その傷痕に思うもの〜あなたの傍に〜

 嘉神が無造作に投げた白いコートはソファの背にばさりと落ちた。
 続いて白い手袋もコートの上に投げる。
 ぞんざいにタイの結び目に指を差し込んで緩め、外しながら、嘉神はどっかりとソファに腰を下ろした。
 ほどいたタイもコートの上に置き、嘉神は身を沈めるようにソファの背にもたれる。その顔にあるのは疲労の色。
 こんな風に嘉神が疲労を見せるのはほとんどない。忙しく、疲れているときでも嘉神の物腰からスマートさは失われないのが常だ。
 レンが今のような嘉神を以前に見たのは、たった一度きりのこと。
 あの時は地獄門絡みのことで何か事件が起きたとかだった。朝早く一人で嘉神は出かけ、戻ってきたときは今のように物も言わずにコートを脱いでソファに座り、ずっと無言だった。レンが傍に来てもろくな反応を示さず、小一時間ほどただそうしていた。その後もあまり口をきかず、食事を終えると早々に休んでしまった。
 幸い、翌朝には昨日のことが嘘だったかのようにいつも通りの嘉神に戻っていたのだが。ただレンに「昨日はすまなかった」と言ってきたことから、自分の態度がいつもとは違っていたという自覚は嘉神にもあったらしい。
 何があったのか、何を考えていたのかは話してくれなかったが。
 今回もまたそうだ。地獄門に絡む事件が起きたと一人で嘉神は出かけ、帰ると一人で塞ぎ込んでいる。
――……慎之介……
 ちょこん、とレンは嘉神の右隣に腰を下ろした。嘉神はレンに僅かに視線を向けはしたが何も言わない。
「…………」
 無言のまま天井に視線を戻した嘉神の横顔をレンは見つめる。視線こそ天井に向いてはいるが、おそらく嘉神は何も見ていないだろう。
――何があったの……?
 気にはなるが、今は問えない。今レンが問うても嘉神は答えてはくれまい。しかし明日になれば問う機会そのものが失われる。
 結局今できるのはささやかな、しかしおそらくは確かな推測だけ。
――……きっと、地獄門のこと……今日、何かがあった……
 常世に見た「人」という存在の負の様に絶望し、憎悪し、「人」を滅ぼそうとかつての嘉神が開こうとした、常世と現世を分かつ地獄門。己の野望、「人」から見れば暴走であり凶行を阻まれた嘉神はそこに身を投げた。
 しかし嘉神は運命と因果の巡り合わせで現世へと戻り――嘉神曰く「生かされた」――今度は現世を護るためにその力を振るい、四神の一人として封印の儀を執り行った。
 何によって考えを変えたのか、今の現世を、「人を」どう見ているのか、過去の己が行為をどう思っているのか、いずれについても嘉神は多くを語らない。
 多くを語らず、今の嘉神は朱雀の顕す徳「忠」そのままに四神としての役割を務め、果たしている。そうする道を嘉神は選んだ。
――慎之介は強いから過去に潰されはしない。過去から逃げもしない……でも。
 嘉神が行くその道がどんなものか、傍らにいるレンにすら全てはわからない。わからないが、目に見えぬその道は平坦というわけではないのだろうと今の嘉神の姿にレンは思う。今日のように、以前のあの日のように、嘉神を塞ぎ込ませる何かが起きることがあるのだと。
 嘉神はそれを一人で越えていく。一人で背負っていく。
――……一人で。
 天井に視線を向けたままの嘉神の右手が、ふいと動いた。その手は己の首筋に触れる。丁度レンが見ている方、右側。
 触れたそこには傷痕があるのをレンは知っている。普段はシャツやコートの襟に隠れたそこにある、古い刀傷。
 嘉神が常世に心奪われていた頃、同じ四神の青龍――慨世を斬ったときに受けた傷。とは言っても慨世に斬られた傷ではない。その養い子であった御名方守矢に斬られた傷だという。
 傷はとうの昔に癒えているが、その痕は消えることなく嘉神の体に残った。
 地獄門が閉ざされ、世に平穏が訪れ、多くの人々の中から、世界の様からかの災厄、嘉神の罪の記憶が薄れ、消えても、嘉神からは消えることのない傷痕。それは嘉神の記憶、意識、心からもあの時のこと全てが決して消えないことを示すかのよう。
 その傷痕に触れたまま、嘉神は無言でいる。宙に目を向け何か考えているのか、何も考えていないのか、レンにはわからない。
 嘉神に今日何があったのか、何を思うのか、何を抱え、背負っているのか。
――わたしには、わからない。
 わかるのは、今の嘉神が一人であること。
 傍にレンがいてさえも。
 ちくんと胸が痛むのをレンは感じた。
――わたしは、ここにいるのに。
「…………」
 ちりん、と鈴の音響かせてレンはソファから滑り降りた。
 足が床に着くのと同時にかかとを軸にくるりと回り、嘉神に向き直る。
 緩慢に自分に向けられる嘉神の碧い目を見つめ、レンは嘉神の膝に触れた。触れたその手に力を込める。
「……?」
 訝しげに嘉神の眉が寄せられる中、触れた手を支点に軽やかにレンは嘉神の足の上に飛び乗った。
「レン……なんだ?」
 問う嘉神に構わず、レンは顔を嘉神に寄せる。嘉神はただレンを見ているだけだ。普段なら見せる照れや狼狽は欠片もない。そんな余裕すら――そう、あれは嘉神にそれだけの気持ちの余裕があるから見せる反応。あるからこそ失われるのだ――今の嘉神にはない。
 互いの鼻先が触れそうなほどに近くまで顔を寄せたところで、レンは一度動きを止めた。
 夏の空に似た嘉神の碧い眼、いつもと違い、濃い陰を宿したそれを見つめたまま、レンは嘉神の右手、首筋の傷痕に触れたままの手に自分の手を重ねた。重ねた手をやわらかく握り、傷痕から離させる。
 露わになった嘉神の傷痕、古い刀傷。嘉神に刻まれた、嘉神の過去の象徴たる傷痕にレンはゆっくりと顔を近づける。可能な限り嘉神の目を見つめ、視線を捉え続け――
 そっと、やさしく、口づけた。

 風が撫でるような、触れるだけのキス。

 嘉神の肩が一瞬小さく震える。驚いたのか、動揺したのか、それとも他の何かか。それはわからない。わからないが、そんなことはレンにはどうでもいいことだった。
 唇に触れた傷痕の下に、とくとくと脈打つ血の流れをレンは感じる。赤く熱い、嘉神の命の流れ。
 嘉神の手を握ったままの手を握る力をほんの少し、強くする。
――わたしは慎之介の傍にいる。忘れないで……
 祈るように、すがるように。レンは心に囁く。

「……そう、だな」

 嘉神がそう呟いたのはレンが口づけてどれほど経ってからのことだったろうか。とても長かったのかもしれない。ほんの数秒しか経たなかったのかもしれない。
 嘉神の左手が、レンの背に触れた。
「レンはここにいる……」
 囁かれた言葉に、レンは顔を上げる。上げたそこには、陰の消えた嘉神の碧い目。その頬には薄く朱が走っている。
「心配させたな。すまん」
――いつもの、慎之介。
 ぎゅっ、とレンは嘉神に抱きつき、再び首筋に顔を埋めた。嘉神の喉が小さく震える。笑ったのだ。苦笑と困り笑い、そして何か観念した笑いが大部分を占めてはいたが、それでも笑ったことには間違いない。
――よかった……
 嘉神に自分の想いが通じたことが、嘉神が自分を見ていることがレンには嬉しい。
 だから、もう一つ。
 嘉神の傷痕にレンは口づけを落とした。

――傍にいるわ。ずっと、慎之介の傍に。
 

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