風薫る季節の夢を見る
たまに、レンは夢を見る。
鮮やかな青と緑広がる世界の夢。聞こえるのは、力強くも心地よい風に揺れる葉擦れの音だけの夢。
たぶん、真夏の世界なのだろうと夢を眺めるレンは思う。
眺める――そう、この夢は自分が紡いでいるものではないという確信がレンにはあった。
このような光景は自分の内にはない。それに胸によぎるこの想いも自分のものではないと、鮮やかな青と緑の中に在るものに視線を向けてレンは思う。
レンの胸をよぎる想い――気高く真摯で切なる『祈り』。その主はきっと、鮮やかな青と緑の中に在るものに違いない。
鮮やかな青と緑の中に在るものはいつも同じではないのだけれども。
ある時は、真白いコートを風にたなびかせ、すっくと真っ直ぐに立つ男の人。
ある時は、天を仰ぐ、真白い翼の大鳥(おおとり)。
けれど、レンが感じる祈りはいつも同じ――
『……願わくば……過ちの……繰り返されぬことを……』
祈りの言葉がレンの心にこだまする。
やさしくあたたかい心から生じる祈り。
『……現世は美しく……人間は懸命に前へと進もうとしている……故に、どうか……』
鮮やかな青と緑の中に在るのが男であっても、大鳥であっても、その眼は遙か彼方へと向けられ、祈り続けている。
『……正しき道を……歩まんことを……』
レンは、気づいた。
ごくまれに、月に――いや、数ヶ月、半年に一度、あるか、ないか。ふっと嘉神の表情が変わることがあることを。
四神の一人、朱雀の守護神としての役目に就いているとき。
「大会」の会場を訪れたとき。
街を、外を、出歩いているとき。
二人の、お茶の時間を過ごすとき――
時も、場所も、決まっていない。
街や「大会」会場のあちこちに置かれたモニターに映し出されるニュース。
売られている、誰かが読んでいる新聞。
人の会話の端々に昇る事柄。
それらから流れてくる、見える、聞こえる、『人』の有り様。
日常、と言えばそうなのだろう。日々当たり前に、世界のどこかであったことが、伝えられる。
善いこと。楽しいこと。美しいこと。
悪いこと。いやなこと。醜いこと。
ある意味誤魔化しなく、赤裸々に、垂れ流される。大量に、津波のように、嵐のように。
望まなくても、拒みたいと思っても、この世界で生きる以上、目にし、耳にしてしまう『世界のどこかであった、人の有り様』。
それらに触れ続ける中で、不意に、唐突に、嘉神の表情が変わる。
大きく顔色を変えるわけではない。ほんの僅か、眉間にしわを寄せ、ひどく遠くを見るような目をする。
碧の目は憤っているようで、悲しんでいるようで――とても、寂しそうで。
けれど。
音にならない、空を震わせることすらない溜息を、一つだけ。
それで、おしまい。嘉神の表情は《戻る》。
何も言わない。何も見せない。何事もなかったかのように。
たぶん、瞬き数度程度の短い短い時間に始まって、終わってしまうこと。
誰も気づかず、気に留めることもない――
けれどレンは、気づいた。
遅かったかもしれない。気づいてはいけなかったのかもしれない。
でも、気づけたから。
何も言わない。何も見せない。何事もなかったかのような顔をする嘉神の左の手を、そっと、握った。
「……レン?」
怪訝に、本当に怪訝な様子で、つまりレンの行動の意図、理由をわかっていない嘉神の顔。
――仕方がない、人。
呆れと、心配と、愛しさと。まぜこぜになった気分で嘉神の手を握る手に力を込める。
「【だいじょうぶ】」
憤り、悲しみ、寂しく思う。無力感に苛まれもしている。けれど嘉神は決して諦めも絶望もしていない。
『……願わくば……』
夢に見たあの人(とり)――嘉神慎之介は、祈りを止めたりしない。
だからレンはただ、寄り添うのだ。
励ますでなく、慰めるでなく。ただ「だいじょうぶ」と嘉神の手を握り、見上げ、ほんのりと笑みかける。
「……レン?」
顔に浮かぶ怪訝に戸惑いを加え、嘉神が首を僅かに捻る。
レンは無言で、笑みを浮かべたまま、もう一度嘉神の手を握る手に力を込めた。
「【だいじょうぶ】」
「……」
ちらと、レンに握られた己の手を嘉神は見やり。
「……そうか」
低く、ぼそりと、呟いた。
その口の端にやわらかな笑みの欠片をレンは見つけた。
その夜、レンは夢を見た。
鮮やかな青と緑広がる世界を風が駆け抜け、嘉神慎之介はその中に在る。
――……希望の、失われぬことを……
『祈り』を抱き、嘉神は視線を動かす。
傍らに寄り添うレンへと。
視線を向けた嘉神の手にレンは触れ、握る。
そっと、優しく。
そしてレンは理解した。
これは自分の夢なのだと。自分の夢であり、嘉神の夢でもあるのだと。
それが何とはなしに嬉しくて、レンは自分を見つめる嘉神を見上げ、ほんのりと笑みを浮かべた。
現の昼と同じように。
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