やさしいうた〜黒猫の唄〜
朱雀の守護神、嘉神慎之介は眠っている。
自分の屋敷の居間のソファの上に横になって眠っている。穏やかな午後の一時、ここ数日の忙しさからの疲れを癒そうと、軽い仮眠のつもりだ。
コートを脱ぎ、タイを緩め、手袋も取った楽な格好でソファの肘掛けに置いたクッションを枕に、両の手は腹の上で軽く指を絡めた状態で静かな寝息を嘉神は立てている。
居間の扉が開いた。ちりん、と鈴が鳴り、この屋敷で嘉神と共に暮らしているレンがひょこと顔を覗かせる。嘉神の姿を認めるといそいそと、しかし眠っていることを察して足音は忍ばせ、歩み寄る。
レンが近づいても嘉神は目を覚まさない。
「…………」
ソファの前でぺたんと腰を下ろし、レンはそっと嘉神の寝顔を覗き込んだ。
レンの吐息がかかるほどに顔を寄せても、嘉神は目を覚まさない。普段の怜悧冷静な表情とは違い、穏やかな寝顔は無防備にさえ見える。
目を覚まさないのはよほど疲れているからなのか、それとも自分だからなのか、どちらなのだろうとレンは思いつつ、嘉神の眠りを見守る。
「……っ」
不意に幽かな声を洩らし、眠る嘉神が苦しげに眉を寄せた。腹の上で組んだ手に力がこもる。
――慎之介……っ
顔を曇らせ、レンは嘉神の額に手を置いた。嘉神が目を覚ます気配はない。ただ、眠りにありながら嘉神が声を抑え込むように歯を食いしばったのをレンは感じた。
――……また、この夢……
嘉神に触れただけでもその夢の気配はレンに伝わってくる。レンが知る限り、三度目の夢。それは直接覗かなくても肌が泡立ち体が震える、恐ろしく忌まわしく、おぞましい夢の気配だ。
嘉神がかつて垣間見た、常世の様の夢。嘉神を捕らえて放すことのない凄惨な光景の夢。
人の醜い負の感情が犯す罪、過ち全てが永遠に繰り広げられ続けるその様は、地獄門の封印が完全に為されても嘉神の記憶から消えることはない。普段意識することはあまりないようだが、まれにその記憶は悪夢の形で嘉神をさいなんでいるらしい。
らしい、というのは嘉神は自分が見た悪夢のことを口にしないからだ。以前、悪夢にうなされた嘉神を心配してレンが問うても決して答えてくれなかった。「心配させてすまない」、言うのはそれだけだった。
心配しているのに話してくれないことをレンは不満に思い、次に嘉神がうなされた時に夢を覗いた。
思い出したくない悪夢だった。夢を操る夢魔であるレンでさえ危うく呑まれそうになったほどに恐ろしく忌まわしくおぞましい悪夢だった。
あの時は夢を覗くレンの怯えが夢に干渉する形となり、それが嘉神の目を覚まさせたことで助かったのだが、それはレンの心と夢魔としてのプライドにいささかの傷をつけた。
傷は、夢の恐ろしさによるものではない。
――わたしがいるのに、慎之介が夢で苦しむなんて、駄目。
嘉神が言わない理由はレンにも分かる。嘉神が助けを求めない理由もレンにも分かる。レンに心配させまいとし、また嘉神のプライドが自分の苦しみを口にすることを阻んでいるのだ。
――でも、駄目。そんなの駄目。
レンは夢魔の力を嘉神の夢へと注いだ。
――わたしが慎之介を守る。慎之介は悪い夢なんて見なくていいの。
この悪夢を完全に嘉神から払うことはレンの力を持っても難しい。それだけ強烈に嘉神の記憶、心に焼き付いた光景だ。
しかし嘉神の中からあの光景を消し去れないのなら、嘉神が悪夢を見る度に塗り替えればいい。何度でも、何度でも。
――またこの夢か。
嘉神の意識の片隅が呟く。しかし意識の大半は眼前の光景に絡め取られ、己の呟きすら聞いていない。
嘉神の前に広がるのは常世の入り口の光景。
死んで現世を離れる人の魂が落としていった負の感情や罪が凝縮した光景。
憎み、怒り、妬み、羨み、欲し、蔑み、嘲り――種々様々な負の感情を露わにした「人」の群れが互いに奪い、傷つけ、殺し、犯し、食らい、貪り、終わることのない地獄絵図を繰り広げる。
――……人は、醜い……
違う、と嘉神の意識のどこかが叫ぶが、この光景を前にそれはあまりに虚しく力なく、嘉神を動かすには足りない。
嘉神は両の拳を握った。内からわき上がる怒りと嫌悪、不快感が絶望を生み憎悪に転じていくのを抑えられない。
碧い眼が冷たい光を帯びた。視線の先にあるのは、小さな少女を蹂躙する男の姿。かけがえのない大切なものすら、己が欲望の元に踏みにじる醜悪そのものな姿。
――人は……「私は」……なんと醜く、穢らわしいのか……!
ごお、っと音を立てて青い炎、常世の炎が、嘉神の周囲で踊った。
――また繰り返すのか。
意識の片隅で無力な声が呟く。凄惨な常世の光景よりなお厭わしいのは、守るべきものも愛しいものも見失い、絶望に屈し憎悪に狂う己の弱さ。
この先にあるのは、慈しみ、愛おしんだ者さえも己が手にかけ、虚無の荒野に一人立つ悪夢だけ。
――それこそ真の絶望であることを、「私」は何故気づかない……
誰かの――己の――声を聞いたような気がしたが、炎の唸りにかき消される。
――滅ぼしてくれよう、全て、何もかも……!
ちりん――
澄んだ小さな、この地獄絵図では到底あり得るはずのない美しい鈴の音が、怨嗟や嘆き、怒号を超えて響いた。
ちりん、りんと鈴は鳴り続け、その音が呼んだかのように白いかけらがひらりと天から舞い降りる。
――これ、は……
嘉神は天を仰いだ。天からは無数の白いかけら――雪が次々に舞い降りてくる。嘉神の視界はあっという間に白に染まり、醜き人の様も、その上げる声も雪の中に消えていく。
――……唄が、聞こえる……
鈴の音と共に、舞う雪の狭間からやさしく穏やかな旋律に踊る澄んだ声を嘉神は聞いた。なんと歌っているのかはわからない。確かにそれは「唄」であるのに、音として捉えられない不可思議な、それでいて何処か懐かしい響きであった。
――……私は……
嘉神は掌に雪を受け止めた。白い手袋をはめた嘉神の手の上で雪はしばし形をとどめ、やがてすうっと消え失せる。消えた後へまた新たな雪が舞い降りる。
捕らえがたくも確かに存在する雪と、唄と。
――私はこの雪を、この唄、この声を知っている……
認識と共に嘉神の胸の内に明かりが灯った。小さな、しかし確かなぬくもりを持った明かりが、嘉神の心を埋め尽くさんとしていた憎悪や狂気を雪が溶けるかのごとく薄れさせていく。
青い炎が、消えた。
いつしか世界は白一色に埋め尽くされ、常世の光景はどこにもない。
優しく響く唄が嘉神を包みこむ。嘉神の胸の内の明かりは光となり、唄と共鳴するかの如く嘉神を満たしていく。
――あたたかい。
それは常世にはない、人のぬくもり。どれほどの悪を、どれほどの醜さを持とうとも、「人」から消えることのないもの。
――忘れては、ならぬもの。
この雪は、唄は、それを思い出させてくれる。常世の光景に何度嘉神が人に絶望し、憎もうとも。
「――」
嘉神の唇が小さく動いた。愛しいその名、忘れてはならないものの象徴でもあるその名を口にする。
碧い目が閉じた。降りしきる雪を、優しい唄を受け止めるように嘉神は腕を広げる。
――私は……守られているのだな……
それは幾分の情けなさと、喜びを伴う認識。ほんの僅かな危機感を覚える、甘美な安らぎ。
たまらなく魅力的で優しいぬくもりに、情けない思いも危機感も今は忘れようと嘉神は思った。
「――レン――」
もう一度その名を口にして、嘉神は雪と唄に己を委ねた。
ふうっと嘉神の体から力が抜ける。表情が和らぎ、眉間のしわも消えた。穏やかさを取り戻した寝息が静かに繰り返される。
心配そうに見守っていたレンは、ほ、と小さな吐息を洩らした。
「…………」
レンは肩から力を抜き、嘉神の額に触れていた手を離し、嘉神の胸元に頭をもたれさせた。嘉神の心音が緩やかに落ち着いていくのを感じながら、その寝顔を見守る。
レンの小さな唇が薄く開いた。そこから流れ出るのは音のない、優しい唄。嘉神の夢に響く唄。
前に、嘉神が歌ってくれた唄。
――慎之介はわたしが守るから。だから、安心して眠って。
そんな想いを乗せ、レンは歌う。嘉神の見る、白く静かな夢に届けるために。
――今は貴方には安らかな眠りの夢を。
「楽しい」夢はまたの夜に。
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