その傷痕に思うもの〜触れる手と手〜
御名方守矢が、倒れた。
とある大会での試合が終わり、控え室に戻ったその時。
守矢に続いて部屋に入った川澄舞がドアを閉めようとしたその背後で、ガシャン、と音を立てて椅子をひっくり返しながら、守矢は倒れた。
「……守矢!?」
驚き、慌てて舞が駆け寄るも、守矢はぐったりと伏して動けないでいる。ただ熱く弱い息をつく守矢の顔は真っ赤になっていた。
――……!
とっさに舞は守矢の額に触れる。ひやりとした感触は守矢の鉢金。少し手をずらせば、
――……熱い……
かなり熱い。鉢金に先に触れたからだけではないこの熱さは、守矢の顔が赤くなるわけを雄弁に語っていた。
――……どう、しよう。
舞の鼓動は早くなる。息も苦しい。守矢が倒れた、この事態を前にどうすればいいのか何も思い浮かばない。
舞を襲う胸が締め付けられるような感覚と背筋を流れる冷たい汗。それが何故なのかだけがわかる。
――こわ、い……いや、守矢、いや……
倒れて動かない、苦しそうな守矢。その姿に舞の頭に浮かんでしまうのは「死」のイメージ。
守矢が死ぬ、そう思うだけで舞の体は震える。
「や……いや、守矢……」
いやいやと舞は首を振る。
守矢は動かない。
「守矢……もり、や……」
守矢の額に触れたまま、舞はただ、その名を呟くだけだ。
「…………」
苦しげに伏せられていた守矢の視線が、ゆっくりと上向く。熱に朧な眼差しがぎこちなく宙をさまよい、不安定ながらも舞の顔を見て止まる。
そのまま、微かに守矢は顎を引いた。
「もりや……?」
頷いたのだと、数瞬遅れて舞は気づいた。
自分を安心させるために苦しい中で守矢はそうしたのだと。
――……守矢。
一つ、深呼吸。
ぱちんと、両の頬を打つ。
――私が、しっかりしなきゃ。
勢いよく、舞は立った。
『今年の夏は暑いです。舞、熱中症には気をつけてくださいね』
落ち着きを取り戻したせいか、数日前に親友の倉田佐祐理に忠告されたことを舞は思い出した。
――熱中症。たぶん、そう。
守矢はいつも黒いコートを着ている。それを着ていて暑そうなそぶりは見せたことはないが、暑くないはずがない。今日も暑かったし、試合は屋外のコロシアムだった。守矢が熱中症になる条件はそろっている。
『もし熱中症になった人を見かけたら……』
どうすればいいかも佐祐理は教えてくれていた。
まず一番に、守矢の意識の確認。守矢の眼差しは虚ろだが、今も舞を見ている。声をかければ、反応もする。意識はある。生きている。それが舞を力づける。
――私が守矢を助ける。
それから内線電話で大会の医療班に連絡。最終的な処置は専門家が一番だ。それに守矢をいつまでも床に倒れさせておくわけにはいかないが、舞の力では守矢を運べない。
――次……
控え室備え付けの冷蔵庫から、よく冷えたミネラルウォーターのペットボトルを舞は取り出した。
熱中症の処置で大切なのは体を冷やすことと水分の補給だ。
この控え室はエアコンが効いているので涼しいが、守矢はまだ黒いコートを着ている。熱のこもるコートを脱がせた方がいい。それぐらいなら舞一人でもできるだろう。
タオル数枚をミネラルウォーターで濡らして固く絞ると、別のペットボトルと共に携えて舞は守矢の元へ駆け戻った。
伏して倒れている守矢をなんとか抱き起こし、蓋を開けたペットボトルを守矢の口元にあてがう。
「守矢、水。飲んで」
「…………」
微かにまた守矢は顎を引いて見せ、ペットボトルに口をつけた。
守矢が飲みやすいように、慎重に慎重に舞はペットボトルを傾けていく。ゆっくり、ゆっくりと守矢は水を飲み、ボトルの半分ほどを飲み干したところで小さく首を振った。
守矢が水を飲むだけの力を残していたことに更に力づけられた舞は、また慎重に守矢を仰向けに横たわらせると黒いコートの留め金を外した。幸い、守矢はコートの袖に手を通さない主義なので仰向けの状態でもコートを守矢から脱がせるのは――守矢を動かすまではできないので脱がした後は敷布状態にはなるが――簡単だ。
そして濡らした冷たいタオルを守矢の首筋にあてがった。
『熱中症の人の体を冷やしてあげるのも大事です。首とか脇の下は、血管が集中しているのでそこを冷やすといいんですよ』
佐祐理の言葉を思い返し、そうだ脇の下も、と舞は守矢の着物の襟元に手を掛け、ぐっと前を大きく開かせた。襟元からタオルを脇まで差し入れることも考えたのだが、胸元を開いた方がより体が冷えるだろうと考えたのである。
先と変わらず守矢は朧な目を舞の方に向けているだけで、特に舞の行動への抵抗するそぶりはない。舞の行動の意味を曖昧な意識の中で理解してするに任せているのか、何か意志を主張するほどの気力がないのかまでは舞にはわからない。わからないが、守矢を救うために自分ができる精一杯を舞はするだけだ。
着物が崩れるのも構わず、ぐいぐいと守矢の肩の辺りまではだけさせて舞は守矢の脇の下に濡れタオルをあてがう。
まずは右、それから左――ふと、舞の手が止まった。
露わになった守矢の肩に在るそれに気づいて。
――…………傷、痕?
熱で紅潮した守矢の肌に、白く浮かび上がって存在を主張するその傷痕。おそらくは刀傷であろうそれはかなり大きなものだが、ずいぶんと時間の経ったもののように舞には見えた。
守矢は剣士だ。優れた剣士である守矢だが、試合、立ち合いの中で傷を負うこともあるだろう。左肩の傷もその一つのはずだ。よく見れば、小さな傷痕なら他にもいくつか守矢の体に刻まれている。その中でも左肩の傷は目立って大きく、守矢ほどの剣士がこれだけの傷を負うのは舞には驚くべきことではあったが、取り立てて不思議がるようなものではないはずなのだ。
だというのに、その傷痕から舞は視線をそらせなかった。タオルをあてがうことも忘れ、見つめる。
――……胸が、痛い……
その痛みは先程の、守矢の死を意識したときに覚えた感覚とはまた違う。
――守矢……
知らず、舞は手を伸ばしていた。白い傷痕に舞の指先が触れ――
「……っ」
声ではない。声になっていない。呻きのような、少し強く息を吐いただけのような、だが、守矢が発したその『声』には明確な意志があった。
その意志に、反射的に舞は手を引いていた。
「……守矢?」
守矢の朧な紅い目が細くなる。眉間には、深いしわ。
「傷、痛い?」
熱が苦しいのかではなく、そう、舞は問うていた。なんの疑問もそこにはなく。
「――――」
守矢の唇が動く。やはり声にはならない。
声にはならないが、舞には守矢が言おうとしたことがわかった。
――……触れるな……って、言った……
「川澄さん、お待たせしました。医療班のトキです」
「……あ」
ノックと共に響いた声に、舞の思考は切り替わる。慌て気味に守矢の左脇に濡れタオルをあてがい、「はい」と応えて立ち上がる。
ドアを開き、入ってきたトキをはじめとする医療班は手早く守矢を担架に乗せ、医務室へと運んでいく。
守矢のコートと愛刀を抱えてその後を舞は追った。
――……守矢……
守矢の容態を案じる舞の頭に浮かぶのは熱に赤く染まった苦しげな――戦いの最中に傷を負ったときにさえまず見せない、苦しげな守矢の顔。
そして、左肩に刻まれた白い傷痕と、触れられることを拒んだ守矢の声なき声――
御名方守矢は眠っている。
そこは医務室のベッド。守矢の顔はまだ赤く、寝息にも熱を含んでいるが、受けた処置で体はずいぶんと楽になったのだろう、今は苦しげな表情はない。
守矢が身につけているのはいつもの着物姿ではなく、薄手の寝衣だ。体にかけられているのも薄いタオルケットで、腹部だけを覆っている。頭の下には氷枕が一つ。とりあえず危険な状態は脱したので今はその程度だ。
守矢のベッドの傍らの椅子にちょこんと腰をかけた舞は、浮かない顔で先のトキの言葉を思い返していた。
『熱中症ですね。
重度の症状ではありませんし、川澄さんの最初の処置も適切でしたので命に別状はありません。
もう少し休めば動けるようになるでしょうが、数日は安静にしているべきです』
そう告げ、彼が目を覚ましたら知らせてくださいと言い残してトキはベッドから離れた。守矢の眠りを妨げぬように、そして付き添う舞が他者に気を遣わなくていいようにという配慮からだろう、ベッドの周りのカーテンをきちんとトキは引いてくれた。医務室に他の患者はなく、スタッフの大半も控え室に今は下がっている。ここに残っているのはトキぐらいだが、そのトキ自身も気配を抑えているようであった。
故に、医務室は静かだ。聞こえるのは、守矢のまだ浅く少し早い呼吸音と、カーテンの向こうからの、おそらくはトキがカルテか何かを見ているらしい微かなペーパーノイズ。
その静けさの中、舞はただ守矢を見つめていた。
――……守矢……
舞は胸に、僅かながらもまだ痛みを覚えている。
守矢の熱中症の症状自体はもう心配しなくていいと理解しているのに、切なく、悲しみにも似た感情が痛みとなって舞の胸の奥に宿っている。
その理由はおそらく、
――守矢の、あの、傷。
舞は守矢の左肩を見た。今は寝衣をちゃんと着ているので傷痕は見えない。だがそこにある、傷痕。
――あれは正面からの、傷。
傷痕を見ていたのは僅かな間だったが、それぐらいの推測は舞にもついた。あの傷の大きさと位置から考えれば、そうとしか思えない。
その推測は、別の疑問を舞の前に生み出す。
――……守矢、わざと……斬られたの……?
そう、あの傷痕は物語る。剣で受けることもかわすこともせず、無防備に守矢がその身で刃を受け止めたことを。
――どうして?
問いかけに、答えるものはない。
守矢は眠ったままであるし、傷は古いものだ。
何があったか、舞は知ることはできない。
知ることができないのに、舞の胸は痛む。何があったのかわからないのに、悲しく、切ない気持ちになる。
癒えてなお、痛々しいまでに守矢の傷跡が白く残っていたからか。
熱に朦朧とした意識の中でさえ、傷痕に触れられることを守矢が拒んだせいか。
――ううん。
小さく、舞は首を振った。
――きっと、守矢の傷は……治ってない。
痕は残っているが、傷は確かに癒えている。癒えているが、癒えていない。そう舞には思えてならない。
あの時の守矢が苦しげな顔を見せたから、だけではない。かつて舞もそうだったから。
体の傷こそ無かったが、心の傷――傷と意識すらしなかった傷――を癒えないまま、癒さないまま、舞もまたずっと抱えてきたから。
しかし舞の傷は友人の佐祐理や祐一達、そして守矢との出会いと過ごした時が癒してくれた。
少しずつ、少しずつ、傷の存在を、ずっと舞が痛みに苦しんでいたことを、その傷は癒されていいことを教えてくれた。
少しずつ、少しずつ、傷を癒していってくれた。
――守矢の、傷は……?
守矢の周りには守矢を想う家族が在る。舞も、いる。
それでもまだ守矢の傷は癒えない。
――……だから……
舞は自分の胸元に触れた。きゅっと締め付けられるような、悲しみの痛みを感じるそこに。
――だから、私は、悲しい。
守矢が一人、癒えないままの傷を抱えていることも。
それに今まで気づかなかったことも。
舞には、悲しかった。
――……守矢……
ゆっくりと。おずおずと。ぎこちなく。
舞は守矢の左肩に手を伸ばす。
――触れるな――
先刻の、守矢の声なき声がちらりと舞の脳裏をよぎる。
一瞬動きが止まりかけたが、声を振りきるように舞は触れた。
守矢の左肩に。
寝衣の上からそっと、傷痕が在るだろう場所を撫でる。
――守矢……
ほんの僅かでも痛みが癒えて欲しい、そう願いを込めて。
子供じみた行いだということは舞にもわかっていた。
想いを伝えるべき守矢は眠っている。舞がこうしていることなど知るよしもない。
目が覚めていればそして、守矢はこんなことは望むまい。
それでも、だから。
舞は望み、願うから。
舞は守矢の傷痕を寝衣の上から撫でた。
『大丈夫よ、ほら、こうしていれば――』
それが舞の知る、精一杯の方法。
「…………」
それはいつの間のことだったのか。
守矢の目が開いていた。
先よりは光が戻っているが未だ熱に朧で、少し潤んで見える守矢の紅い目は、それでも舞を真っ直ぐに映している。
守矢の唇が動く。まい、と言った、と舞は思った。
再び守矢の唇が動く。
「……舞……」
今度ははっきりと音になった。
「なにを、している」
守矢の視線が舞の顔から、守矢の左肩を撫でる舞の手へと緩慢に移る。拒絶の響きはない。むしろ不思議そうな守矢の声であり、表情に舞には思えた。
「お母さんは、痛いところを撫でてくれたの」
「…………痛い、ところ……か」
守矢の右手がゆっくりと動く。
自分の肩に触れたままの舞の手に触れる。自然、舞の手は止まる。
そうかもしれん、守矢はそう呟いたようだった。
守矢の手はまだ熱い。
「……冷たい、な」
そう言って、舞の手を守矢は握った。込められた力は強くはなく、まるでそこに舞の手があることを確かめるようだと、舞は感じた。
「守矢が熱いの」
「そうか」
僅かに、守矢は顎を引く。
すうっとその瞼が閉じる。
「……心地いい」
ぽつりと、守矢は呟いた。熱を含む吐息に紛れそうに幽かな、だが確かな声で。
「……うん」
舞は頷く。
頷いた時には、守矢の意識はもう睡魔にさらわれていた。心なしか、先程よりも呼吸が楽そうに聞こえる。
「うん」
もう一度、舞は頷いた。
そのまま、舞はずっと守矢の肩に触れたままでいた。守矢が次に目を覚ますまでずっと。
その胸に感じていた痛みは、守矢の手から、左肩から感じる熱に溶けるように、いつしか消え去っていた。
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