雪待語り 〜金魚の巻〜

「朝寝の酒の肴にするは、舞う花びらに床の柔肌、いずれもあえかに染まりけり……」
 右手に杯を持ち、左手をしとねに忍ばせるは、天野漂。そのまま杯を傾けつつ、やわやわと――
「ん?」
 天野の手が、止まる。
 半分ほど開かれた部屋の窓からは、表にある万年桜が見える。春夏秋冬通して花が絶えず、ほろほろと淡い桜色の花弁が舞う中に別の色を、見て。
――赤?
 桜の色よりずっと濃く、鮮やかなその色が気になり、くいと右の杯を干して漂は外をのぞき込む。
「……なんだい、ありゃあ」
「どうしはりました」
 布団に潜り込んでいた太夫が、眠たげに目をこすりながら体を起こす。
「あれさ」
 漂はあごをしゃくって外を示した。

 ぷかり、ぷかりと。
 ゆうら、ゆうらと。

 幼い少女が一人、花弁舞う宙に浮かんでいた。
 年の頃は五つ、六つといったところか。桜の花弁と戯れるように、長い袂を翻している。
 髪も、着物も、赤い。頭のてっぺんと、着物の襟や縁は白く、その白がいっそう赤を鮮やかに見せる。
「あらまあ、かいらしい子」
 太夫が相好を崩す。宙に浮かぶ少女など、MUGEN界ではそう珍しいものではない。
――とはいえ、驚きもしないたぁ……女だからかねえ……
 かわいらしいものの前では細かいことなどどうでも良いのだろう、そう思って苦笑し、漂は空の杯に酒を注いだ。
「赤くてかいらしいて……金魚みたいないとはんどすなぁ」
 おいで、おいでと太夫は手招きする。
 なるほど、言われてみれば少女の姿を金魚を思わせないでもない。髪の白い部分は背びれのようにも見えるし、長い袂も胸びれのようだ。何より、桜舞う中にふわふわ浮かぶ姿は水の中をゆったりと泳いでいるかのようである。
――何者かねえ。
 妖怪か、何かの精か、聖霊とかそういったものなのか。
――なんにしろ、酒の肴にするには可愛すぎるな。
 ククッと喉を鳴らし、漂は杯に口をつけ――
「ん?」
 眠たげな目と、目が合った。
 あのゆったりとした動きでいつの間にか、少女は部屋に入り込んでいたらしい。
 やはりぷかぷかと浮いたまま右の人差し指を咥え、じぃ、と少女は漂を見、それからその手の杯を見る。ふんふん、と小さく丸い鼻が鳴る。
 欲しいのか、と思ったが漂は首を振った。
「こいつはダメだな」
 少女の姿をしていても人ではなさそうなのだから酒を飲むこと自体は大丈夫かもしれないが、飲んだあとどうなるかわからない。下手に飲ませて暴れるなり、とんでもない姿になられるなりされては困る。
「何か飲み食いしたいなら……おい、何かないかね」
「天野はんの部屋にいとはんにあげられるようなものなんて……」
 それでも少女のかわいらしさにか、太夫はきょろきょろと部屋を見渡し、「あ」と声を上げた。
「これ、こないだのお大尽さんの振る舞いやないですか。なんで天野はんが……もう。でもちょうどよろし」
 一昨日、この店を借り切って派手に騒いだ男がいた。金髪に着物姿のその男は店の者全員に酒やら菓子やらを振る舞ったのであるが、翌日――つまり、昨日――店を訪れた漂はそのあまりをしっかりくすねていたのである。
 もっとも、適当にくすねたため漂には無用の菓子まで持ってきてしまっていたのであった。
 太夫が菓子の入った小箱――上等の漆塗りであった――を開けると、気づいたのか少女がそちらを向く。
「ほら、いとはん、あげよ」
 太夫の細い指がつまんでいるのは桜と同じ色の砂糖菓子。
 目をきらきらさせてふよふよと少女は太夫に近づいた。あーんと、無邪気に、何疑う様子無く口を開く。
「お食べ」
 ぱくり、と少女は砂糖菓子を一口。見る間にへにゃり、と笑みが浮かぶ。体がゆらゆらと大きく揺れる。ひらひらと動きに合わせて袖も揺れる。
「ほっぺが落ちそう、ってのはこういう顔かねえ」
――見ているこっちもつられるな、これは。
 あまりにも無垢な悦びように、漂や太夫の口の端もほころぶ。正体が何であれ、子供はずるいもんだとしみじみと漂は思う。
「おいしかったんやねえ。もっと食べ、ようけおますから」
 また一つ砂糖菓子をつまんで太夫が差し出せば、やはり少女は大きく口を開く。
 その姿は、水面に顔を出してえさをねだる金魚のようだと漂は思った。
 

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