タオルがなくて

 ぴゃっ

 おそらく、音をつけるならそんな音だろう。
 実際は無音で、しかし小さな少女の驚きの程にはそんな音を連想させられてしまう。
「……小餅、どげんした?」
 どうやら少女――小餅の驚きの原因は自分であろうと察し、それ以上驚かせないようにその場から動かずに優しく、朝倉鉄兵は声を掛けた。

 ぴゃっ

 だいたいさっきと同じような音を連想させる驚きを、少女の全身が示した。既に見開かれていた目が、より大きくなる。まじまじと鉄兵を見つめる小餅の目に浮かぶのは「信じられない」という色。
――どげんしたと?
 疑問を新たに重ね、一歩、鉄兵は小餅に向かって足を、できるだけそっと踏み出してみた。

 ぴゃぴゃっ

 大きく小餅の体が震える。見開かれた眼に浮かぶのは、警戒の色。
――参ったな……
 理由のわからない小餅の反応に困り、ついでに警戒されたことにちょっぴり傷つきながら鉄兵は対策を考える。とにかく小餅の体と心をほぐさなければならない。
「小餅、おやつ、あるぞ?」
 紙袋を持った手を、鉄兵はやはりそっと掲げてみせる。帰りに買った、大判焼き。まだ温かい大判焼きの入った袋からはほんのりと甘いにおいが漂っている。
 ぴくり、と小餅が反応した。ひく、と丸い鼻が動く。鉄兵を凝視していた目が紙袋へと向き――ふわあり、と小さな体が浮き上がった。ひらひらと長い袖が、帯が、揺れる。
 さっきまでの驚きの色はどこへやら、うっとりとした顔で、吸い寄せられるように紙袋の元へと小餅は近づいてくる。
――てきめんなのはよかとやけど……
 なにが小餅を驚かしたのかと鉄兵は眉を寄せたが、とりあえず紙袋に顔を近づけてふんふんと鼻息を荒くしている小餅を何とかしてやることにした。

 あむあむ、と。
 縁側にちょこなんと座って小餅は無心に大判焼きを食べている。ふっくらとした皮の中にはつやつやと輝く粒あんがぎっしりとつまり、見ているだけでも実に美味そうだ。
 けれど、小餅の至福の表情以上にこの大判焼きのうまさを語るものはあるまい。
「うまかか。よかよか」
 うんうんと満足げに鉄兵は頷く。
「あれー、小餅、美味しそうなの食べてるね」
 ほんの僅かだけ、鉄兵にしては珍しく、「その」来訪者に対して眉をひそめた。
「萃香、急に来たら小餅が驚くやろ」
 せっかく落ち着いたところなのに、また驚かれてはたまらない。
 しかし、「上」から舞い降りてきた小柄な体に不釣り合いな大きな二本の角を頭に生やした少女――伊吹萃香はけろりとして笑った。
「これ食べるのに夢中だから大丈夫だよ。
 まったく、てっぺーは小餅には過保護だねえ。あたしにもそれぐらい気を使って欲しいもんだ」
 ひょい、と軽やかに、萃香は小餅の反対側の鉄兵の隣に腰を下ろした。小餅は萃香にまるで気を払わず――というより、気づいた様子無く、小さな口に大判焼きをほおばっている。
「萃香にゃ気ぃば使う必要ないったい」
「先輩に対しての礼儀がなってないぞ……って、てっぺー、頭どうしたの?」
 わざとらしく口をへの字に曲げようとして、はて、と萃香が首を傾げる。
「頭?」
 じっと見つめてくる萃香に鉄兵も首を捻った。
「頭。タオルないけど」
「あー、ちぃとな、面倒があってな。平たく言えばケンカの仲裁なんだが、どいつもこいつも頭に血がのぼっとっててこずっとったら水ぶっかけられた」
「なんだ、巻き添えかい?」
 くくっと実に楽しげに笑って、萃香はひょうたんから酒をあおった。
「まだまだ未熟だねえ」
 うるさい、というのを飲み込んで、鉄兵は髪をかき上げる。
「そいで、タオルは頭や服を拭くのに使って汚れたんでな、外しとった」
 その後はつけるのを忘れていただけであった。
――……ん?
 ふと気づいて、鉄兵は小餅を見る。小餅はいつの間にか二つ目の大判焼きをあむあむとかじっている。
「あぁ、そういうことか……」
「どしたの?」
「や、帰ったら小餅がオイラを見てえらく驚くもんでどうしたのかと思うとったがそうか、タオルばつけとらんかったからや」
 小さなものは、僅かな変化に敏感だ。小さくかわいいもの、弱いものには僅かな変化も一大事なのだから。
――それにひょっとしたら、オイラってわかってなかったんかもしれんし……
 それならばあれほどに小餅が驚くのも当然だ。もっとも、本当に鉄兵だとわかっていなかったとしたら、大判焼きにあっさりつられたのは問題の気もするのだが。そこは、食べ物を持ってきてくれたことから鉄兵と認識したのだと思いたい。
「これからは気ぃばつけんとな」
 小さなものと暮らすのは、そういうことなのである。
「じゃあ今後はタオル外さないようにするんだ」
「少なくとも小餅の前じゃな」
 小餅がタオルを外した鉄兵に慣れてくれれば良いのだが、そう都合良くもいかないだろう。実際は風呂や寝る時にはタオルを外しているのだが、おおむね小餅は鉄兵よりずっと遅く起きて鉄兵よりずっと早く寝る。だから、今まで鉄兵のタオルを外した姿を見ていないのだ。
「ふうん、おとーさんも大変だねえ」
「別に大変やなか」
 ちらりと小餅を見やってから、鉄兵は立った。
「萃香、ちょこっと小餅見といて。タオル取ってくる」
「いいよー。ついでにつまみも」
「……はいはい」
 頷いて家の奥に向かう鉄兵は気づかなかった。
「でも、ちょっと残念だなぁ。
 あの頭も、結構良いのにさ」
 ひょうたんの酒を口にしながら、萃香が呟いたことには。
 

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