優しい手は冷たく すがる手は熱く

 細く開いたドアから音を立てないようにするりと黒猫の姿のレンは室内に身を滑り込ませた。レンと入れ違いに部屋を出た式神の使用人がドアを閉める。
 よく暖められ、湿度も保たれた部屋は静かだった。聞こえるのは、浅く早い息づかいだけ。
 足音を立てない猫の足でなお静かに、ひっそりとレンは歩んで部屋の奥のベッドへと近づく。
 浅く早い息づかいの主が、そこにいる。心地よい安らぎの眠りにあるのではない。息づかいが示す通り、彼は――嘉神慎之介は病魔による高熱に浮かされ、ただ意識を手放していた。
 黒猫の姿のまま、音もなくレンはベッドに飛び乗った。ゆっくりと、例え眠りにあるのでなくても嘉神の目を覚まさせないよう細心の注意を払って近づく。
 嘉神は普段とは違い、横を、偶然だろうが近づいたレンの方を向いて眠っていた。体が辛いせいだろう、意識が無くとも眉間にしわが寄っている。
 てし。
 左の前足をレンは嘉神の、そのしわが寄った眉間に押し当てた。高い熱が肉球を通して伝わってくる。
「…………」
 レンの姿が淡い光に包まれた。黒猫の姿が崩れ、見る間に少女のものへと変わっていく。左手で嘉神の額に触れたままの少女のレンの表情にあるのは、心配と不安。
 医者が処方した薬を飲んで休んでいればその内治る、だから心配するなと横になる前の嘉神は言っていた。だがこの苦しげな様を目にし、嘉神の身を犯す熱を感じてどうしてレンが心配せずにいられようか。
 先にああ言った時は熱のせいで顔は赤かったものの、いつもと変わりなく嘉神は振る舞っていた。だが今思い返し、レンにもようやくわかった。レンに心配させまいと、どれだけあの時の嘉神が無理をしていたのか――
「――――」
 レンの唇が声を伴うことなく、小さく動く。慎之介、と。
 嘉神は応えない。部屋に響くのは浅く速い呼吸音だけ。
 いつもならレンの声なき声を聴いてくれる優しい朱雀の守護神の意識は熱にさらわれ闇に堕ちたままだ。
 わかっていても少女の表情の陰りは濃さを増す。
 レンは嘉神の額から手を離し、嘉神の首筋に触れる。熱に肌が紅潮しているせいか、そこにある古い傷痕は目立って見えた。
 傷痕を、指で辿る。
 首の皮膚は薄い。周囲の肌より僅かに隆起している傷痕の部分でさえ、肌の下の血液の流れをレンははっきりと感じ取れる。流れる血は大量で、熱い。命の流れが熱を運び、嘉神の苦痛の原因となっている。
 レンは僅かに目を伏せる。意識を軽く集中すれば、手に青白いほのかな光が宿った。
 それは夢魔であり、精神への干渉に秀でているレンが自らの心象風景――真夏の日輪の下に広がる穢れ無き雪原――より汲み上げた冷たき力。その力で嘉神の額と首筋を冷やす。嘉神の命の流れが今度はこの冷気を全身に巡らせ、少しでも苦しみを和らげてくれるはずだ。
 冷やしすぎないように気をつけつつ僅かな変化も見逃さないように意識を懲らし、レンは嘉神を見つめた。

 不意に、繰り返される浅く速い呼吸が、止まった。

「…………っ」
 息を詰め、レンは嘉神に顔を寄せる。
 微かに、幽かに嘉神の唇から息が洩れた。
 吐息は心地よさを語ったとレンは感じた。眉間のしわも幾分浅くなったようだ。
 少女の心に安堵が芽生える。
 間を置かずに浅く速い呼吸が再開されても、レンの表情は曇らなかった。優しく嘉神の首筋を冷やし続ける。
 嘉神がほんの僅か、身じろいだ。その身じろぎが、もっと、とせがんでいるようにレンには思え、小さな口の端に笑みが宿り――ふとレンは嘉神の首筋から手を離した。掛け布団の端を握り、軽く引っ張り上げる。嘉神が身じろいだせいか、それとも最初からそうで気持ちに余裕ができたから気になったのか、布団が少し下がっていたようにレンには見えたのだ。
 それは本当に何気ない動きだった。レンは嘉神を冷やすのをやめるつもりなどまるでなかった。ただ布団がずれているのが気になった、それだけの動きでしかなかった。
 だというのに――
 ちりん、と鳴った鈴は、レンの戸惑いを表したかのよう。
 小首を傾げたレンの唇が「【慎之介?】」と動いた。
 手首に感じる熱。朧な碧が、レンを見る。
 手首の熱の元は、嘉神の手。嘉神の手がレンの手首を握っていた。
 普段と異なり力弱く、頼りなく握る嘉神の手は、レンでもその気になれば簡単に振り払えることだろう。もっともその「その気」が起きるはずもなく、ただレンは、うっすらと開いた嘉神の碧眼を見つめていた。
 レンを見ているのか見ていないのか、そもそもそこにいるのがレンと認識しているのか、熱に視点が定まっていない碧からはわからない。それでも嘉神の碧はレンを映してはいる。映したまま、小さく冷たい少女の手を掴んだ手を緩慢に動かす。

 何か確かめるように、慈しむように、そしてすがるように、嘉神はレンの手を己の頬に押し当てた。

 嘉神の表情が綻ぶ。
 あぁ、と。
 熱を含んだ息と共に、そんな声を嘉神はこぼしたようだった。闇夜に迷った幼子が、明かりを見つけたかのような、安堵の声。そう、レンは思う。
 そう思ったことが、胸に抱く想いのままにレンの体を動かした。
 嘉神に左手を取らせたまま、身を低くして右手で嘉神の頭を胸元に抱く。
 そしてレンは、嘉神の髪へ口づけを落とした。





 嘉神慎之介は目を開いた。
 目の前には、黒。夜か、とまだ覚醒しきらない頭で思う。
 ぼんやりとそのまま、嘉神は黒を見つめた。この黒は、やわらかいと思う。あたたかく、やわらかい黒なのだと思い――
 驚き、疑問、戸惑いが一気に駆け抜ける。一気に目が覚める。
 最後に残った言いようのない気恥ずかしさの中で嘉神は理解した。
 後は確認だ。
 視線をゆっくりと動かせば、そこには思った通りの光景が見える。
 すうすうと、穏やかな寝息を立てて眠る少女――レン。そのレンの胸元に嘉神は頭を抱き寄せられている。
 熱ではない理由で頬に朱を宿し、嘉神はレンの頬に触れた。少女の肌は少し、ひやりと冷えている。
「これではお前の方が体を壊すぞ」
 呟いてもレンに反応はない。よほど深く眠っているのだろう。
 仕方がない、と嘉神はそろそろとレンから身を離した。高熱が抜けた後特有の体のだるさはあるが、それ以外は問題ない。病は癒えたようだ。
――レンのおかげか……
 熱に浮かされた朧な記憶の中で、涼やかな安らぎを感じたことを嘉神は覚えている。優しく、心地よく――愛おしく嘉神には感じられたあれは、もしレンがここにいなければ夢だと思っていたことだろう。
 薄い苦笑が嘉神の口の端に浮かんだ。それは自嘲でもあり、諦念でもあり、つまりは、自らの敗北を認めたが故のもの。
 この小さな少女を自分がどれほどに愛おしく想い、必要としているかを改めて思い知ったが故のもの。
 やれやれ、と一つ嘉神は息をつく。そっと、レンの小さな体を抱き上げ、寝かせ直してやる。
 体が温まるようにとレンに布団を掛けてやり、自分はベッドから出ようとした嘉神の動きは、あっさりと阻まれた。
 レンは眠っている。確かに眠っている。そのはずなのに、一体いつの間にそうしたのか。
 きゅ、とレンの手が嘉神の寝衣の袖を握りしめていた。
 何か確かめるように、慈しむように、そして捕らえるように。
「…………」
 しばし、無言で嘉神はレンの寝顔を見つめた。幼い寝顔は、なんだか笑んでいるように見える。その笑みの分だけ、大人びても見える。
 やれやれ、ともう一つ嘉神は息をつく。レンに袖を掴ませたまま、またそろそろと布団に潜り込む。熱は引いたとはいえ、まだ自分にも休息は必要だと言い聞かせながら。
 目を閉じる前に、嘉神は袖を掴むレンの手に触れた。
 小さな手はひんやりと冷たく、しかしあたたかいと嘉神は思った。
 

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