朱雀の見る夢 生きる現

 長い夢を見ていた、と嘉神慎之介は思った。目覚めてしまえば記憶も薄れ、あやふやになって消えていく儚い夢を。
 開いた目をゆっくりと動かす。見慣れた屋敷の居間。長椅子に腰掛けていた己がうたた寝から目覚めたところだと自覚する。
 部屋にいるのは嘉神一人。壁の時計に目をやれば三時になろうとしている。
――三時……
 この時間は夢の中では何か日々繰り返したことがあったような、大切なことがあったような気がする――妙に落ち着かない気分で嘉神は長椅子から立ち上がり、何をしようとしているのかと眉を寄せた。
――何もない。何も、あるはずもない。
 朱雀の守護神として地獄門の封印を監視し、その為に己が技を磨き知を求む。それ以外、嘉神の日々にはない。特別と言える時などない。
――今日は。
 だというのに、ふいと言葉が浮かぶ。遠くで何かが聞こえた気がする。澄んだ響きのそれを、嘉神はよく知って――
――今日は、如月の二十二日。
響きに導かれたかのように浮かんだのは今日の日付。何故そんなものが浮かんだのか嘉神にはさっぱりわからない。
 今年の如月二十二日は雨水より三日後だ。冬から春へと季節が流転していく。啓蟄までは十日あまり。気の流れが速く不安定になるこの時期、地獄門の様子には気を配らなければならない。
 それが朱雀の守護神たる嘉神の役目であり、生きる理由、意味である。朱雀の守護神であること以外は嘉神にとって不要なこと。
――不要……不要、か。
 幽かな、それは本当に幽かな違和感だった。気のせいと思えばそれで終わってしまえる程度の違和感。だが何故か、嘉神は覚えた違和感を無視できなかった。
 落ち着かない気分。聞こえたかもしれない音。今日の日付。
 己にとって不要なこと――
――何故……不要なのだ……?
 何故「不要」と意識するのか。己が朱雀の守護神であることは嘉神にとっては呼吸するのと同じぐらい当たり前のことだ。朱雀の守護神として以外の生き方など知らない。逆に言うならば、殊更にそうでない己を不要と断じる必要はない。
 だというのに不要だと思った。それではまるで――
――まるで、私が朱雀の守護神である以外の己を知っているかのようではないか。
「何を、馬鹿な……」
 口をついた言葉には力がなかった。既に嘉神は理解している。
「……だが、私は……知っている……」
 部屋を見回す。
 嘉神以外、誰もいない。
――だが本当は――がいる。
 壁の時計が三時の鐘を鳴らす。
 ただ時を刻むだけの音。
――だが本当は――の時が来たことを告げている。
「私は……」

――朱雀の守護神であるだけでない私を、知っている。

――私は夢を見ていたのではない。現の世に、生きている。

 音が、響いた。
 空間を振るわせ。嘉神の内で。
――……この、音は。
 澄んだ音を、再び嘉神は聞いた。
――これは、鈴の音。
 鈴の音が自分を呼んでいる――いや、待っているのだと何故か嘉神は確信していた。
 自然と足が動く。扉へと向かう。鈴の音は、その音の主はそこにいる。
 会いたい、ではなかった。
 会わなければならない、でもなかった。
 嘉神を突き動かしていたのは、
――戻らねば。
この、想い。

『使命のままに生きるのが望みではなくて?
 そう生きる方が楽ではないのかしら?』

 女の声だった。
 猫が鼠に戯れ、弄ぶようでいてどこか冷えた、試すような声だった。
「望みではない」
 歩みを止めず、嘉神は声に応える。
「私はそう在る者だった。朱雀の守護神として生きる他を知らなかった。だが……そうだな」
 宙を見上げた嘉神の口の端には、苦笑。呆れを含んだ苦笑は声の主に向けたものか、それとも己に向けたものか。
「それのみで生きるのは自覚の有無はどうあれ、楽ではあったのだろうな」
 余計な一切のない、朱雀の守護神として在る生。常世に染まり、堕ちた時でさえ、嘉神慎之介は朱雀の守護神であった。

『じゃあずっとそう生きればいいじゃない』

「そうできるほど私は……私は、出来た人間ではなかったということだ」
 嘉神の手が扉のノブにかかる。躊躇も逡巡もなくノブを回し、嘉神は扉を開いた。

『出来た人間ではない……ね。フフ、貴方にしては面白い言い回しだわ』

 女の声は笑い――

「黙れ」
 呟いて嘉神は目を開いた。

 目を開けば、赤が、そこに在った。
 夕暮れ、闇の帳が広がっていく直前の、鮮烈な赤――夕日の赤と同じ色。
「……?」
 赤が、傾く。「【大丈夫?】」と問いかけているのだと気づいて嘉神は一つ頷いて見せた。
「心配ない」
 ほっ、と赤の主は、嘉神の顔を覗き込んでいる青銀の髪と黒衣の少女――レンは安堵の息をつく。
「少しうたた寝をしていたようだ」
 応えながら視線を走らせば、そこは見慣れた己が屋敷の居間。長椅子に凭れて座っている自分を嘉神は自覚する。
――夢を見ていたか。
 目覚めてしまえば記憶も薄れ、あやふやになって消えていく夢。
 だが、わかっていることもある。あれは嘉神の内より生じた夢ではない。
――それは、後のことだ。
 壁の柱時計が三時の鐘を打つ。茶の時間だ。夢のことよりも、今はこの現。
「……!」
 レンの表情がさっと輝く。眼の夕日の色が鮮やかさを増す。茶の時間はレンの日々の楽しみだが、今日は普段に輪をかけて嬉しそうだ。それはおそらく、
――今日は如月の二十二日――私の生まれ日だからか。
 雨水の後、啓蟄の前。嘉神が生を受けた日。
 毎年この日はレンが嘉神を祝ってくれる。今年もそうだろう。レンは嘉神に贈るものを用意し、茶の時間もいつもと違うものが並ぶ。そんな特別な日、いつしか嘉神自身も楽しみにするようになっていた日だ。
――今年はレンは何を用意しているのだろう。
 表情の薄さの中に機嫌の良さと心浮き立つ様があるレンを見つめつつ嘉神は思う。そんな嘉神の心に気づいたのだろう、にこりとレンは笑んで顔を近づけ――
「【ちょっと、待ってて】」
 やわらかなぬくもりと共に――どこに感じたかは嘉神は言わないだろう――レンの想いが伝わる。
 くるりと黒いスカートが翻る。ちりんと、澄んだ鈴の音が響く。すっかりと耳に馴染んだ、レンの鈴の音。
「……ああ」
 ささやかな動揺から己を立ち直らせつつ、嘉神は居間を弾んだ足取りで出ていくレンの背に頷いた。
――これが私の生きる現……だ。
 楽ではない。己が心と向かい合い、己が心に様々な波紋落とす者を受け入れ、向かい合うのは決して楽ではない――が、楽しくもある。心をざわめかされ、戸惑い、困惑もする。それでいて、心地よさもある。
 それこそが朱雀の守護神、嘉神慎之介が選んだ現。夢でも幻でもない、確かな日々。
――今更目を閉ざし、夢へと逃れるわけには、いくまい。
 この日々を、現を、選んだのは誰でもない、嘉神自身なのだから。

 クスクスと笑う女の声を聞いたように嘉神は思った。鬱陶しい、そう感じたがその声は不思議と不快ではなかった。

     § § §
 
 不快ではなかった。
 不快ではないが、けじめはつけねばならない。

 後日――
「どうぞ、そこに座って?」
 艶然とした笑みを浮かべたサキュバス、つまり夢魔であるモリガン・アーンスランドは嘉神慎之介に椅子を勧めた。
「結構。客のつもりはない」
 冷ややかに嘉神は立ったまま答える。
「では、何の用?」
「とぼけるか。先日私に夢を見せたのは貴様だろう」
「あら」
 僅か、モリガンは真顔になった。直後あげた楽しげな笑い声に、それはすぐさま消え失せたのだけれども。
「夢は儚いもの。冷めれば色褪せ消えていくもの。なのに私に気づいたなんて、さすがは朱雀の守護神様ねえ」
「答えろ。何を企んだ」
 モリガンとしては素直な賞賛だったのだが、嘉神はあっさりと無視して詰問する。
――こういうところはほんと、つまらない男。
「貴方の誕生日へのちょっとしたお祝いよ。レンとの時がもっと愛おしくなるようにって」
 笑みを残したままに言うモリガンの眼差しは、いつもと違って少しやさしい光が宿っていたが、嘉神はそれに気づくことはなく。ただ僅かに眉を寄せたのはモリガンの言葉への動揺か。
「……貴様らしからぬことを言う」
「信じてくれないの? 悲しいわ」
「信を得たければ普段の行いを省みることだな」
「サキュバスはひとときの夢に生きるのよ。省みるものなんてないの」
「……もういい。戯言を重ねる気はない。だが、私の夢に手を出すな」
「フフ、覚えておくわ。レンに怒られたくはないものね」
 今回のことはあの小さな夢魔は許してくれたようであるけれど。
「…………」
 視線の温度を更に下げてモリガンを睨み据えたが、嘉神はもう何も言うことはなく。
「用件は以上だ。失礼する」
 モリガンの返事を待つことなく踵を返し、去って行った。

「あらあら、怒っちゃったかしら」
 軽く肩をすくめはしたが、モリガンにはまるで気にした様子はない。
「でも……フフ、そうね、貴方の夢にはもう手は出さないわ、嘉神慎之介。
 だって」
 クスクスとモリガンは笑う。
「貴方の夢はとっても退屈。けれど、貴方の現は……そうね、たまに覗きたくなる程度には、楽しいもの。
 そちらを貴方が選んでくれてほんと、良かったわ。
 レンのためにも、ね」
 

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