風柳堂奇譚
〜裁縫箱の巻〜
とあるMUGEN界のとある街のとある通り。その一角にある骨董店「風柳堂」。
店主の名は煉という。
見たところは十歳ほどの少女であるが、MUGEN界では見た通りの人物でないことの方が常識。少女が骨董店の主だからといってあれこれ言う者などいない。
さて、その煉であるが、普段は客の少ない骨董店であることをいいことに、愛用の煙草と好みの酒を友に、のんびりと怠惰な時間を貪っている。
それが変わるのは仕入れに行く時と、珍しく客が来た時、そして――
「煉しゃま、煉しゃま」
「シャンハーイ」
色々あって風柳堂で働いている仔犬と幼子を掛け合わせたような姿の、銀の髪でメイド服を着た少女・いぬさくやが箱のようなものを抱えてとてとてと煉の元へやってきた。
その上を金の髪の少女の姿をした人形、上海が飛んでついてきている。
「ん、なんだいそれは?」
灰皿でちょうど吸い終えた煙草をもみ消し、煉はいぬさくやが運んできたものに目を向けた。
「さきほど倉庫のそうじをしておりましたところ見つけたのでしゅ」
よいしょ、といぬさくやは手にした箱を煉に差し出した。
小さないぬさくやがよく持ってこれたものだ、と煉が思うぐらいの大きさのその箱は花柄の濃いピンクの布張りで、円筒を半分にした形の蓋に持ち手がついている。
「商品リストに入っていましぇんでしたので、どう扱うべきかをおたずねしようかと思ったのでしゅ」
「ふむ……これは、なんだったかな……」
煉が店で扱う骨董品の数はそう多くはないとはいえ、まとめて仕入れた時などは品物一つ一つまで記憶していないこともある。更にリストへの記入漏れもまれにだがある。煉はいぬさくやから受け取った箱をしみじみと眺めて考え込んだ。
箱は結構重い。
――ここまで持ってくるのは大変だっただろうに……
箱をここまで運ばずとも倉庫に煉を呼べばよかったのに、そうしない辺り「カンペキで瀟洒なメイド」を自称するいぬさくやらしい、と微笑ましく思いながら煉は箱をためつすがめつ眺めた。
何であるかはわからないが、この箱は骨董品だけにそれなりの時を経たものであることは間違いない。しかし丁寧に扱われてきたものらしく、一見したところ布張りの表面に傷んだところはなく、時を経た風格だけを宿している。慎重に少し傾けてみれば、何か入っているらしい音がする。
「よし、開けてみよう」
机の上に箱を置き、煉は蓋の留め金を外した。鍵はついていない箱のようで、あっさりと蓋は開く。
「ほう、これは……裁縫箱だね」
「サイホウバコナノカー」
箱の中にはまち針の刺さった針山や、糸切りばさみに布切りばさみ、指ぬきに刺繍枠、様々な糸や端切れなどがきれいに整理されて入っていた。まち針の一本一本、指ぬきの表面やはさみの柄の部分にはシックなデザインの装飾が施されており、これら一つ一つが贅をこらした品物であることがうかがえる。
「日用品にまでこんな手の混んだ細工をしてあるとはね。
ふむ、糸や端切れにも傷みはないようだ。今でも十分使えそうだな」
「そうでしゅか……ほんとうにきれいでしゅ……」
「…………」
ほれぼれと裁縫箱を見つめるいぬさくやの言葉に、こく、と小さな少女は頷く。
「いぬさくや、君、裁縫はするのかい?」
ぱたん、と裁縫箱の蓋を閉めて煉はいぬさくやに問うた。
「カンペキで瀟洒なメイドでしゅから、心得はございましゅ」
「裁縫は好きかい?」
「好きでしゅ」
少しきょとんとした顔ながらも、こっくりといぬさくやは頷いた。
「じゃあ、君にこの裁縫箱をあげよう。もちろん、中身も一緒だ」
テーブルの上に裁縫箱を置き、その上に煉はぽんと手を置いた。
「ええっ!?」
驚きに目を見開いたいぬさくやの耳が、ぴんと立つ。
小さな少女は嬉しそうに目を輝かせた。
「よ、よよよろしいのでしゅか? 売りものじゃないのでしゅか?」
「カンペキで瀟洒な」メイド、いぬさくやはその自称に恥じぬよう、懸命に冷静に振る舞おうとしているが、短いしっぽはぱたぱたとせわしなく振られ、その顔には嬉しさが溢れんばかりに浮かんでいる。
「売りものリストから漏れていた品物なのだから、売りものではないよ。
それに、君は給料も受け取ってくれないからね。だからこれはせめてものお礼として受け取って欲しい」
いぬさくやは以前、何者かに魔法をかけられティーカップにされてしまっていた。そのカップは人手を渡って風柳堂にやってきたのであるが、とある事件がきっかけで煉によって魔法は解かれ、いぬさくやは元の姿に戻れたのであった。ちなみにふわふわと飛んでいる上海もその折りに目覚めた存在だ。
煉に救われたことをいぬさくやはずいぶんと恩に感じているようで、行くあてがないこともあって上海共々風柳堂に住まわせてもらうことになった恩の分も合わせてか、風柳堂の掃除や煉の身の回りの世話を進んでやっている。
「カンペキで瀟洒な」メイドの自称に恥じぬ働きをするいぬさくやに、煉は給料を出そうと提案もしたのだが、「これはご恩返しでしゅ」と丁重に断られてきたのである。
「そう、おっしゃられるなら……ありがたくいただきましゅ」
裁縫箱にそっと、愛しげに触れてから、深々といぬさくやは頭を下げた。
「ヨカッタネー」
人形故に表情は変わらないが、どこか嬉しそうに上海も言う。
「トコロデネー、ソイツダレー?」
「そいつ?」
ぴし、と上海の指し示す先をなんとなく同時に煉といぬさくやは見やる。
「……む?」
「あれ?」
二人が見たそこには、一人の少女がいた。
頭にくるりと布を巻き、シンプルなシャツにベストとスカートを着た少女。いぬさくやよりは大きいが、煉よりは小さい。
煉といぬさくや、上海に注目されてもにこにこと笑みを浮かべている。
「……君は、何者だい?」
「…………」
にこにこと笑んだまま、少女は小首を傾げた。
「お話しできないでしゅか?」
少女はにこにこと笑んだまま答えない。
「ふむ……」
テーブルの上の丸眼鏡を取って掛けると、しげしげと煉は少女を見定める。
「君は……この裁縫箱の付喪神、かな? 私達が触れたことで目を覚ましたといったところか……」
煉は骨董品の類と相性がいいのか、彼女の魔力、エネルギーに反応して眠っていた骨董品の付喪神や妖怪が目覚めることはまれにだが、ある。文字通り眠っていたものが目覚める場合もあれば、煉が触れたことがきっかけで生まれるものもいる。煉が触れたことで新たに生まれたものの中には、煉を気に入って使い魔のような存在にまでなっているものもいるぐらいだ。
「…………」
少女は煉の言葉を肯定も否定もせず、ただにこにこと笑んでいる。
言葉を理解していないわけではなさそうだが、「他者と進んで意思の疎通をする」という考えはまだない存在なのかもしれない、と煉は思った。
「煉しゃま、この方をどういたしましょう?」
「そうだな……」
煙草を咥え、煉は少し考える。
――害のある存在ではないようだし、裁縫箱に憑いているものなら追い出すこともできないか。
やれやれ、と煉は一つ息をついた。
「しばらく、ここで様子を見るかな」
「承知いたしましたでしゅ」
「ターノシーイナーカマガー、ポポポポーン!」
あくまでも瀟洒にいぬさくやはお辞儀をするが、ぴくぴくと耳は動いて嬉しそうであり、くるくると飛び回る上海は喜びを歌らしきもので表している。
そして少女も、先よりも明るい表情でにこにこと笑んでいる。
――ここにいることに異存はないようだね……
さて、これからどうなることやらと、先のことを思いやりながら――といっても、それほど悪い気分でもなく――煉は指先に火を灯し、煙草に火をつけた。
付喪神の少女は何も言わない。
お茶の時間に現れていぬさくや特製のクッキーをおいしそうに食べたり、上海とじゃれていたり、気まぐれに姿を消したり現れたりしつつ、風柳堂の暮らしを楽しんではいるようだ。
「糸子? あの子の名かい?」
そんなある日、いぬさくやに告げられた名前を、きょとんとして煉は繰り返した。
「はい。名前がないといろいろ困りましゅのでわたしが考えたんでしゅ。
あの子、裁縫道具の中でも糸がお気に入りみたいなんでしゅ」
「あの子はどう言ってる?」
店の隅のテーブル――元々は売れ残りのテーブルと椅子だったのだが、今ではいぬさくやや上海が一休みする時に使ったり、不意の客に茶を出すのに使われたりしている――の前の椅子にちょこんと座り、少女は裁縫箱から糸や針を取り出している。
――そういえば、最近いぬさくやは何か針仕事をしていたな……
「気に入っているみたいでしゅ」
少し誇らしげにいぬさくやは胸を反らした。
「そうか。ならば私があれこれ言う必要はないね」
「認めていただき、ありがとうございましゅ」
深々といぬさくやはお辞儀した。
――別に私に断りを入れる話でもないのだけど……うちの「カンペキで瀟洒な」メイド殿は律儀なものだ。
フッと笑んで煙草を咥える煉に、いぬさくやはそれでは、ともう一つ頭を下げて踵を返す。
その背に、何気なく煉は声をかけた。
「いぬさくや、何を作ってるんだい?」
くるりといぬさくやは几帳面に煉に向き直った。
「きれいな糸がたくさんあったので刺繍を作っておりましゅ。タペストリーにしようかと」
「ほう、どんなものかな?」
煙草に火をつけながら問う煉に、いぬさくやは珍しくいたずらな笑みを浮かべた。
「できあがるまでないしょにさせていただきましゅ」
「なるほど、じゃあ完成を楽しみにしていよう」
ふう、と紫煙を宙に向かって吐き、煉も小さく笑んだ。
「はい、おまちくださいましぇ」
漂い薄れる煙の向こうで、ぺこりといぬさくやは頭を下げた。
仕事の合間合間に、せっせといぬさくやは刺繍、タペストリー作りに励んでいる。付喪神の少女の糸子と相談しながら作っているようで、店の隅のテーブルで二人が頭をつきあわせて――その上で上海がふよふよと飛んでいる――いるさまを煉はしばしば見かけるようになった。
――夢中になりすぎて根を詰めなければいいがね。
いくらか気にしつつも、楽しそうないぬさくや達の様子に煉は口は出さないでいる。裁縫箱を気に入り、タペストリー作りをいぬさくやが楽しんでくれていることは煉も嬉しい気分なのだ。
――……しかし……
相変わらず物言わぬ糸子を見やり、煉は思う。
――最近、様子がおかしいように見える。
どこがどう、というわけではない。煉の勘のようなものだ。目に見える変化はないが、どこか、糸子の存在が頼りなくなってきている気がする。
――弱っているわけではないようだが……
「…………?」
視線に気づいたのだろう、糸子が顔を上げて煉を見る。小さく小首を傾げた糸子に、何でもないと煉は首を振った。
――もう少し様子を見ないと何とも言えないか。
糸子の様子を気をつけて見ていようと煉は決めた。
――あんなに楽しそうなのだからね。
時折作りかけの刺繍を二人、いや三人で覗き込んではあれこれと話し、またいぬさくやがちくちくと針を進める、そんな微笑ましい様。
ずっと、というのは無理だろうが、せめてタペストリーが完成するまでは何事もなければいい、そう煉は思う。
――この店でも、こんな時があったってたまにはいいだろう?
しかし煉のそんな想いも虚しく、時が過ぎるにつれて糸子の異変ははっきりと表れ始めた。
弱ったそぶりはまるでないが、少しずつ存在が薄くなっていっている。
いぬさくやや上海も気づいたようで、心配そうに糸子にあれこれと問うが糸子は相変わらずにこにことして何も言わない。ただ、刺繍を作り続けることを求めてくる、と糸子のことを煉に相談したいぬさくやは言った。
「煉しゃま、どうしたらいいのでしょう? お医者様に糸子を診てもらった方がいいのでしょうか」
いぬさくやは心配の思いで目をうるうるとさせて煉を見つめている。
「……ふむ……」
煉は、店の隅のテーブルを見やった。
そこでは糸子が作りかけの刺繍を手にして眺めている。いつも通り、にこにこと笑みを浮かべて。優しく、愛しげに刺繍を指で辿る糸子の姿に、もしかして、と煉は小さく呟いた。
それもまた、煉の勘。だがそれは、数百年の長い年月を生き、様々な「もの」の様を見てきた者の勘だ。
「煉しゃま?」
煉は視線を一度床に落とし、それから煉の様子に更に不安げな顔をする小さないぬさくやを見た。
「いぬさくや、医者に糸子は治せないと思うよ」
「えっ」
大きく目を見開いたいぬさくやの目には涙がいっぱいで、今にも零れそうだ。そんないぬさくやの銀の髪に、優しく煉は手を置いた。
「糸子はね、おそらくだが具合が悪いわけではないのだよ」
「具合が悪いわけではない……でしゅか?」
少し、いぬさくやの涙が引っ込む。
「あぁそうだ。いぬさくや、君は今まで通り糸子と一緒にタペストリーを作りなさい。
それがたぶん、糸子にとって一番いいことのはずだ」
「わかりました」
煉に頭を撫でられながら、こっくりといぬさくやは頷いた。ぐしぐしと目元を擦り、もう一度頷く。
「煉しゃまのおっしゃることなら大丈夫だと思いましゅ。
「カンペキで瀟洒な」メイドとして、がんばって立派なタペストリーを作りましゅ」
――こうも信頼されると……気恥ずかしいね。
くすぐったいような気分に一つ咳払いをしてみながら、煉はもう一度糸子を見やった。
糸子はただ、にこにこと笑んでいる――
「できました、煉しゃま、できました!」
大きなタペストリーを抱えていぬさくやが煉に報告しにきたのはあれから一週間後のことであった。
そのすぐ後ろをとてとてと糸子が、その少し上をふわふわと上海がついてくる。
糸子は一見したところでは何も変わらないが、その存在感とでも言うべきものは一週間の間にすっかり薄くなっている。
「そうか、できたか」
お疲れさん、ひとまずそう声をかける煉に、「見てくだしゃいませ」といぬさくやはタペストリーを広げた。
「……これは……これは……」
驚きと戸惑い、そして感嘆の念を交えた声を、知らず、タペストリーを目にした煉は洩らしていた。
「いかがでしゅか?」
「………………たいしたものだ」
煉の言葉に嘘はない。「カンペキで瀟洒な」メイドの自称に恥じず、いぬさくやの刺繍の腕前は全く見事なものだった。
しかし煉を驚かせた理由は刺繍のできの見事さだけではなかった。
煉の普段の気怠げな落ち着きを崩したもの、それは――
「シャンハーイ!」
上海が警告の声を上げる。
はっと煉と、そしていぬさくやが見た「そこ」では、糸子が淡い光りに包まれていた。
「…………」
糸子はいぬさくやに、上海に、煉に向けて微笑んだ。今までで一番嬉しそうに。
糸子、と涙で震える声でいぬさくやが名を呼ぶ。
「…………」
糸子は頷いた。大丈夫、そう言うかのように。
そして糸子は、光の中へと消えてしまったのであった――
「そうか……それで、結局糸子ちゃんは何者だったんだい?」
煉とは馴染みの街の便利屋――煉の手伝いをすることも割とある――天野漂は煙管で煙草を吸いながら問うた。
「煉ちゃんの話し方からすると、裁縫箱の付喪神じゃなかったようだが」
「糸子はね、「糸」の付喪神だったのだよ、漂」
ふうっと宙に紫煙を吹いて、煉は答える。
ふらりと風柳堂を訪れた漂と、他愛もない日々のことや街の噂やちょっとした事件の話をする内に、いつしか糸子の話になっていたのであった。
「裁縫箱に大切にしまわれていた、糸が糸子の本体だったのだ」
「糸」が本体のなのだから刺繍が作られ、糸が使われれば使われるほど糸子の存在が薄くなっていくのは当然のこと――なのだろう。
「いぬさくやは糸子の本質を無意識に見抜いていたのだろう」
「なるほど。いぬさくやちゃんもたいしたものだねぇ……
で、それかい。いぬさくやちゃんと糸子ちゃんの力作は」
煉の後ろの壁に漂は目をやった。そこには真新しいタペストリーが飾られている。
見事に糸で描かれているのは、銀の仔犬、金の髪の人形、そして赤い猫。椅子の上に優雅に赤い猫が寝そべり、椅子の足下にちょこんと銀の仔犬が座り、金の人形は赤猫の後ろで椅子の背もたれにもたれている。
「ほう……銀のかわいい仔犬はいぬさくやちゃんで金髪のかわいこちゃんは上海ってところか……となるとこの見目麗しい赤い猫が煉ちゃんか」
「……そのようだ」
ちらりとタペストリーを見やって煉は呟いた。
「煉ちゃん知ってるかい? 赤い猫ってのは火の使いなんだぜ」
「……放火や火事の隠語じゃなかったかな」
「ありゃ、知ってたか」
少し気まずそうに頭をかいて、くるりと漂は煙管を回した。こん、と音を立てて灰皿に灰を落とす。
「つまり君は放火や火事を意味する不吉な赤猫のタペストリーを店に飾るのはまずいと言いたいのかな?」
「いやいや、そうじゃなくてな」
いつもと比べて、そして珍しく不機嫌な響きを声に宿した煉に、苦笑と共に漂は首を振る。
「俺は前から、煉ちゃんは猫っぽいと思ってたんだよ。気ままで一人静かに過ごすのが好きで、芯が強いところとかな。あと……」
何故かその先は漂はむにゃむにゃと誤魔化すように呟き、詳細は煉の耳には届かなかった。
――何を考えているのやら。
気にならないではないが、漂の浮かべるニヤニヤ笑いに聞かない方がよしと煉は判断する。
「で、だ」
何事もなかったかのように漂は言葉を続ける。
「煉ちゃんは火を使う力持ってるだろ? だから赤猫が煉ちゃんって言うのはぴったりだと思ったわけさ」
「……そうかい」
低く答え、煉はとんとんと灰を灰皿に落とす。
「いやぁいぬさくやちゃん、なかなか粋だねえ」
「ありがとうございましゅ」
慎ましやかに礼を言い、いぬさくやは運んできた盆の上から漂の前に緑茶を入れた湯呑みを置いた。
「このデザインは糸子と相談して決めたものでしゅ。褒めていただき、糸子もきっと喜ぶと思いましゅ」
「だが、その糸子ちゃんはこの刺繍の中には入ってないんだな」
しげしげとタペストリーを漂は眺めて言った。
「糸子はこの糸自身でしゅから」
いぬさくやの言葉に、こくんと少女が頷く。
「作ってるときは気づきましぇんでしたが、そういうことだったのでしゅ」
「あぁ、なるほど……って、ありゃあ?」
いつの間に現れたのか、いぬさくやの隣に、頭にくるりと布を巻き、シンプルなシャツにベストとスカートを着た少女がいた。
「……この子がひょっとして糸子ちゃんかい?」
流石に驚いた様子で漂は言う。
「だが煉ちゃん、さっきお前さんは糸子ちゃんは消えたって……」
ふうっと煉は宙に紫煙を吐いた。クスリと小さく笑う。
「消えたとは言ったが、いなくなったとは言っていないよ」
あの時、消えたと思った糸子はしばらくしてまた現れたのだ。裁縫箱の側ではなく、タペストリーの側に。
それで煉は理解した。「糸」が本体である糸子は、その糸を用いられてタペストリーが作られたことで、存在の有り様が変化したのだと。タペストリーが作られる間、存在が薄くなっていったのはきっとその変化に伴うものだったのだろう。刺繍という一つの作品に使われたことで安定を得たのか、糸子は今では以前よりも存在感がしっかりしている。
「……あの話し方だと勘違いして当たり前じゃねえか……ったく人が悪いぜ煉ちゃん」
苦笑した漂だったが、「ま、糸子ちゃんが消えてなくてよかったな」とわしゃわしゃといぬさくやの頭を撫でた。
「あうー、漂しゃん、髪が乱れましゅー」
首をすくめながらも、いぬさくやも嬉しそうだ。その頭の上を「ワタシモー、ワタシモナデテー」と上海がぐるぐる飛んでいる。漂はこの二人にずいぶんと好かれているのだ。漂本人は「俺の遊び相手からはちいと外れるんだがねえ」などと言うが、好かれて結構まんざらでもないらしく二人をかわいがっている。
――やれやれ。
いつもと同じ賑やかな三人から、煉はタペストリーへと視線を向けた。
糸で描かれた絵、刺繍の真ん中にいる、赤い猫。
――あれが私、か。
遠い、遠い昔にある魔術師によって自分が作られたことは煉は微かに記憶している。それなりの期間、その魔術師に仕え、働いたことも。
だが自分が一体何から作られたかは煉は覚えていない。魔術師を失ってからの長い長い時の中、一人生きることに必死でその記憶は摩耗してしまった。
――……本当に私は猫だったのかもしれないな……
タペストリーの赤い猫を見る度に、幽かに心が揺れる、ざわめく感覚――時を重ねた琥珀色の酒を口にした時の感覚にも似たそれは、ノスタルジィ、というのが一番近いだろうか――を覚える自分に、煉はそう思う。遠い遠い過去、自分が何であったかなどに興味はなかったはずだが、とも。
だがそれは、悪い感覚ではなかった。
――まったく、面白いものをいぬさくやは作ったものだ……
糸子の名前のことといい、いぬさくやの「勘」とでもいうべきものはあなどれないようだ。
紫煙をくゆらせ、煉はふと、酒が飲みたいと思った。今日は店を閉めたら馴染みの店に――いやこの店で一人、このタペストリーを肴にとっておきの酒を、重ねた時をその琥珀色に溶かし込んだ酒を飲もうと。
そんな煉を、糸子はにこにこと笑んで見つめていた。
〜裁縫箱の巻〜・終
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