渡せないもの
渡せないもの
それはある「大会」の控え室で起きたことだった。
話をしていた楓と斬真狼牙の会話に割って入った、低い声。
「何を愚かなことを」
荒げられたものではなかったが、その中には確かな怒りの色があった。瞬間的な感情の爆発ではなく、理性に抑制された静かな怒りはしかし、鋭い剣のように楓の胸を突く力を持っていた。
「……愚か、って」
驚きと当惑を表に、怒りに誘われて芽生えた罪悪感を内にしながら楓は声の主へと目を向ける。
「…………」
碧い眼は声と同じく静かな怒りを宿して楓を見据えていた。
「かが……」
声の、碧い眼の主の名をどうして口にしようとしたのか。不意の叱責に抗議しようとしたのか、叱責の理由を問おうとしたのか――楓自身にもわからない。
「貴様は、青龍の守護神だろう」
わかる前に彼――嘉神慎之介はそれだけ言い捨てて席を立つと白いコートの裾を翻し、早足に出て行ってしまった。
「どうしたんだろうな、あいつ」
「あ、うん……」
狼牙の声に、楓は嘉神が出ていったドアから視線を戻して曖昧に頷いた。
嘉神は確かに怒っていた。だがその理由がわからない。
今楓が話していた相手は嘉神ではないが、嘉神の座っていた位置から会話は聞こえていただろう。タイミングからして嘉神を怒らせたのは会話の内容のはず、なのだが。
「……そんな怒るようなこと話してたかなあ……?」
話していたのはついこの間、パートナーの扇奈に服をプレゼントされた――街で見つけて楓にぴったりだと思ったからだとか――のでそのお礼を何にしたらいいか、ということだ。たまたま「大会」でいっしょになった狼牙は扇奈と同じ世界の出身なので参考になると思って相談したのだ。
しかし楓も狼牙も嘉神の気に触ることを言った記憶はない。そもそも嘉神は基本的に他人の交友関係にあれこれ言うたちではないから先の会話を気にかけるとは楓には思えない。このMUGEN界には邪神や悪魔の化身なども普通に存在するものだから四神の守護神の一人として付き合う相手に問題があると判断したならそれも別だろうが、幸い、斬真狼牙はその類ではない。従って怒りの理由がさっぱり思いつかない。
だが嘉神は怒り、叱責した。激しさはなかったが声からも碧の目からも重く深い怒りを楓は感じた。
――……あの時嘉神は……
楓は小さく首を捻る。あの時の嘉神の様子に一つ、奇妙な点があるのを思い出したのだ。
嘉神は楓を見据え、叱責した。けれど、嘉神の怒りは楓だけに対してのものか、と言うとそうではない気もするのだ。狼牙に対しても怒っていたように楓には思える。
そうだったとしても、「何故か」と「何を」という疑問の答えは見つからないのだが――
「ごめん、ちょっと僕行ってくるよ。話の続きはまた今度で」
立ち上がり、楓は狼牙に軽く頭を下げて控え室を出た。
嘉神の怒り、そして立ち去る前に言った「貴様は、青龍の守護神だろう」という言葉。それを放っておいてはいけない、そう楓は思ったのだ。
嘉神の言ったとおり、楓は青龍の守護神なのだから。
確か、嘉神の試合はまだのはず。観客席に嘉神が行くとは思えないから他に行くとすればと楓が向かったのは入り口のホールだった。
試合中のためホールは静かで人も少ない。ホールの外壁部は全てガラスで、午後の日差しが緩やかに差し込んでいる。その光の中に嘉神慎之介は佇んでいた。
彫像のように無言で、身じろぎもせず佇む嘉神はガラスの向こうの街を、そこを行き交う人々を見つめている。
常世から解放された後、嘉神が人の世を見守って――いや、「見ていく」ことを決めたのだと楓は玄武の翁や養父慨世から聞いた。一度は見限った人の中にある善性を信じ、その歩みを見ていくことを嘉神は決めたのだと。
そんな嘉神の様子に自然と楓は足音を忍ばせていたが、嘉神は気配を感じ取ったらしい。まだ怒りは消えていなかったらしく、楓が近づくにつれ不快げに眉が寄せられた。
「嘉神」
「何用だ」
歩み寄った楓が声をかけるのと、外に目を向けたままの嘉神が口を開いたのは全く同時。
「あのさ、さっきのことなんだけど……」
同時に言葉を発したことと嘉神の不機嫌さに言葉を続ける気を失いかけたが、なんとか気を取り直して楓は嘉神の前に立った。
「僕……僕ら、かな、何か悪いこと言ったかな……?」
嘉神の視線が、外から楓へと向いた。更に眉間のしわが深くなる。
「まだわからぬのか」
「……うん」
その通りなのだから楓としては頷くしかない。その、あまりに素直な楓の様子に怒りを通り越してしまったのか、嘉神は一つ溜息をついた。
「ごめん」
溜息の重さについ楓が謝れば、嘉神の碧眼が楓を睨み付ける。
「事を理解していないのならばその謝罪は無意味だ」
「そうだね……」
「……」
つい、と嘉神は目をまた外へと向けた。その目が細められたのは日差しが眩しかったからか、それとも怒りのせいなのかは判然としない。
「先刻、斬真狼牙が言っただろう。
『お前自身をプレゼントにすればいい』と」
外を見つめたまま、怒りに呆れの色を声に含ませて嘉神は言った。
「うん」
「どう思った」
「どうって……狼牙らしいなぁ、とか」
「その程度か」
「その程度って……うん、まあ、狼牙の言うことだし、僕にはそういうのは無理だしね」
いくら相手が扇奈だと言っても自分をプレゼントなど気恥ずかしい。狼牙の提案はある意味健全である意味不健全なものを含んでいるのだからなおさらだ。故に楓には深く考えたり真面目に取り合うつもりはなかった。が、問うた嘉神の声が一段と低くなっていたことからすると、どうやらこれが怒りの種になっていたようだ。
「そうか」
少し嘉神の声と表情が和らいだ。楓にその気がないことで幾らか機嫌を直したらしい――が。
「でも嘉神、僕をプレゼントっていうのがどうして気に入らなかったんだ?」
何気ない、楓が興味から発した質問に緩みかけた嘉神の眉間のしわはぐっと深くなってしまった。
「よくも己が愚かさを晒せるものだな」
声も一段と低くなり、楓はまた頭を下げていた。
「……ごめん」
「我らは、四神の守護神」
ガラス越しに外を見つめていた嘉神の碧い眼が再度、真っ直ぐに楓に向けられた。
「四神より力を預かり、地獄門並びに現世の理を守護するが役目。身も魂も四神の役目に殉じるためにある。
誰かに己を与えることなどできぬ」
怒りを混じらせながらも教え諭すが如く重く静かに嘉神の声は楓の耳に響き、楓を見据える碧い眼は澄んでいた。常世に堕ちていた時でさえそうであったことを楓は思い出す。
――……ああ……そうか……
そこまで言われて、変わらない澄んだ眼を認識してようやく、楓は嘉神の怒りの理由を理解した。
嘉神慎之介は誰よりも己が役目、四神の守護神としての在り方に純粋に、潔癖なまでに忠実だ。かつての嘉神が常世に堕ちたのもその忠実さが理由の一つだと玄武の翁は言っていた。
そんな嘉神だ。楓と狼牙のやりとりが腹立たしいものであったことは想像に難くない。しかも楓は嘉神の怒りの理由、つまり自分達の会話の意味するところに――それが楓達には戯れだったとしても――思い至っていなかったのだ。四神の守護神の一人としての自覚が足りない愚か者めと怒りを向けられるのは当然だろう。
「嘉神、あなたが怒った理由はわかったよ。僕の考えが足りなかった。これからは気をつける」
素直に三度目、しかし今度は真摯に頭を下げたが、けれど――と、楓は思った。思ってしまった。
かつて、常世に堕ちた嘉神と対峙した時、あの澄んだ瞳に、知ったから。
そしてこのMUGEN界で嘉神が傍にいる者に向ける眼を知ったから。
「けれど……嘉神、あなたは思わないのか?」
「……何をだ」
嘉神が応えたのは、楓の問いに何かを感じたからだろうか。澄んだ碧の瞳に浮かぶ怒りの色が薄れる。問いの先を促すかのように。
「大切な人のために、自分の全てを懸けたい……とか」
自分をプレゼントというのは気恥ずかしいが、大切な者のために心身問わず力を尽くすと考えれば悪くない。そうしたいと思う相手も楓にはたくさんいる。
嘉神にも大切な者がいる。以前ならいざ知らず、今は間違いなくいる。嘉神がその一人に優しさと愛おしみを宿した眼差しを向けるのを楓は何度も見た。その一人――あの夢魔の少女にも、嘉神は己を与える、全てを懸けることはないというのか。
かつて楓は知った。嘉神がひとりであったことを。
このMUGEN界で楓は知った。今の嘉神がひとりではないことを。
だから楓は聞いてみたいと思ったのだ。思ってしまったのだ。
「…………」
一瞬、嘉神は楓から目を逸らした。ガラスの外をその目が見たように楓は思う。
「思わん」
その次の瞬間には澄んだ碧の瞳は楓を見据え、厳然とした冷ややかな声が僅かな揺らぎすらなく発せられた。
「下らぬことを問うな。そのようなことを問うなどまだ四神の自覚が持てんのか」
「ごめん」
四度目、頭を下げながらも楓は満足と安堵を覚えていた。
確かに言葉だけを捉えれば嘉神は己の大切な者であっても、自分の全てを懸けたりはしない、徹底して守護神としての在り方を貫くと見えるだろう。
――けれど。
嘉神の更なる怒りを招かないよう、緩みそうになる顔をなんとか真顔に保ちながら楓は思う。
答えの前、嘉神は楓から目を逸らし、即答しなかった。目を逸らしたのはほんの一瞬のことであったから、嘉神が何を思ったのかは楓には推し量ることすらできなかった。
しかしその一瞬の間は、潔癖なまでに守護神としての在り方に忠実な嘉神の見せた人としての迷いだと楓は確信していた。
言葉通り嘉神が守護神の在り方を貫き、己の全てを誰かのために懸けることがこれから先無いとしても、その心には誰か――それはきっとあの夢魔の少女――大切に想う者がある。
それがなんだか、楓には嬉しい。かつては仇と憎み、戦った相手だというのに。
「…………」
嘉神はまた、外に目を向けていた。
楓の思いや様子に気づいているかどうかは定かではない。
ただ、眉間のしわはそれほどは深くなかった。
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