揺れるのは花、揺られるのは
日差しは、春ほどうららかではなく。かといって、夏ほど強くもなく。
春ののどかさからうんと身をのばし、夏の激しさへの準備運動を始めたような、そんな陽気の日。
川澄舞は慨世宅の縁側にぽつねんと在った。
パートナーである御名方守矢の養父慨世は舞のことを気に入っているようで――若干一命を除き、自らの養い子達パートナーもまた養い子同然、と慨世は思っているらしい――舞が家を訪れると快く迎えてくれる。そんな慨世の歓迎や、この家に暮らす守矢達と過ごす時が心地よく、いつしか舞はしょっちゅうここを訪れるようになっていた。
訪れたからといって、取り立てて特別な何かをして過ごすわけでもない。この家にいる誰かと茶を飲んだり、手伝いをしたり――今のように、特に何もせずにいることもある。
他人の家で何もせずにいることが苦ではなく、またその家の者も気にしない。それが何を意味するのか、慨世達はともかく、舞はまだ、気づいていない。
気づかなくとも、舞はここにいる。
縁側に腰を下ろし、春の若い緑から夏の青さへと変わりゆく山の様を眺めている。
確かに、目に楽しい様ではある。耳を澄ませば鳥の声や風の音も聞こえる。
こんな日に舞のように縁側で座して過ごすのも悪くはない。そんな風に思いながら、家の中から御名方守矢は舞の背を眺めていた。
ジジッと声を上げて、庭を小さな影が通り過ぎる。おそらくは燕だろう。ずいぶん低い位置を飛んでいた。早ければ今日の夕方、遅くとも明日には雨になるだろうかと守矢は思い――つっと立ち上がった。
舞に歩み寄る。
「出かけるか」
前振りもなにもなく、守矢は言った。
「うん」
なにも問うことなく、舞はこくりと頷いた。
細い山道、獣道よりはまし、といった程度の道を、守矢は黙々と登っていく。
その後を、黙々と舞はついて行く。
この道は、守矢達が山菜や果実や木の実、薪などを集めに行くときに使う道だ。舞も手伝った特に通ったことがある。
だが今日は、守矢は籠もしょいこも持っていない。手ぶらで、いつもよりずっと山の奥へ奥へと分け入っていく。山道は徐々に人の通う道から、人が進むには難儀を覚える獣道へと変わっていく。
「……」
時折、守矢は後ろの舞を振り返った。
「……」
こく、と舞は頷く。
その様を確認すると、守矢はまた前を向いて進む。
舞は守矢の背を見つめて進む。
それを何度か繰り返す内、舞の息があがり始めた。戦いの心得があり、優れた運動神経の持ち主といっても山に慣れていない舞にはやはりこの道は辛い。
守矢はまた、振り返った。
「舞」
山道を登り始めて初めて声を発し、手を、差し伸べる。
「うん」
舞も声を出して答え、その手を取る。
守矢は舞の手を引き、自分の前へと進ませた。
「あ」
ぽろりと、舞の口からそんな音がこぼれ落ちる。
緑の中に忽然と現れたのは、揺れる淡い紫の、城。
それが山藤の花だと舞が認識したのは、三つ瞬きした後。
とても、とても大きな大きな木に藤の枝がぐるぐると絡みつき、いっぱいの花を咲かせている。
淡い紫の、かんざし飾りにも似た花の房は、どこからか風がゆくたびにゆうらりと揺れ、甘やかな香を控えめに解き放つ。
藤は一本なのか、それともいくつもが集まっているかはわからない。藤が絡んだ大木が、何の木であったかもわからない。
人にわかるのは、山藤が巨木をその枝で、花で、みっしりと覆い尽くしている様。
この世のものとも思われぬ、そんな言葉がふさわしい、壮大でありながらどこか儚い様。
「ずっと前、師匠が一度だけここにつれて来てくれた」
声もなく立ち尽くして藤の花を見つめる舞の隣で、ぼそりと守矢は呟く。
「花の盛りは短い。雨が降れば、さらに短くもなろう」
守矢の言葉はそれだけだった。これでも十分普段より饒舌なのだが。
「うん」
だから――あるいは、だが――舞は、頷いた。
「きれい」
守矢に身を寄せ、藤の城を見上げ、舞は言う。
「こわいけど、きれい」
「あぁ」
守矢も藤の城を頷いた。
大樹を、もはや名も知ることのできぬほどに覆った紫の花が、さわさわと初夏の風に揺れている。
濃さを増す生き生きとした緑の中に確かにそびえながら、花の紫はあえかで、おぼろで――
「舞」
どれほどの間藤の花を見つめていたか、舞は守矢の声で我に返った。
「守矢?」
守矢を見れば、地に片膝を着いて舞に背を向けている。なにを言わんとしているかはあまりにも明白だ。
「下りの方が危うい」
どうしろとは、守矢は言わない。
「うん」
それでも舞は頷くと、そっと守矢の背に自分の体を預けた。
舞を負ぶい、守矢は慎重に山道を下ってゆく。
守矢に負ぶわれるのはこれが初めてではないが、何度負ぶわれても守矢の背は広く、あたたかくて心地よいと舞は思う。
あの山藤に舞が覚えた畏れを溶かしてしまうほどに。
「……」
一度、舞は後ろを振り返った。
木々の陰に隠れ、あの城のごとき山藤の全体は伺えない。
もう少し行けば全部見えなくなってしまうだろう。
見えなくなれば、あれが実在したかどうかも怪しくなるに違いない。
それでいい、と舞は思った。
たぶん大切なのは、守矢があの藤を見せに連れて行ってくれたこと、そして、負ぶって帰ってくれていること。その背の確かさと、ぬくもり。
僅かに舞は腕に力を込めた。
「あぁ」
短く、それだけが返る。
「うん」
舞は目を閉じた。登りの疲れが出たのだろう、すうっと意識は遠のいていく。
淡い紫の花影が、揺れる。
あれはなんの花だったか、そう思うこともなく、舞の意識は眠りにゆだねられる。
舞が最後に認識したのは、愛しいぬくもりと、ゆらゆらと自分が揺られているのが何よりも確かな背であることだけだった。
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