さくらとぴんぽんぱーる

 空の青が澄み渡り、つい先日までのぬくみを含んだ風が爽やかなものに変わりつつあるある日の午後のこと。
 からんころんと下駄をのんきに鳴らしながら、土手の上を行く男が一人。
 白に僅かに朱を含ませたような色――ちょうど先日花の終わった桜の色――の地に裾や袖に鮮やかな紅色で五弁の花を描いた着流しを纏った男の名は、天野漂。前髪を奇妙に逆立てたいかにも遊び人、といった風貌の漂は愛用の木刀を肩に担いで歩いて行く。お供はその足下をちょこちょこと走る白い子犬が一匹。
 いずこかに目的があるのか、それとも気まぐれな散策か、漂の表情や足取りからはわからない。そのどちらともとれる。
 と、下駄の音が不意に途切れた。
 少し遅れて、勢い余ってころんと一回転しつつも白い子犬も足を止める。何事もない振りをして子犬はちょこんと座り上を――漂と同じように――見上げた。
 漂と子犬の見上げる先には、花の盛りの様が広がっていた。
 青い、澄んだ空に艶やかに映える薄紅の花。
 五弁の花片の白い桜の花が終わった頃、別の桜が盛りを迎える。五弁の花片の桜よりも朱の色がずっと濃い八重に咲く桜。
 見れば、この一本を始まりとして土手にずらりと桜の木が植えられている。いずれも八重の桜のようだ。
「見事だねえ。万年桜も良いが、これもいい」
 白い桜は枝にみっしりと咲くが、八重の桜は枝のあちこちに固まって咲く。八重の花がふわふわと枝の上で寄り集まって咲く様は、枝にいくつもの花の鞠がくっついているようだ。
――いや、鞠っつーよりも、あれは……
 あごの下に手を当てて、ふむ、と漂は考える。いつもなら花の鞠のようだぐらいの感想で終わるのだが、今日はどうも他のものが頭の中でちらちらする。なんだったか、と記憶を漂がたどった時――

 ふわり、とひらひらする赤いものが漂の視界を横切った。

 自然と漂が目で追えば、まあるい顔の、黒々とした目と目が合う。同時に、漂の頭の中でちらちらしていたものが明確な像を――今眼前にある者の姿を――結んだ。
「よう、久しぶりだな」
 にぃっと笑いかけると、ひらひらする赤い者の主――長い袖、長い帯、長い赤い髪のふわふわと宙に浮いた丸い童女がゆうらゆうらと揺れる。にこり、と笑ったようでもある。
――そうそう、この子だ。
 丸くて、ひらひらで、やわらかそうで、かわいらしい――八重の桜はどことなく、この童女を思い起こさせる。
 この童女、ある日ある時、漂の懇意にしている雪待という店に迷い込んできたことがある。店の女達にかわいがられて菓子をたくさんもらっていたが、しばらくして探しに来た男――頭に角がある小柄な男――と共に帰って行った。
「元気にしてたかい? あれから見ないが――あー、いや、お前さんのようなかわいい子はあの辺うろつくもんじゃないな」
 漂は気に入っている場所だが、無垢な童女にあの辺りは少々猥雑に過ぎる。
「まあ、こないだの兄ちゃんと一緒にででも、何かのついでに顔出してくれると女達が喜ぶだろうけどな」
 手練手管に長けた酸いも甘いもかみ分けた女達が、漂の見たことのないような顔をしてこの童女をかわいがっていた様を思い出し、付け加える。童女が帰っていった後、随分女達は寂しげにしていたものだ。妬けるねえ、という漂のからかいも取り合わないほどに。
「…………」
 ゆらん、と童女は袖を翻した。期せずして吹き抜けた心地良い風に、丸い花々もゆらんゆらんと揺れる。
 宙を泳ぐように漂に近づいた童女はじぃ、とその黒々とした目で漂を見つめ――こくん、と頷いた。へにゃりと笑うように口元が緩んでいる。童女の雪待の思い出は良いものだったということがそこからうかがえる。
「そうかい。ありがとな、待ってるぜ」
 ぽむぽむと頭を軽く撫でてやると、更に童女の表情がほころぶ。うんうん、と頷く少女の無垢さはなんだかむずがゆい。
「そういや、今日は一人かい?」
 この、無垢でかわいらしい童女が一人きりなら少々まずい。人と疑うことや警戒することをどうも知らなさそうな童女は些細な悪意に容易に傷つけられてしまうだろう。
 一人なら放っておけねえな、そう案じた漂であったがそれは杞憂だったらしい。つい、と童女の手が八重の桜の並ぶ方を指す。見やれば、のんびりと歩いてくる小柄な男の姿がある。
「兄さんが一緒か。なら安心だ」
 うんうん、とまた童女が頷く。
 そんな童女にじゃあなと漂は軽く手を振って歩き出した。ぱたぱたと尻尾を振りながら漂と童女を見ていた白い子犬が急ぎ足に漂の後を追う。
 からんころん、と下駄を鳴らしながら行く内に、小柄な男とすれ違う。
「かわいいねえ」
 足を止めることはなかったが、そんな言葉が口をついていた。
「そうやろ?」
 男もまた足を止めずに言葉を返す。にぃと、自慢げに笑っていたような気がする。
――ま、当然だわな。
 自分が男でもきっと笑って応えるだろうと漂は思い――あの童女がまた雪待に来ると良いと思った。
 たまには、ああいう無垢でただただかわいいものが店にいるのもいい。
 日持ちのする、何か美味い菓子を見繕っておけば喜ぶだろうか、とも。
 それは良い、というように、真白い子犬が小さくワンと吠えた。
 

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