枝垂れ揺れる若紫の中、二人
レンは数歩進んで振り返った。
隣を歩いていた嘉神の足が止まったことに気づいて。
「藤か」
左手方――神社がそこにあった――へ視線を向け、嘉神は呟く。
ふわりと風が吹く。
ゆらりと淡い紫の房の群れが、一斉に揺れる。
嘉神の視線を追い、レンはその様を目にする。
初夏のくっきりと澄んだ青の下の、やわらかな紫。
神社への境内へと続く階段の脇にずらりと設けられた、藤の棚。
「…………」
レンは嘉神を見上げた。まだ嘉神は藤を見ている。
ちりん、と鈴が鳴る。
とんとん、とレンは階段を数段駆け上がった。
「……レン?」
どうしたのだ、その意を含めて声をかけた嘉神に振り返り、レンは小首を傾げてみせる。
「見たいのか?」
こくり、とレンは頷きを返す。見たいのは慎之介でしょ、という思いは秘めて。
「そうか」
頷いた嘉神の口元がほんの僅か、綻ぶ。綻んだ口元が『私も見たいと思っていた』と答えている。
やっぱり、そう思いながらレンはたんたんと階段を登り始めた。
おそらく、ここの神社の神主は代々花好きなのだろう。
藤の向こうには赤い花を一杯に咲かせたツツジが見える。今はもう青々とした葉を茂らせているが、桜も梅も、桃もあるようだ。
「折々にここを訪れるのもよいやもしれんな」
階段を上がりきったところで、嘉神が呟くのをレンは聞いた。鳥居をくぐって入った境内には、階段周り以上に様々な花がある。嘉神が言うように季節折々に様々な花が咲き、来る者の目を楽しませるのだろう。
今もレン達と同じように花を見に来たと思われるものの姿がちらほらとある。祭か何かあればもっと人は増えるかもしれない。
「……ほう」
低く、嘉神が感嘆の声を洩らすのを聞き、レンは周囲を見回した。
「……」
ほう、と小さな吐息がレンの唇からも洩れ落ちる。
二人の視線の先には、紫の房の群れ。
階段脇にあったものよりずっと大きな藤棚が社殿の隣にある。レン達のいる位置からは果てが見えないほどにずっと、藤の花が続いている。
「…………」
ちりん、と鈴が鳴る。花に招かれたように自然とレンの足は動く。どれだけたくさんの花が咲いているのか、どこまで花房の群れが続いているのかを見たい、その思いがレンを動かす。
「待て、レン」
その足を止めたのは、嘉神の声。
「まずは、参拝を済ませてからだ。祀られた神に非礼はならん」
たしなめる声には、苦笑の響き。
「…………」
渋々レンは踵を返した。
嘉神の傍へ戻り、じ、と見つめる。
――本当は慎之介だってすぐに行きたいのに。
「む」
なんだ、と怪訝な顔をした嘉神に、レンはぷいとそっぽを向いた。
手水舎で身を浄め、社殿に祀られた神への拝礼を済ませる。
「……?」
いい? と嘉神を見上げて問い、その答え――「あぁ」と嘉神は頷いた――を見るか見ないかのうちに、ぱたぱたとレンは藤棚へと向かった。
「…………」
藤棚の下に駆け込んだレンの足は、自然に止まる。
見上げれば頭上に一杯の、淡い紫の房。ゆら、ゆらとあるかなしかの風に揺れる。天から日輪の光を伴った紫の雨が降ってくるようにも見える。
ぶんぶんと何か唸る音が聞こえる。その音があるせいか、揺れる紫の房は楽しげにも見える。
誘われるように両の手を掲げ、レンはぴょんと跳ねた。
さらりと手が紫に触れれば、ゆら、花が揺れる。
それがなんだかおもしろくって、ぴょん、ぴょんとレンは繰り返し繰り返し跳ねる。
レンの指が、手が触れるたびに、ゆら、ゆらと藤の花、紫の房が揺れる。おいでおいで、もっと遊ぼうと呼びかける。
呼びかけられ、誘われるままにレンは跳ね、藤棚の奥へ奥へと向かい――
「……レン?」
ぴた、とレンは動きを止めた。
聞こえた嘉神の声は、少し遠い。
声を追って振り返れば、藤棚の外に白い洋装が見える。
嘉神は藤棚の内へと入ってきていないのだ。
とてとてと、レンは嘉神の元へと走った。
「……?」
どうしたの? と嘉神を見上げる。
「お前が何をしていたのかと思ってな。すまんな、楽しみの邪魔をしてしまったか」
そういう嘉神の声のすまなさそうな響きの奥に、僅かに、安堵の色があったようにレンは思った。
「…………」
嘉神の手をレンは取り、くいと軽く引く。いっしょに行こう、と。
中から見た方が花を楽しめるし、レンは嘉神といっしょの方がいい。嘉神だってそのはずだ。
それに、嘉神が外にいては互いの姿が見えづらくなってしまう。
「いや」
小さく嘉神は首を振る。
「この藤棚は少し、低くてな。古いもののようだから仕方がないのだが……」
残念そうに呟きながら嘉神は空いている方の手で花の房に触れた。嘉神が言うようにこの藤棚は低いこともあって、レンよりずっと背の高い嘉神はなんの苦もなく紫の花房に触れられる。
――ずるい。
じぃ、と睨んでみても嘉神は気づかない。優しく花の房を撫でるように指を滑らせている。
「内からの眺めもさぞ見事なのだろうが、身をかがめていては満足に花を楽しめん。
私はここでいいから、レン、お前は……」
中で見ておいで、そう続くはずだった嘉神の言葉を、レンは遮った。
ぐいぐいと、嘉神の手を引くことで。
「待てレン、私はここでと……」
言葉を無視し、ぐいぐいぐいーとレンは嘉神を藤棚の下へと引っ張りこむ。
「レン、こら……っ」
はぁ、と一つ溜息。
それを合図に抵抗が消えた。
こっそりとレンが振り返れば、やれやれ、そう言いたげな顔の嘉神と視線が合う。
「……」
顔を前に向け、ぐいぐいとレンは嘉神を引っ張って行く。
その口元には、小さな笑み。喜びと満足の笑み。勝者の笑み。
そして、無邪気で無垢な笑み。
その笑みと共に嘉神の腕を引き、レンは淡い紫の房の群れの下をゆく。ぶんぶんとリズミカルに聞こえてくる音が、白い手袋越しに感じられる嘉神の生が、レンの足を弾ませる。
さっき花を見上げていたところを過ぎ、十分に奥まで来たところでようやくレンは足を止めた。
頭上はぐるりと若紫の花房。少し強い初夏の日差しも、葉と花を伝い降りた時にはやわらかさを帯びている。
花に覆われているせいだろう、大気にはほのかに甘さを含みつつも皐月の風のように爽やかな香りが漂う。
レンと嘉神以外、誰もここにはいない。
聞こえるのは、ぶんぶんと唸る音だけ。
くるりとレンは、嘉神に向き直った。
花房の群れに頭を突っ込まないよう身をかがめた嘉神の顔にあるのは、困ったような、だが優しく楽しげな色。
普段は見せない嘉神の顔。
どんな時に自分がこんな顔をするのか――いや、自分がこんな顔をしていることさえ、きっと嘉神は気づいていない。
それに気づくことができ、目にすることができる自分が得意で誇らしく、でもそんな気持ちは胸の内に隠して――まだ慎之介には秘密――レンは嘉神に向かって両手を少し広げて差し伸ばした。
「む」
嘉神の眉が寄る。それも当然だろう。身をかがめたままレンの要求を呑むのは難しい。
それでも構わず、元よりそれを承知でレンは、ん、と更に手を突き出した。
「…………」
碧い眼は無言の説得を試み。
「…………」
赤い眼は無言の要求を貫く。
無言の攻防はしばし続き――折れたのは、碧い眼。
更に身をかがめ、嘉神は小さなレンの体を抱き上げる。
普段通りに小鳥を腕に留まらせるようにレンを自分の左腕に座らせれば、慣れたものでレンは嘉神の首にするりと腕を回した。
レンを抱き上げてしまえば、自然、嘉神は背筋を伸ばさざるを得ない。垂れ下がる花房の群れに首を突っ込んでいる状態になる。
抱かれているレンもそうだ。嘉神と同じく花房の群れの中、さっきは下から見上げた紫の雨の中にいる。見上げていた時よりもはっきりと強い香が漂う中、淡い紫の花々がいらっしゃいと言うかのようにゆらんと揺れる。
手を伸ばし、花房の一つにそっとレンは触れた。優しく指を、少しひやりとする花に滑らせる。先程の嘉神のように。
――慎之介と、いっしょ。
レンはこうして嘉神に抱き上げられているのが好きだった。近くで顔を見られる、息づかいを感じられる、ぬくもりを感じられるからということもあるが、嘉神が見ている世界を見られるのが嬉しい。同じ高さで同じものを見て、同じように触れられるのが、嬉しい。
「蜂に気をつけるのだぞ」
言われてようやく、レンはずっと聞こえていたぶんぶんという羽音が蜂のものであると気づいた。よく見れば花房の間にちらちらと黄色と黒の姿がある。丸々とした大きなあれは、クマバチと言ったか。
「刺激しなければ大丈夫だが」
こくんと頷く代わりに、レンは嘉神にぎゅっと抱きつく。
蜂が恐いわけではない。ただ、そうしたかっただけだ。
ゆっくりと嘉神が歩みだした。頬を、髪を花に撫でられ、レンはくすぐったさに身じろいだ。
身じろぎつつ、ほんの僅かな震えを感じ取る。自分ではない。花でもない。ならばそれは。
「…………」
「こうして見る藤も良いものだな」
レンが顔を覗き込んだのと、こほん、と嘉神が一つ咳払いしたのは同時。
「紫の雨のようだ」
ぱち、と一つレンは瞬きをした。じ、と嘉神の顔を見つめる。
「レン?」
どうした、そう問う嘉神の首に、もう一度レンはぎゅっと抱きついた。
――……慎之介も、いっしょ。
同じことを思ったのが、感じていたのが、嬉しい。
「レン……」
ぽんぽん、と嘉神がレンの背を撫でる。
その手は嘉神に強く抱きついているレンをなだめようとするものであったけれど、とても優しい。
だからレンは、今度はきれいに嘉神が自分の身じろぎも震えを隠してしまったことに気づかなかった。
ふわりと風が吹く。再び嘉神が歩み出す。
風に、嘉神の歩みに、ゆらりと淡い紫の房の群れが揺れる。
レンの、嘉神の、髪を、頬をくすぐる。
けれど揺れて嘉神をくすぐるのは紫の花房だけではなく。
それは、いたずらで無垢な少女の青銀の髪。
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