
「うん」
頷いて舞は手近なところから洗濯物を次々に取り込んでいく。しょっちゅう守矢達の暮らすこの家に遊びに来ては色々と手伝っているため、舞の着物を取り込む手つきもすっかり慣れたものだ。
二人がかりだったため洗濯物はあっという間に取り込まれた。少し濡れたものは室内に干し直し、無事に乾いていたものは畳んで片付ける。
「これ、しまってくる」
室内に干し直している雪に声をかけ、畳んだ洗濯物を抱えて舞は立ち上がった。
「ありがとう舞さん、お願いします」
「うん」
頷いて早足に舞は部屋を出た。もはやここは勝手知ったる他人の家、迷わずに最初は雪の部屋に入り、箪笥の引き出しを開けて着物を入れる。
次は、守矢の部屋。
箪笥の引き出しを開け、着物を入れる――
――……?
引き出しの隅にふと、舞は目を止めた。引き出しを閉めかけた手を止め、目を引いたものを取る。
丁寧に畳まれたしわ一つないそれは青い、布――いやこれは、リボンだ。
舞は、このリボンを知っている。
――これ、私……の?
見間違えるはずがない。
これは、夜の学校、月明かりの中、鮮やかで綺麗な紅の髪、守矢の髪に舞が結んだリボンだ。
――守矢、持っててくれた……
あの夜以降、守矢も舞もリボンのことには一言も触れなかった。守矢が髪にリボンをつけることなどなかったし、持っているところすら舞は見ていない。
舞にはそれで良かった。あの夜、鮮やかな紅に青いリボンを結んだ、それが舞には大切だったから。
それでもこうして守矢がリボンを取っておいてくれたことは、舞には嬉しい。
「ありがとう、守矢」
リボンを胸に抱いて、舞は小さく呟いて――
「……舞」
「!」
背後からかけられた声にびくっと身を震わせた。
振り返ってみればそこにはいつ部屋に入ってきたのか、紅い髪の剣士――御名方守矢がいる。
「守矢……?」
「どうした」
いつもと全く変わらない様子で守矢は言う。
「洗濯物、片付けてた」
「そうか。一枚、もらえるか」
「一枚……?」
「雨に降られた」
言われてみれば守矢の紅い髪はしっとりと湿っている。着物も濡れているのだと察して急いで舞は開けたままだった引き出しから新しい着物を取り出すと守矢に渡した。
「……む」
小さく、唸るような声を上げた守矢が見ているのは、舞が手にしたままだった青いリボン。
「あ、これ……」
「すまん」
「え?」
予想だにしていなかった詫びの言葉に、舞は驚きと戸惑いをない交ぜにして目を見開いた。
「どうして、謝るの?」
「返すつもりだったのだが……」
そう言った守矢は表情こそほとんど変わっていないが、声には珍しく困っている響きがある。
「いい」
「……?」
舞の言葉の意を図りかねたか、困惑の色が守矢の紅い目にも揺れた。
「守矢が持っていてくれた方が、私はいい」
青いリボンをもう一度、舞はやさしく胸に抱く。それから、そっと箪笥の引き出しへと戻した。
守矢に向き直った舞の顔には、やわらかな笑み。
守矢はしばし、無言で舞を見つめた後、
「そうか」
ただそれだけを言った。
守矢が着替えるからと舞は部屋を出て行った。
遠ざかる足音を聞くとはなしに聞きながら、守矢は袴の帯を解く。湿った――傘は持っていなかったが外套のおかげでそれほどひどくは濡れなかった――着物も脱ぎ、さっき舞が出してくれた着物に袖を通す。
「…………」
着替えながら、守矢はいつしか箪笥の方に目を向けていた。箪笥の上から二段目の引き出しに舞のリボンが収めてある。
『結って、あげる』
唐突な言葉であり、唐突な行為だった。
だが守矢はそれを拒めなかった。
あの時、守矢は思い出していたのだ。
妹のこと、そして弟のこと。
それから――「あの日」、師が殺された日のこと。
幼い二人が抱き、守矢にぶつけた驚きと、混乱と、疑念。怒りと慟哭。それらの奥にあった喪失への恐れ――「行かないで」「ずっと傍にいて」という想い。
それらが何故か、髪を結う舞に重なった。
だから守矢は拒まなかった――いや、拒めなかった、かもしれない。
叶えてやれない、叶えてやれなかった願いの、代わりのように。
――叶えてやれない……か。
あの時はそう思っていた。おそらく舞も意識していたかどうかはともかくそう思っていただろう。だからリボンを舞は守矢の髪に結び、守矢は舞の好きにさせた。
襟元を整え、帯を締めて引き出しを開け、守矢はリボンを取る。
リボンの青は深い色。まるであの月の夜を切り取ったかのような色。
どういう運命が働いたか、今こうして再び守矢と舞の道は重なっている。リボンはもう、役割を果たした。今ここにある、これは――
――叶った夢の、証。
守矢の口元がほんの僅か、幽かにほころんだ。らしくないことを考えた己への苦笑が混じってはいたが、浮かんだそれはどこか先の舞の笑みと似ている。
舞に返せなかった理由、言えなかった理由でもあったと今、自覚したから。
そして守矢はリボンを元通りに箪笥に、しまった。
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